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現代の付喪神は、時計の姿で顕現する。外伝1爺ちゃん編  作者: lemonia


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18/18

脈が止まったあとも

 昭和二十年七月二十八日。


 小月飛行場へ、朝から警戒命令が出ていた。


 北九州へ向かう敵艦載機の大編隊が、豊後水道を越えたという。


 飛行場では、使用できる疾風へ燃料と弾薬が積み込まれた。整備兵たちは発動機覆いを閉じ、脚と操縦翼面を最後にもう一度確かめていく。


 義雄は自分の持ち機の前に立った。


 いつものように左主翼へ手を置く。


 外板には、これまでに塞がれた弾痕と、何度も外された点検覆いの跡が残っていた。それでも疾風は、いま飛ぶための形を保っている。


 義雄は飛行服の内側から、柔らかな布を取り出した。


 左手首のチュチマを外す。


 回転ベゼルの三角板を確かめ、竜頭をゆっくりと巻いた。ぜんまいの張りが指先へ返ってくるところで止める。


 飛行服の袖口で、振動と汗と油にさらされながら、四年近く使われた時計だった。細かな傷は増え、革帯にも汗と油が染み込んでいる。


 義雄は時計のプレキシガラスの風防を布で拭き、側面と裏蓋も丁寧に拭った。


 時を確かめる道具としてだけではなく、共に正しく動き続けるものとして扱ってきた。


 時計は、その手の温度を覚えていた。


 義雄はチュチマを左手首へ戻した。


「今日も頼むぞ」


 時計へ言ったのか、疾風へ言ったのか。


 義雄自身にも、区別はなかったのかもしれない。


 疾風が時計へ言った。


『この者が無茶を始めたら、知らせろ』


『知らせても、主人には聞こえない』


『それでも言え』


『お前が止めればよい』


『操縦するのは、この者だ』


 義雄は二つの機械の会話を知らず、主翼へ上がった。


 操縦席へ身体を収め、縛帯を締める。


 起動車が接続された。


 始動の合図を送る。


 外部動力でプロペラが回り、誉発動機の十八気筒へ火が入った。数回ばらついた排気音が、やがて一つの連続した響きへまとまる。


 刈屋が主翼の脇に立った。


「右脚の出が、左より少し遅れています」


「どのくらいだ」


「通常より二秒ほどです。脚下げは早めにしてください」


「分かっている」


「それから、発動機を回しすぎないように」


「分かっている」


「油温も――」


「脚は早めに出す。回転を上げすぎず、油温を見る」


 義雄は被せるように言って、刈屋の顔を見た。


「これで全部か」


「帰ってくることが残っています」


「それも分かっている」


「無事にです」


「ああ、分かった分かった」


 刈屋が主翼から降りる。


 義雄は風防を閉じた。


 警報が鳴った。


 見張り所から、敵機接近を知らせる赤旗が上がる。


 即応待機の疾風が、二機ずつ誘導路へ進んだ。


 水野機が義雄の右後方につく。


「片桐、発進する」


 義雄は機首を滑走路へ向けた。


 スロットルを開く。


 誉が吠え、疾風が走り始めた。プロペラの反トルクで左へ振ろうとする機首を、右フットバーを踏んで押さえる。


 速度が乗る。


 操縦桿をわずかに前へ倒す。


 尾輪が浮き、滑走路の先を見通せるようになった。


 さらに加速する。


 操縦桿を引く。


 主脚が地面を離れた。


 脚を引き込み、フラップを格納する。低空で速度を乗せてから、義雄は機首を上げた。


 小月の飛行場が後方へ沈んでいく。


 上空には、すでに白い筋がいくつも走っていた。


 艦載機の編隊だった。


 無骨な角張った主翼と胴体に、白い星がある。


 F6Fヘルキャット。


 機体は大きく、火力も防弾も十分に備えている。しかも単機では動かない。


 やすやすと格闘戦に乗ってきた、かつての敵機とは違う。


 一機を追えば、その僚機が後ろへ回る。攻撃を外しても、別の一機が高度を保ったまま次に入る。


 義雄たちが長い時間をかけて身につけた戦い方を、敵は豊富かつ良質な機体と燃料と無線で、ごく当たり前のものとして行っていた。


