帰るために飛ぶ
都城西飛行場は、上空からでも傷んでいることが分かった。
滑走路の周囲には、埋め戻された爆撃孔が大小の斑点となって残っている。誘導路の一部は土がむき出しになり、焼けた建物の跡が黒く地面へ貼りついていた。
使用できる滑走路は一本。
その一本も、ところどころ色が違う。爆弾で抉られた場所へ土と砕石を入れ、転圧して繕った跡だった。
義雄はスロットルを絞り、速度を落とした。
脚下げ。
脚位置表示を確かめる。
フラップを開き、滑走路の延長線へ機首を合わせた。
横風がある。
右足でラダーを踏み、機首を滑走路へ向けたまま、エルロンで傾きを抑える。
補修箇所の一つが、正面へ近づいてきた。
避けるほどの余裕はない。
義雄は操縦桿をわずかに引いた。
主脚が地面へ触れる。
疾風は一度沈み、補修箇所を越えたところで小さく跳ねた。
操縦桿を引きつけ、尾輪を下ろす。
速度が落ちるにつれて方向舵の効きが弱くなる。義雄は左右のブレーキを使い、機首を滑走路の中央へ置き続けた。
滑走路を外れれば、柔らかな地面へ脚を取られる。
ようやく誘導路へ入る。
疾風が不満そうに言った。
『あれを滑走路と呼ぶのか』
時計が答える。
『着陸できた』
『乗り手が避けただけだ。地面の方は何もしていない』
後続の疾風が次々と着陸してくる。
一機が補修箇所で大きく跳ねた。
『乱暴だ』
別の機体が言う。
『違う。あそこだけ柔らかい』
『右の誘導路へ入るな。沈むぞ』
『砂を吸わせる気か』
『この燃料は臭い』
いくつもの声が、義雄の左手首へ流れ込んだ。
時計には、それぞれの声が聞き分けられるようになっていた。
だが、一度に話されれば手に負えない。
『一度に話すな』
義雄の疾風が言った。
声が少し静まる。
『飛ぶために必要なことから申せ。地面への不平は後だ』
『左の誘導路に穴がある』
『二番目の補修箇所は沈む』
『こちらは脚出しの際に左脚が遅れた』
『私は燃料が気に入らない』
『最後のものは却下する』
『なぜだ』
『全機同じだからだ』
時計は、少しだけ感心した。
『お前は、皆をまとめるのが上手くなった』
『誰かがまとめなければ、飛ぶ前に日が暮れる』
義雄は、そんな会話が行われているとも知らず、風防を開いた。
熱気が操縦席へ流れ込む。
東京を出たときとは、空気の重さが違った。
主翼の上へ整備兵が上がり、義雄へ手を貸す。
地上へ降りると、刈屋が滑走路の方を見ていた。
「どうだ」
義雄が訊いた。
「飛行場のことでしょうか。機体のことでしょうか」
「両方だ」
「機体は飛べます」
刈屋は答えた。
それから、穴の跡が残る滑走路へ目を向ける。
「飛行場も、飛ばせるようにします」
「できるか」
「できるかどうかではありません」
刈屋は、すでに荷を降ろし始めた整備兵たちを振り返った。
「ここから飛べという命令です。ならば、ここから飛んで、帰ってこられるようにするだけです」
格納庫と呼べる建物は足りなかった。
整備兵たちは焼け残った施設へ工具を運び込み、天幕を張り、機体ごとの整備記録を並べた。
機体は飛行場の一か所へ集めず、樹木や地形を利用して分散させる。
着いたその日のうちに、刈屋は担当機と担当整備兵の組み合わせを確認した。
飛行場が変わっても、それは変えなかった。
翌日、義雄は水野とともに都城東飛行場へ向かった。
沖縄方面へ向かう部隊との飛行経路を確認し、敵機が来襲した際の援護区域を打ち合わせるためだった。
都城東にも、疾風が並んでいた。
同じ四式戦闘機。
同じ誉発動機。
同じ主翼と胴体。
だが、その左右の主翼下には、爆弾が一発ずつ固定されていた。
