時間を交換する
初の投稿となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
翌朝、片桐義雄はふたたび飛行場を訪れた。
昨日の模擬空戦で、彼はマルセルに何度も背後を取られた。
相手機を追い、追いつこうとし、いつの間にか自分のほうが追われている。
その繰り返しだった。
マルセルは、義雄にもう一度やるかと尋ねた。
ただし、条件をひとつ提示された。
「今日は、私を追わないでください」
通訳が伝える。
「追わなければ、どうやって攻撃するのです」
義雄が尋ねると、マルセルは空を指さした。
それから、飛行場の砂地に二本の線を描いた。
「あなたは、敵機が今いる場所へ機首を向ける」
一本目の線を指す。
「しかし、敵機はそこに留まらない」
二本目の線を、最初の線の前方へ伸ばす。
「だから、敵機が次に通るであろう場所へ向かう」
義雄は砂の上の線を見下ろした。
「そこを叩ける位置へ、自分の機体を置けと」
マルセルがうなずいた。
「そして、撃ったら離れる」
義雄は黙っていた。
言葉にすれば簡単だった。
しかし、実際に相手機を前にすれば、目はどうしてもその姿を追う。
そこにいる敵を見て、そこへ機首を向ける。
それが、これまで義雄が身につけてきた空戦だった。
二機のBf109が滑走路を離れた。
義雄は昨日と同じように先に上昇した。
スロットルを開き、速度を維持する。
操縦桿を引きすぎない。
高度を取るために機首は上げるが、速度は捨てない。
右手で操縦桿をわずかに引き、左手でスロットルを調整する。
機体は速度を抱えたまま上昇していった。
マルセルの機体が、義雄の左前方を横切る。
義雄は反射的に操縦桿を左へ倒しかけた。
相手機の後ろへつこうとしたのだ。
しかし、そこで入力を止めた。
追うな。
マルセルの言葉が、操縦桿を握る右手の中に残っている。
義雄はスロットルを維持した。
機体を左へ傾ける。
方向舵を合わせる。
しかし、相手機の後ろには入らない。
マルセルの機体が旋回していく。
義雄はその後ろを追わず、機体が次に通るであろう位置を見下ろせる場所へ向けて上昇した。
速度を高度へ変えながら、相手の旋回の内側へ先回りする。
視界の端で、マルセルの機体が動いた。
義雄は操縦桿をわずかに右へ倒した。
補助翼で機体を傾け、フットバーを踏んで方向舵を合わせる。
機首を、相手がいる場所ではなく、その先へ向ける。
相手機が照準器へ入るのを追って待つのではない。
光像式照準器を、相手機が通るであろう位置へ置く。
そこで初めて、偏差を取る。
マルセルのBf109が、照準器の前を横切った。
義雄は射撃ボタンへ指をかけた。
実弾は積んでいない。
機影を照準器の中心へ捉えた瞬間、義雄は咽喉マイクで吠えた。
「ダダダダダッ」
模擬射撃の申告だった。
しかし、義雄は追わない。
できるだけ速度を保ちながら上昇し、離脱する。
マルセルの機体が、義雄の右下を抜けた。
義雄は機体を反転させたい衝動を抑えた。
相手はまだ近い。
追えば、もう一度攻撃できるかもしれない。
しかし、それをやれば昨日と同じになる。
義雄は機体を水平へ戻し、ふたたび速度を乗せた。
二度目の交差では、マルセルが先に仕掛けてきた。
義雄は相手機の機首を見た。
機体は、今いる場所から必ずどこかへ向かう。
その行き先を読む。
相手の飛行線を予測し、そこを叩ける位置へ自分の機体を置く。
今度は、マルセルの機体が義雄の前を横切った。
義雄は無理な追随のために操縦桿を引きすぎなかった。
速度を殺さぬよう、補助翼で機体を傾け、方向舵で機首を合わせる。
相手機の後ろではなく、前方へ照準を置く。
しかし、射撃できる位置へ入る前に、マルセルの機体が上へ抜けた。