「水野、離れるな。後ろを追うな」


『了解』


 二機のF6Fが上方から降りてきた。


 義雄は真正面から受けなかった。


 左へエルロンを入れ、機体を傾ける。ラダーで機首の滑りを抑えながら降下し、敵の射線から外れる。


 F6Fの一機が義雄を追い、もう一機が水野へ向かった。


「そのまま引け。俺から離れすぎるな」


 義雄は操縦桿を引きすぎなかった。


 速度を失えば、次の攻撃を受けるだけになる。


 追ってきたF6Fが射撃した。


 曳光弾が疾風の左後方を抜ける。


 義雄は右へ小さく機首を振り、射線をずらした。そのままバレルロールを一回入れ、敢えて減速する。


 F6Fが過速で義雄の前へ出た。


 だが、撃てる時間は短い。


 義雄は機首を上げ、光像式照準器へ敵機の飛行線を入れた。


 現在位置ではない。


 次に通る位置へ、照準環を置く。


 ラダーをわずかに踏む。


『そこだ』


 疾風が言った。


 義雄の右足は、同じ瞬間に動いていた。


『主人は、お前の話を聞いている』


 時計が言った。


『聞こえてはいない。だが、分かっている』


 疾風が答えた。


 義雄は操縦桿上部の射撃ボタンを押した。


 20mm機関砲と12.7mm機関銃が火を吐く。


 曳光弾がF6Fの前方へ走り、発動機覆いから主翼付け根にかけて薙いだ。


 破片が飛ぶ。


 F6Fは黒煙を引き、左へ機首を落とした。


 義雄はそれ以上追わない。


 射撃ボタンから指を離し、操縦桿を戻す。速度を残しながら上昇へ移る。


「水野、戻れ」


『戻っています』


 水野機が右下から上がってきた。


 その後方に、もう一機のF6Fがいた。


 義雄は操縦桿を左へ倒した。


 疾風が反転する。


 水野機とすれ違う進路へ入る。


 F6Fは水野だけを見ていた。


 距離が詰まる。


 義雄は敵機の進路を横切るように機首を置いた。


 一連射。


 F6Fは射撃をやめ、右へ逃げた。


 追わない。


 義雄は緩く左へ回り、水野機と進路を合わせた。


 水野が義雄の右後方へ戻る。


 その上から、別の二機が降りてくる。


「散開するな。二機で抜ける」


 敵の攻撃を一度しのげば、そのまま速度を残して離脱できる。


 義雄はそう判断した。


 だが、F6Fは思っていた以上に速度を残していた。


 二機は接近して確実に狙うことをせず、まだ遠い位置から射撃を始めた。一機あたり六挺の12.7mm機関銃が、二機の疾風をまとめて捉えるように火線を広げる。


 曳光弾が左右から交差した。


 疾風の主翼が震えた。


 金属を叩く音が、座席と操縦桿を通して伝わる。


 左主翼に穴が開いた。


 続いて、操縦席の右側で何かが弾けた。


 跳弾か、砕けた外板か、折れた構造材か。


 熱い破片が義雄の脇腹へ入った。


 息が止まる。


 右手の力が一瞬抜けた。


『義雄』


 時計が呼んだ。


 時計は、今日初めて義雄の名を呼んだ。


 義雄には聞こえていない。


 それでも、姿勢を立て直した。


 操縦桿を握り直す。


 左足を踏み、機首の滑りを止める。


 疾風が言った。


『起きろ』


 義雄は頭を振った。


 視界の端が暗い。


 水野機が横へ並んだ。


『片桐大尉、聞こえますか』


「聞こえている」


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


『機体から煙が出ています。右側です』


「油圧はある。発動機も回っている」


『帰りましょう』


「そのつもりだ」


 義雄は機首を小月へ向けた。


 敵機はまだ上にいる。


 ここで速度を失えば、帰れない。


 疾風は右へ傾こうとしていた。義雄はエルロンで押さえ、ラダーを細かく使って機首を保つ。


 操縦桿が、いつもより重い。


『右の補助翼が傷んでいる』


 疾風が時計へ言った。


『伝えろ』


『義雄、右の補助翼だ』


 時計は叫んだ。


 義雄には届かなかった。


 それでも義雄は、右へ傾こうとする力に逆らいすぎなかった。