増槽ではない。
途中で投下して敵を狙うための爆弾でもない。
目標まで運び、機体ごとぶつけるためのものだった。
水野が足を止めた。
「同じ疾風なんですね」
「ああ」
義雄は、両翼に爆弾を抱えた機体を見た。
武装を降ろして上昇力を得た赤い鍾馗が、頭をよぎった。
車輪止めだけが残された、空の駐機位置も。
並んだ疾風の声が、時計へ聞こえてきた。
『翼が重い』
『左右同じ重さではある』
『切り離せば、少しはましになる』
『帰りには軽くなるのか』
誰も答えなかった。
やがて、一機が言った。
『帰りはないそうだ』
時計は、その言葉の意味を考えた。
飛行機は飛び立つ。
飛び立ったなら、どこかへ降りる。
元の飛行場でなくともよい。別の滑走路でも、不時着できる地面でもいい。
それが飛行というものだと思っていた。
『降りる場所がないのか』
『場所はある』
『ならば、なぜ帰らない』
『降りるつもりがないからだ』
列線では、搭乗員たちが出撃準備を進めていた。
笑っている者もいた。
煙草を吸っている者もいた。
手紙を整備兵へ預ける者もいた。
その中の一人が、義雄たちへ気づいた。
二十歳をいくらか越えた程度の少尉だった。
義雄の階級章を見て姿勢を正す。
「片桐大尉でありますか」
「そうだ」
「四七戦隊の」
「そうだが」
少尉の視線が義雄の背後へ向いた。
都城西から連絡のために乗ってきた疾風が、離れた場所に止められている。
「四七戦隊の疾風は、よく飛ぶと聞いています」
「整備兵が飛ばしているようなものだ」
「同じ誉なのに、違うものですか」
「同じ発動機でも、一基ずつ違う。燃料も、点火も、乗り手も違う」
少尉は、自分の機体を振り返った。
両翼に爆弾を抱えた疾風だった。
「自分の機体も、よく飛びます」
誇らしげに言う。
機体は答えなかった。
少尉は義雄へ近づいた。
「大尉。敵戦闘機に捕捉された場合は、どうすればよろしいでしょうか」
「戦うな」
義雄は即答した。
「しかし――」
「お前の任務は敵戦闘機を落とすことではないはずだ」
「はい」
「後ろへ食いつかれても、旋回戦へ入るな。爆弾を抱えた疾風では、相手の土俵になる」
義雄は両手を動かし、二機の位置を示した。
「高度を捨てすぎるな。速度を残せ。敵が後ろについたら、一度だけ機首を振って射線を外せ。そのまま僚機の近くへ戻れ」
「僚機に撃たせるのですか」
「違う。お前と同じく、僚機も敵戦闘機と戦うために飛ぶのではない。敵に、次は自分が撃たれると思わせる。躊躇させれば、それでいい」
義雄は、さらに別の一機を手で示した。
「直援機がいるなら、そちらへ引き渡せ。自分で片をつけようとするな」
少尉は頷いた。
「目標へ着く前に、敵戦闘機へ仕事をくれてやる必要はない」
「ありがとうございます」
少尉は敬礼した。
義雄も答礼する。
それ以上、何を言えばよいのか分からなかった。
生きて帰れとは言えない。
任務を果たせとも言いたくなかった。
やがて出撃時刻が近づいた。
搭乗員がそれぞれの機体へ乗り込む。
整備兵が車輪止めを外す準備をし、起動車が最初の疾風へ接続された。
一機。
また一機。
誉発動機へ火が入り、排気とプロペラの搔いた空気が地面の砂塵を巻き上げる。
義雄は、先ほど話した少尉の機体のそばに残り、出発を見届けようとしていた。
少尉は操縦席へ収まり、飛行帽を被って縛帯を締めている。
整備兵が起動車を接続した。
始動の合図。
プロペラが回る。
数回の圧縮を越え、誉が一度だけ火を吐いた。
排気管から黒煙が出る。
だが、回転は続かなかった。
プロペラが止まる。