義雄は追わなかった。
スロットルを保ち、機体を上昇へつなげる。
マルセルは、またしても義雄の前から消えたが、射撃機会を得ることはできなかった。
数度の交差を繰り返したあと、地上から帰投の指示が入った。
二機は基地へ戻った。
*
着陸後、マルセルは義雄のところへ歩いてきた。
「昨日よりよかった」
通訳が伝える。
「一度だけです」
義雄が答えた。
「一度できれば十分です」
「見越し射撃というのは、あれほど難しいものですか」
マルセルは少し考えてから、うなずいた。
「難しい。敵機の速度、角度、自分の速度、距離。そのすべてを、ほとんど一瞬で読む必要があります」
彼は砂地にしゃがみ込み、ふたたび線を描いた。
「いつでもできるとは思わないほうがいい」
義雄は黙って聞いた。
「では、どうするのです」
マルセルは義雄の顔を見た。
「近づく」
「近づいて、撃つ」
「そうです。ただし、追わない」
マルセルは砂の上に描いた線を指でなぞった。
「速度と高度を使って、一度だけ近づく。撃てる距離まで詰める。撃ったら離れる」
義雄は、今日の飛行を思い返した。
偏差を取って射撃位置へ入れたのは、一度だけだった。
もし相手が別の動きをしていたら、あの一撃も成立しなかっただろう。
見越し射撃は高等な技術だった。
それだけに頼るわけにはいかない。
「あなたは、曲がることが上手い」
マルセルが言った。
義雄は顔を上げた。
「だからこそ、曲がらないことを覚えたほうがいい」
それだけ言うと、マルセルは飛行場の反対側へ歩いていった。
別の訓練へ呼ばれていた。
義雄は、その背中をしばらく見送った。
*
その日の午後、義雄は別の士官に呼ばれた。
飛行場脇の建物に入ると、窓際に一人の男が立っていた。
背が高い。
義雄より頭ひとつ分ほど上にある。
軍服を着ているが、前線の戦闘機操縦者というより、機体と書類を相手にする人間の雰囲気があった。
「カール・ヴェーバー少佐です」
通訳が紹介した。
「片桐中尉。あなたの飛行を拝見しました」
「お恥ずかしいところを」
「昨日より、機体の使い方が変わっていました」
義雄はヴェーバーを見た。
「分かりますか」
「機体は、操縦者の考えを隠してはくれません」
ヴェーバーはそう言って、窓の外のBf109へ目を向けた。
「あなたは、あの機体をどう思いますか」
「速いです」
「それだけですか」
義雄は少し考えた。
「速度を失わせないように、操縦者の動きを制限している」
ヴェーバーは黙っている。
「操縦桿は低速では軽い。しかし、速度が乗ると急に重くなる。雑に引けば機首は上がるが、機体はすぐに速度を失う。方向舵も敏感です。足の入力を誤れば、機首が大きく振れる」
義雄は、朝の離陸を思い出した。
滑走路の上をみっともなく蛇行したことまで思い出した。
「機体が操縦者に合わせるのではない。操縦者のほうが、機体に合わせなければならない」
ヴェーバーが、わずかに笑った。
「あなたは、戦闘機を兵器としてだけで見ていない」
「兵器であることに変わりはありません」
「それでも、機体が何を嫌がるかを常に考えている」
義雄は返事をしなかった。
ヴェーバーは、窓の外の機体を見たまま続けた。
「私も、機械を道具以上のものだと思っているわけではありません」
「では?」
「道具には、扱い方があります。扱い方を間違えれば、本来の力を発揮しない。人間の側が、それを理解する必要がある」
義雄は少佐の言葉を聞きながら、Bf109の操縦席を思い出していた。
小さく、狭く、速い機体。
操縦者に合わせるのではなく、操縦者へ合わせ方を要求する機体。
そのとき、ヴェーバーが義雄の腕時計に目を留めた。
「その時計は、長く使っているのですか」
「ええ。日本の精工舎のものです」