 必要な分だけ左へ当て、速度を落とさぬよう機首を下げる。


『分かっている』


 疾風が言った。


 高度が少しずつ下がっていく。


 水野機が左前方へ出た。


 いまは前を飛び、手を引いてくれる機体が必要だった。


 義雄は水野機の尾翼を見た。


 遠ざかっているのか、視界が狭まっているだけなのか、分からない。


 油圧計の針が小さく揺れた。


 誉の音にも、わずかな乱れが混じり始める。


 回せば壊れる。


 絞れば届かない。


 義雄は、発動機がまだ応える範囲でスロットルを保った。


 海面が近い。


 降下を止めようとして操縦桿を引く。


 速度計の針が落ち始めた。


 義雄は、操縦桿を少し戻した。


『それでいい。これ以上は上げるな』


 疾風が時計へ言った。


 時計は義雄へ叫んだ。


『高度ではなく、速度を残せ』


 義雄には聞こえていない。


 それでも、機体の沈みを完全に止めようとはしなかった。


 わずかに高度を失いながら、失速しない速度を保つ。


 水野機が左へ小さく翼を振った。


 義雄はその動きを追った。


 海岸線が近づく。


 陸地へ届けば、飛行場は遠くない。


 そう考えたところで、意識が一度途切れた。


 機体がゆっくり右へ傾く。


『義雄』


 時計が呼ぶ。


『起きろ。必ず連れて帰る』


 疾風は、傾いた機体の重みを操縦桿へ返し続けた。


 義雄の指がゆっくりと震えながら動いた。


 操縦桿を握り直す。


 左へエルロンを当てる。


 機体の傾きが、わずかに戻った。


「寝てない」


 誰に答えたのか、自分でも分かっていなかった。


 小月の滑走路が見えた。


 細い灰色の線が、霞んだ視界の中に伸びている。


 届いたのではない。


 まだ、そこまで飛ばなければならない。


 義雄はスロットルを絞った。


 発動機の回転が落ちる。


 右手が滑る。


 手袋に血がついていた。


「水野、燃料残量は」


『まだ待てます』


「なら上で待て。俺が止まった場所を見て、それから降りろ」


 少し間があった。


『了解』


 水野機はすぐには離れなかった。


 義雄の疾風の下へ回り込み、左右の主脚を目視する位置へつく。


 義雄は脚下げレバーを操作した。


 空気抵抗が増える。


 左脚の表示灯が点いた。


 右脚の表示が変わらない。


『右脚が途中で止まっている』


 疾風が言った。


 義雄は一度、脚を戻した。


 油圧計を見る。


 針が低い。


 もう一度、脚下げ。


 左脚が出る。


 右脚は途中で止まった。


 義雄は機体を左へ滑らせ、続いて右へ振った。


 右脚へ空気と慣性の力を掛ける。


 衝撃が一度、操縦席へ返った。


 右脚の表示灯が点いた。


『入った』


 疾風が言った。


「入ったな」


 義雄も呟いた。


「水野、右脚を見ろ」


 水野機が下から右へ回る。


 脚の位置を確かめ、ふたたび義雄の横へ戻った。


『出ています。見たところ、左右とも定位置です』


「分かった。上で待て」


『了解』


 水野機が上昇し、場周の外側へ離れた。


 義雄はフラップを下げた。


 滑走路の延長線へ機首を合わせた。


 風防を開く。


 風が操縦席へ入り、血と油の臭いを散らした。


 滑走路が近づく。


 疾風は、わずかに右へ傾いたまま降りていく。


 義雄は左へエルロンを当て続けた。


 操縦桿から、傷んだ補助翼の重い反力が返ってくる。


 降下率が大きい。


 義雄はスロットルをわずかに開いた。


 誉が一度、咳き込んだ。


 油圧計の針がさらに下がる。


 それでも回転は続いた。


 滑走路の手前が、機首の下へ入る。


 義雄は操縦桿を引いた。


 反応が遅い。


 疾風が右へ傾く。


 左へエルロンを当てる。


 主脚が地面へ触れた。


 右脚が大きく沈んだ。


 機体が右へ振られる。


 義雄は左足を踏み、左のブレーキを使った。


 疾風は一度、滑走路の端へ向かった。


 左主脚が地面を強く捉える。


 機首が戻った。