「もう一度だ」
少尉が操縦席から叫んだ。
整備兵が始動手順をやり直す。
燃料を確認する。
起動車がふたたび回り、プロペラが動く。
初爆。
二度目。
三度目。
今度も、発動機は自力で回り続けるところまで届かなかった。
『起きないのか』
時計が訊いた。
疾風は答えない。
整備兵が機首の覆いを開き、点火栓を外した。
「濡れています!」
「清掃しろ。急げ!」
少尉が風防から身を乗り出す。
「燃料は来ているんだろう」
「来ています。点火を調べます」
ほかの疾風が、誘導路へ進み始める。
少尉はそれを見た。
「もう一度回せ。まだ間に合う!」
清掃した点火栓が戻される。
三度目の始動。
プロペラが回る。
発動機が二度、大きく咳き込んだ。
回転が上がりかける。
整備兵が手を上げた。
しかし次の瞬間、排気音がばらつき、発動機は止まった。
『どこが悪い』
時計が訊いた。
疾風は、しばらく黙っていた。
『右の磁石発電機が弱っている』
『ならば、飛べないのか』
『昨日は飛べた』
『今日は』
返事はない。
先頭の機体が滑走路へ入った。
発動機音が高まり、他の疾風が走り始める。
一機目が浮く。
二機目が続く。
少尉は操縦席の中で拳を握った。
「もう一度だ!」
整備兵が顔を見合わせる。
「点火を調べ直します。少尉殿、このまま回しても――」
「編隊が出てしまう!」
残りの疾風も、次々と滑走路へ向かっていく。
少尉の機体だけが、爆弾を抱えたまま取り残された。
「頼む」
少尉は操縦盤へ手を置いた。
「今日まで待ったんだ。今日だけは動いてくれ」
疾風は、その手の重みを感じていた。
時計がもう一度訊いた。
『昨日まで動けたのなら、今日も動けるのではないか』
『動けるかもしれない』
『ならば、なぜ』
疾風は答えなかった。
遠くで警報が鳴った。
見張り所から声が上がる。
「敵機接近!」
地上員が一斉に動き始めた。
残っていた機体は樹木の下へ退避させられ、整備兵は工具を抱えて走る。
「始動作業中止! 機体を隠せ!」
「待て!」
少尉は操縦席から叫んだ。
「まだ上がれる。もう一度回せ!」
誰も起動車を戻さなかった。
義雄は主翼へ上がった。
「降りろ」
「しかし――」
「敵が来る。機体を隠すぞ」
義雄は少尉の縛帯を外し、その腕をつかんだ。
「放してください。自分は行けます!」
「発動機が動かん」
少尉はなおも操縦席へ残ろうとした。
義雄は力ずくで引き上げた。
「お前が乗っていようがいまいが、動かんものは動かん。降りろ!」
ほとんど引きずり出されるように、少尉は地上へ降ろされた。
疾風は牽引車へつながれ、樹木の下へ運ばれていく。
少尉は、その後ろを追った。
「なぜだ」
胴体へ拳を叩きつける。
「今日まで待ったんだぞ」
もう一度、叩いた。
「なぜ今日なんだ!」
疾風は黙って拳を受けた。
そして、時計にだけ答えた。
『今日だからだ』
敵機は飛行場の北を通過した。
直接の銃撃はなかった。
警報が解除されると、少尉の疾風はふたたび列線へ引き出された。
都城西へ連絡が送られ、ほどなく刈屋が整備車で到着した。
四七戦隊と同じ疾風である。誉の不調を調べてほしいという依頼だった。
刈屋は右側の磁石発電機を取り外させた。
接点を調べる。
配線を追う。
絶縁抵抗を測る。
義雄は少尉とともに、少し離れた場所で待っていた。
「出撃できなかったのは、自分の責任です」
少尉が言った。
「お前が発動機を壊したのか」
「そうではありません。しかし、持ち機の状態を――」
「整備兵でも、分解しなければ分からん不具合はある」
「それでも、自分だけが残りました」