「精工舎……」
ヴェーバーの目の色が、わずかに変わった。
「実物を見るのは初めてです」
彼は、物欲しげな目で義雄の腕を見た。
ただし、値踏みする目ではない。
機械の構造を知り、珍しいものを手元に置き、その来歴まで含めて楽しむ人間の目だった。
「私は時計や計器を集めています。精密な機械は、国によって性格が違う」
「時計にも性格が?」
「ええ。作り手の考え方が、部品の一つ一つに表れるのです」
ヴェーバーは、精工のケースに残った傷を見た。
「これは、店に並んでいたままのものではない。あなたが使ってきたものですね」
「長く使っています」
「それがいい」
ヴェーバーは、少年のように少し笑った。
「ドイツでは、日本の精工舎の時計は珍しい。しかも、あなたの腕に馴染み、あなたの飛行を知っている」
ヴェーバーは、自分の腕時計のベルトを外した。
黒い文字盤。
大きなケース。
縁に細かな刻みの入った回転ベゼル。
その上には、基準位置を示す小さな三角板が据えられている。
竜頭の上下には、クロノグラフを操作する二本のプッシャーが突き出していた。
「チュチマ・グラスヒュッテ フリーガークロノグラフ」
ヴェーバーが言った。
「我が国で作っている飛行用です。時間を測る機械としては、よくできている」
義雄は時計を見た。
「高価なものでは?」
「安くはありません」
ヴェーバーは、外したチュチマを手のひらに載せた。
「しかし、まだ新しい。よくできた時計ですが、私と過ごした時間は少ない」
義雄は、自分の精工へ目を落とした。
「こちらは、ずいぶん使い込まれている」
「長く使っています」
「それなら、あなたの時間を知っている」
妙な言い方だった。
だが、義雄には意味が分かった。
ヴェーバーは、ただ珍しい時計を欲しがっているのではない。
人に使われ、その人間の時間を刻んできた機械を欲しがっている。
「もし差し支えなければ」
ヴェーバーが言った。
「あなたの時計と、私の時計を交換しませんか」
義雄は、すぐには答えなかった。
「私の精工と、これを?」
「そうです」
「釣り合いません」
「値段の話なら、釣り合わないでしょう」
ヴェーバーは穏やかに言った。
「だから、売買ではなく交換なのです」
「なぜ、私の時計を?」
「今日の飛行を見たからです」
義雄は顔を上げた。
「あなたは、機体の速さだけを見ていない。機体が何を許し、何を嫌がるかを見ている」
ヴェーバーはチュチマを見下ろした。
「私の時計も、ただの道具として扱ってほしくない」
「それは、少佐が使い続ければよいのでは?」
「私は、これを大切に扱ってきました。しかし、あなたの精工には、あなたと過ごした時間がある」
ヴェーバーは、義雄の腕を指した。
「時計そのものの価値ではありません。そこに刻まれた時間の価値です」
義雄は腕時計を見た。
傷のついたケース。
使い込まれた革ベルト。
長く見慣れた文字盤。
その時計を外すことに、思っていたより強い抵抗があった。
買ったときのことを思い出す。
初めて腕に着けた日のこと。
飛行場へ持ち込み、震動の中で何度も時刻を確かめたこと。
時刻が遅れれば調整に出し、革帯が傷めば取り替えた。
義雄の飛行を知っているというヴェーバーの言葉は、決して大げさではなかった。
精工は、義雄が空を飛んできた時間を、同じ腕の上で刻み続けていた。
だが、目の前の男は、これを高価な外国製品との交換材料として見ているのではない。
傷も来歴も含めて、この時計を欲しがっている。
義雄が大切にしてきた時間ごと、引き受けようとしている。
「少佐が、これを使うなら」
義雄は精工のベルトへ指をかけた。
「交換に応じます」
ヴェーバーは、すぐには手を出さなかった。
「よろしいのですか」