 尾輪が落ちる。


 速度が下がる。


 右脚が折れた。


 右翼が地面へ落ち、主翼端が削られた。


 プロペラが滑走路を叩く。


 発動機が止まった。


 疾風は火花と土煙を引きながら滑り、滑走路の脇で停止した。


 地上員が走ってくる。


 刈屋もいた。


 風防へ手を掛け、義雄を呼ぶ。


「片桐大尉!」


 義雄は返事をしなかった。


 刈屋と整備兵が主翼へ上がる。


 縛帯を外す。


 義雄は目を開けた。


 機首の前で、曲がったプロペラが止まっている。


 右翼は地面へつき、脚柱の付け根から油が流れていた。


「刈屋さん」


「喋らないでください。いま降ろします」


 義雄は疾風を見た。


「すみません、壊してしまいました」


 息を継ぐ。


「また飛べるようにしてやってください」


 刈屋は答えなかった。


 答えれば、それが別れの言葉になるような気がした。


 義雄は整備兵たちに抱えられ、操縦席から降ろされた。


 担架へ乗せられる。


 左腕が脇へ落ちた。


 チュチマは、変わらず時を刻んでいる。


 担架が滑走路を横切り、救護所へ運ばれていく。


 疾風の声が追った。


『義雄』


 時計も呼んだ。


『義雄』


 義雄は目を開けなかった。


 飛行場に残る機械たちの声が、時計へ届いた。


『お前の主人はどうした』


『分からない』


『帰ったのか』


『ここへは帰ってきた』


『ならば、なぜ返事をしない』


 私にも分からなかった。


 いや、分かりたくなかった。


 救護所へ入ると、疾風たちの声は届かなくなった。


 私はこれまで、二人の腕で何度も揺れた。


 ヴェーバーの腕で、Bf109の高い発動機音を知った。


 義雄の腕で、鍾馗が速度を乗せるときの震えを知った。


 疾風の誉が、粗い燃料でも飛ぼうとする鼓動を知った。


 機械たちは、いつも語っていた。


 熱い。


 重い。


 そこは痛む。


 もっと速く。


 無理に追うな。


 帰りたい。


 帰してやりたい。


 私は、それを聞いていた。


 しかし、それを義雄へ伝えることができなかった。


 救護所の中で、人間たちの声が飛び交った。


 衣服が切られる。


 金属の器具が触れ合う。


 誰かが脈を測る。


 義雄の脈が弱くなる。


 腕から伝わっていた温度が、ゆっくりと失われていく。


 それでも、私の秒針は進んだ。


 一秒。


 また一秒。


 人間の時間が終わっても、機械の時間は止まらない。


 脈が止まり、刻々と失われていく体温を感じながらも、私はしばらく動いていた。


 それが、いちばん残酷だった。



         *



 やがて義雄の身体は、白い布を掛けられた。


 腕から時計が外された。


 搭乗時に身につけていた品は、一つずつ確認され、小さな箱へ収められた。


 飛行帽。


 手袋。


 認識票。


 そして、チュチマ。


 箱の蓋が閉じられる直前、飛行場から発動機音が聞こえた。


 義雄の疾風ではない。


 別の機体が発進していく音だった。


 義雄の疾風は、折れた右脚を支えられ、滑走路の脇に残されていた。


 刈屋が、その機体を調べている。


 壊れた箇所を一つずつ記録し、使えるものと交換すべきものを分けている。


 あの機体は、また飛ぶかもしれない。


 だが、義雄はもう乗らない。


 箱の中で、私は針を進めた。


 ぜんまいに残った力だけで。


 誰にも届けられなかった声を抱えたまま。


 やがて秒針の動きが鈍くなった。


 一秒ごとの間隔が長くなる。


 最後に、針が止まった。


 暗闇の中で、私は誓った。


 機械は、ずっと人間へ語りかけているのだと。


 そして、私に聞こえるだけでは足りないのだと。


 私は聞いていた。


 だが、伝えられなかった。


 次に目覚めるときがあるのなら。


 そのときこそ、機械の声を人間へ届けよう。


 たとえ、どれほど長い時間が必要になっても。


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