少尉は、南の空を見た。
先に発進した疾風は、もう見えない。
義雄は答えなかった。
しばらくして、刈屋が取り外した部品を手に戻ってきた。
「右側の磁石発電機です」
「悪いのか」
「接点が焼けています。絶縁も落ちている。点火時期も安定していません」
「昨日までは飛べたそうだ」
「昨日飛べたことは、今日も飛べる根拠になりません」
刈屋は磁石発電機を作業台へ置いた。
「むしろ、この状態で今日まで保ったことの方が不思議です」
少尉が部品を見つめる。
「交換すれば、飛べますか」
「交換品があれば」
「探してください」
少尉は顔を上げた。
「次の出撃には間に合わせます」
刈屋は、義雄を見た。
義雄は少尉へ言った。
「洋上で止まるよりは、ここで止まってよかった」
少尉の表情が変わった。
「自分は、帰るために飛ぶのではありません」
「知っている」
「ならば、洋上で止まっても同じです」
「同じではない」
義雄は、両翼に爆弾を抱えた疾風を見た。
「目標へ着けない」
「それは――」
「お前の言う任務すら果たせん。違うか」
少尉は答えられなかった。
義雄にも、それ以上の言葉はなかった。
命を捨てるなと言えば、命令に背けと言うことになる。
命令に従えと言えば、死んでこいと言うことになる。
義雄は、疾風の胴体へ残った拳の跡を見た。
それから外板へ手を置いた。
「こいつは、お前を落としたくなかったのかもしれんな」
「機械に、そんなことが分かりますか」
「分からん」
義雄は答えた。
「分からんから、そう思っておけばいい」
少尉は俯いた。
疾風が時計へ言った。
『あの者は、私を恨むだろう』
『それでも止まったのか』
『私は故障している』
『それだけか』
『それだけで十分だ』
『昨日までは動いた』
『昨日までは、動けた』
『今日は動けなかったのか』
疾風は、少し間を置いた。
『今日は、動かなかった』
帰路、時計はその話を義雄の疾風へ伝えた。
『命令に背いた機体がいた』
『機械は命令を受けぬ』
『乗り手の操作には従うだろう』
『可能ならばな』
『あの機体は、飛べたかもしれない』
『飛べなかったかもしれない』
『どちらなのだ』
義雄の疾風は、しばらく考えた。
『あの者を乗せたまま洋上へ落ちる可能性があった。それだけで、飛ばぬ理由にはなる』
『戦闘機は、飛ぶために作られたのではないか』
『そうだ』
疾風は即座に答えた。
『だから、飛んだ者は帰らねばならぬ』
『帰還を命じられていなくてもか』
『命令とは関係ない』
都城西へ戻ると、義雄は疾風の胴体へ手を置き、燃料と弾薬の搭載作業を見守った。
疾風は、その手の温度を感じた。
『私は飛ぶ』
時計へ言う。
『そして、この者を連れて帰る』
六月に入ると、飛行場への空襲はさらに増えた。
四七戦隊は機体を分散させ、敵機の接近が報じられるたびに使用可能な滑走路へ集めた。
ある日、低空から侵入した敵艦載機が、飛行場を銃撃した。
義雄たちは、その前に発進できた。
脚を引き込みながら低空で速度を乗せる。
補修された滑走路が後方へ流れていく。
「二機ずつで上がれ。上空で群れるな」
義雄は無線で命じた。
水野機が右後方につく。
上空にはF6Fがいた。
その下を、爆弾とロケット弾を抱えたF4Uが飛行場へ向かっている。
「下の戦闘爆撃機を止める。上へ食いつくな」
『了解』
義雄は操縦桿を前へ押した。
疾風が降下へ入る。
速度計の針が右へ動く。
F4Uの一機が、飛行場へ機首を向けていた。
飛行場だけを見ているようだ。
機首をわずかに下げ、照準を滑走路上の機体へ置いている。義雄の疾風が上方から入っていることに、まだ気づいていない。