「惜しくないと言えば、嘘になります」
義雄は精工の文字盤を、もう一度見た。
「ですが、少佐になら預けられる」
「預かるのではありません」
ヴェーバーが言った。
「私の時間をあなたへ渡し、あなたの時間を私が受け取るのです」
義雄は、しばらく黙っていた。
やがて、精工を腕から外す。
ヴェーバーは、チュチマを差し出した。
二人は、互いの時計を手に取った。
義雄の手のひらに、チュチマの重みが乗る。
大きい。
冷たい。
それなのに、妙に手に馴染む。
ケースの厚みも、革ベルトの硬さも、飛行服の袖口から簡単には逃げない道具として作られている。
義雄は、ベゼルの三角板を指先で動かしてみた。
細かな刻みを越える感触とともに、基準位置がゆっくり移っていく。
時間を読むだけではない。
時間を置き、時間を測り、時間の流れそのものを操縦の材料にするための時計だった。
「なるほど」
思わず声が漏れた。
「気に入りましたか」
「ええ」
義雄はチュチマを腕に着けた。
革ベルトを締める。
ケースの重みが、手首の上に明確に乗った。
精工とは違う。
軽く寄り添う時計ではない。
こちらへ機能を差し出し、使えと要求してくる時計だった。
「機械として、気持ちがいい」
義雄は小さく呟いた。
ヴェーバーは笑った。
「それは、時計に対する褒め言葉ですか」
「最大級の」
ヴェーバーも精工を腕に着けた。
文字盤を眺め、竜頭へ指を触れる。
それから腕を返し、ケースが袖口へ収まる位置を確かめた。
「よい時計です」
「古いものですが」
「だからよいのです」
ヴェーバーは、もう一度文字盤へ目を落とした。
「壊さないように使いましょう」
義雄はチュチマを見下ろした。
腕の上にあるだけで、これまで使ってきた精工とは違う時間が流れているように感じられた。
*
その晩、義雄は宿舎の机で、何度も新しい時計を見た。
意味もなくクロノグラフを作動させては、停止させ、針を零へ戻してみる。
中央の針が動き出す。
右側のプッシャーを押せば止まり、もう一方を押せば真上へ戻る。
ベゼルの三角板を分針へ合わせ、経過した時間を読んでみる。
測るべきものなど、何もない。
それでも、指先で操作するたび、時計が正確に応えることが面白かった。
裏蓋へ耳を当てる。
小さな音が、規則正しく続いている。
精工より大きく、重く、扱える機能も多い。
だが、複雑な機械であることを誇るようなところはなかった。
必要なものを、必要な場所へ置いただけの姿をしている。
義雄は飛行服の袖を下ろし、もう一度上げた。
厚いケースは袖口に引っ掛からず、すぐに文字盤が見える。
「よくできている」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
明日からは、帰国の準備が始まる。
日本へ戻れば、また自分の部隊で飛ぶ。
九七戦に乗り、ここで学んだことを伝えなければならない。
敵機の後ろを追わない。
速度と高度を使って一気に近づく。
偏差射撃は、できるときに使う。
しかし、それに固執しない。
撃てる距離まで詰め、無理な追随はせず、撃ったら離れる。
それを言葉だけではなく、自分の飛び方で示す。
義雄は腕時計を見た。
チュチマは静かに針を進めている。
精工は、もう自分の腕にはない。
しかし、失ったようには感じなかった。
交換したのは、時計だけではない。
互いに大切にしてきた時間を、一つずつ預け合ったのだ。
やがて義雄はドイツを発った。
腕には、まだ見慣れない重みがあった。
時計の針は、ドイツへ来る前と同じように進んでいる。
ただ、義雄の時間だけが、もう以前とは違っていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