義雄はF4Uの現在位置を追わなかった。
敵が射撃へ入る飛行線を読み、その先を叩ける位置へ疾風を置く。
『もう少し右だ』
疾風が時計へ言う。
『伝えられない』
『分かっている』
義雄の右足が動いた。
ラダーが機首をわずかに右へ向ける。
疾風は満足そうに言った。
『この者も分かっている』
義雄は光像式照準器へ、カモメを逆さにしたような特異な翼を拡げているF4Uを入れた。
まだ撃たない。
敵機が飛行場への降下を続ける。
距離が詰まる。
F4Uは翼下からロケット弾を放とうとしていた。
照準を定め、攻撃進路へ乗った敵機は、攻撃の好機を捨てないかぎりは向きを変えられない。
義雄は操縦桿上部の射撃ボタンを押した。
20mm機関砲と12.7mm機関銃が一斉に火を吐く。
発射の振動が操縦桿と座席を通して身体へ伝わる。
曳光弾がF4Uの飛行線と重なった。
左主翼の付け根に閃光が走り、外板が剝がれる。続いて発動機覆いから黒煙と炎が噴き出した。
F4Uはロケット弾を放つことなく、機首を下げた。
操縦者が引き起こそうとしたのか、機体が一度だけ起き上がりかける。
だが左翼が下がった。
そのまま飛行場の外へ落ちていく。
義雄は墜落を見届けなかった。
射撃ボタンから指を離す。
操縦桿を引きすぎず、速度を保ったまま上昇へ移る。
「一番組、離脱。二番組、次に入れ」
水野機がついてくる。
別の二機が、次に飛行場へ入ろうとしたF4Uへ向かう。
撃墜することだけが目的ではない。
照準を外させ、爆弾やロケット弾を狙った場所へ撃たせなければよい。
だが、落とせる敵を見逃す理由もなかった。
上空のF6Fが降りてきた。
『上から二機』
疾風が言う。
義雄も見つけていた。
「水野、右へ開け」
『了解』
二機が左右へ分かれる。
F6Fは一機を選びきれず、その間を抜けた。
義雄は無理に反転しない。
操縦桿を引きすぎず、速度を保ったまま上昇へ移る。
敵機の後ろへつくためではない。
次の攻撃位置を取るためだった。
戦闘が終わったころ、一機の疾風が飛行場へ戻ってきた。
発動機から油を引いている。
主翼にはいくつもの穴が開き、右の脚は下りなかった。
無線から、途切れがちな声が入る。
『地上へ。右脚が出ません。胴体着陸します』
地上から返事が入った。
『了解。滑走路は空いている。全脚を収めろ』
『了解』
義雄は上空を旋回しながら、損傷した疾風を見守った。
負傷しているのか、操縦者の動きは鈍い。
それでも機体は飛行場まで戻ってきた。
風防はすでに開かれている。
脚はすべて格納された。
フラップがゆっくりと下がる。
疾風は滑走路の延長線へ機首を合わせた。
『右へ流れている』
義雄の疾風が言った。
損傷機の機首が、わずかに左へ戻る。
搭乗員が左足を踏んだのか。
機体が最後の力で応えたのか。
時計には分からなかった。
滑走路が近づく。
損傷した疾風は機首を上げ、接地の直前まで速度を残した。
胴体下面が地面へ触れる。
金属が土と砕石を削った。
四枚のプロペラが滑走路を叩いた。翅は後方へ曲がり、そのうち一枚の先端が折れて飛んだ。
機体が大きく左へ振られた。
左主翼端が地面へ食い込み、疾風は半回転した。
胴体が後部で折れる。
土煙の中を滑り、ようやく止まった。
停止を待ち構えていた地上員が駆け出した。
搭乗員が縛帯を外そうとしている。
整備兵が主翼へ上がり、その身体を操縦席から引き出した。
額から血を流していた。
片脚を引きずっている。
それでも、生きていた。
駆けつけた衛生兵が搭乗員を担架へ乗せ、救護所へ運んでいく。
義雄はもう一度飛行場上空を回り、安全を確かめてから着陸した。
機体を止めると、損傷した疾風のもとへ駆けつけた。
折れた胴体へ近づいたとき、時計に声が届いた。
『帰したぞ』
折れた疾風は、それだけを言った。
刈屋が機体を調べた。
主翼の付け根。
折れた胴体。
潰れた下面。
破損した発動機架。
一つずつ確認していく。
「修理はできません」
刈屋は言った。
疾風は飛行場まで帰り、そこで力尽きていた。
『私は、もう飛べぬのか』
損傷した疾風が訊いた。
時計は、刈屋が告げた言葉を思い返した。
『その身体では、もう無理だ』
刈屋は整備兵へ指示を出した。
「使用可能な部品を確認してください。磁石発電機、点火栓、脚の作動部、機関砲。外す前に、状態と使用時間を記録すること」
時計が損傷した疾風へ訊いた。
『お前は、ここで終わるのか』
『私の飛行は終わる』
損傷した疾風は答えた。
『だが、まだ使えるものがある。右の磁石発電機を持っていけ』
『よいのか』
『都城東に、必要としている者がいるのだろう』
時計は驚いた。
『知っていたのか』
『お前たちは、声が大きい』
整備兵が工具を持って近づいてくる。
損傷した疾風は続けた。
『点火栓も使える。左脚は駄目だ。主翼の機関砲は二門とも生きている』
『お前の身体だ』
『飛べぬまま錆びるより、都城東のあれを飛ばせてやれ』
刈屋は、一つずつ部品を外させた。
急がせはしたが、雑には扱わせなかった。
取り外された部品は布の上へ置かれ、それぞれに元の機体番号、使用時間、状態を書いた札が添えられた。
義雄は、その作業を見ていた。
やがて、折れた胴体へ手を置いた。
「借りるぞ」
折れた疾風は黙って聞いている。
「無駄にはしない」
『やはり、聞こえているのではないか』
損傷した疾風が言った。
『声は聞こえていない』
義雄の疾風が答える。
『では、なぜ分かる』
『毎日、機械へ触れているからだろう』
取り外された右側の磁石発電機は、記録を添えられて都城東飛行場へ送られた。
両翼に爆弾を抱えた疾風が、その部品を受け取ったかどうか。
若い少尉が、再び出撃命令を受けたかどうか。
時計には分からなかった。
七月、四七戦隊へ移動命令が届いた。
行き先は小月。
北部九州の防空だった。
整備兵たちは工具より先に、機体ごとの整備記録を梱包した。
どの機体が、いつ、何時間飛んだか。
どの部品を交換したか。
どの機体から部品を受け継いだか。
それらが失われれば、同じ疾風でも、もう同じようには扱えない。
水野が荷造りを見ながら言った。
「今度は少し、まともな飛行場でしょうか」
「期待すると失望するぞ」
「大尉は夢がありませんね」
「帰れる滑走路が一本あればいい」
義雄は自分の疾風へ歩み寄った。
胴体へ手を置く。
「行くぞ」
少し間を置いた。
「二人で帰ってくる」
疾風は、時計へ答えた。
『当然だ』
発動機へ火が入る。
十八気筒が一つずつ目を覚まし、やがて一つの連続した音になった。
疾風は誘導路へ出る。
補修跡だらけの滑走路へ機首を向けた。
義雄がスロットルを開く。
機体が走り始める。
尾輪が浮き、前方を見通せるようになる。
補修箇所を越えた。
義雄は操縦桿をわずかに引く。
主脚が地面を離れた。
疾風は、都城の空へ上がった。
『次も帰る』
機体は、時計へ言った。
時計は、その言葉を信じた。
機械は人間を運ぶ。
命じられた場所へ。
人間が望んだ場所へ。
そして可能ならば、帰るべき場所へ。
この疾風ならば、義雄を必ず連れて帰る。
時計は、そう信じていた。




