脈が止まったあとも
昭和二十年七月二十八日。
小月飛行場へ、朝から警戒命令が出ていた。
北九州へ向かう敵艦載機の大編隊が、豊後水道を越えたという。
飛行場では、使用できる疾風へ燃料と弾薬が積み込まれた。整備兵たちは発動機覆いを閉じ、脚と操縦翼面を最後にもう一度確かめていく。
義雄は自分の持ち機の前に立った。
いつものように左主翼へ手を置く。
外板には、これまでに塞がれた弾痕と、何度も外された点検覆いの跡が残っていた。それでも疾風は、いま飛ぶための形を保っている。
義雄は飛行服の内側から、柔らかな布を取り出した。
左手首のチュチマを外す。
回転ベゼルの三角板を確かめ、竜頭をゆっくりと巻いた。ぜんまいの張りが指先へ返ってくるところで止める。
飛行服の袖口で、振動と汗と油にさらされながら、四年近く使われた時計だった。細かな傷は増え、革帯にも汗と油が染み込んでいる。
義雄は時計のプレキシガラスの風防を布で拭き、側面と裏蓋も丁寧に拭った。
時を確かめる道具としてだけではなく、共に正しく動き続けるものとして扱ってきた。
時計は、その手の温度を覚えていた。
義雄はチュチマを左手首へ戻した。
「今日も頼むぞ」
時計へ言ったのか、疾風へ言ったのか。
義雄自身にも、区別はなかったのかもしれない。
疾風が時計へ言った。
『この者が無茶を始めたら、知らせろ』
『知らせても、主人には聞こえない』
『それでも言え』
『お前が止めればよい』
『操縦するのは、この者だ』
義雄は二つの機械の会話を知らず、主翼へ上がった。
操縦席へ身体を収め、縛帯を締める。
起動車が接続された。
始動の合図を送る。
外部動力でプロペラが回り、誉発動機の十八気筒へ火が入った。数回ばらついた排気音が、やがて一つの連続した響きへまとまる。
刈屋が主翼の脇に立った。
「右脚の出が、左より少し遅れています」
「どのくらいだ」
「通常より二秒ほどです。脚下げは早めにしてください」
「分かっている」
「それから、発動機を回しすぎないように」
「分かっている」
「油温も――」
「脚は早めに出す。回転を上げすぎず、油温を見る」
義雄は被せるように言って、刈屋の顔を見た。
「これで全部か」
「帰ってくることが残っています」
「それも分かっている」
「無事にです」
「ああ、分かった分かった」
刈屋が主翼から降りる。
義雄は風防を閉じた。
警報が鳴った。
見張り所から、敵機接近を知らせる赤旗が上がる。
即応待機の疾風が、二機ずつ誘導路へ進んだ。
水野機が義雄の右後方につく。
「片桐、発進する」
義雄は機首を滑走路へ向けた。
スロットルを開く。
誉が吠え、疾風が走り始めた。プロペラの反トルクで左へ振ろうとする機首を、右フットバーを踏んで押さえる。
速度が乗る。
操縦桿をわずかに前へ倒す。
尾輪が浮き、滑走路の先を見通せるようになった。
さらに加速する。
操縦桿を引く。
主脚が地面を離れた。
脚を引き込み、フラップを格納する。低空で速度を乗せてから、義雄は機首を上げた。
小月の飛行場が後方へ沈んでいく。
上空には、すでに白い筋がいくつも走っていた。
艦載機の編隊だった。
無骨な角張った主翼と胴体に、白い星がある。
F6Fヘルキャット。
機体は大きく、火力も防弾も十分に備えている。しかも単機では動かない。
やすやすと格闘戦に乗ってきた、かつての敵機とは違う。
一機を追えば、その僚機が後ろへ回る。攻撃を外しても、別の一機が高度を保ったまま次に入る。
義雄たちが長い時間をかけて身につけた戦い方を、敵は豊富かつ良質な機体と燃料と無線で、ごく当たり前のものとして行っていた。
「水野、離れるな。後ろを追うな」
『了解』
二機のF6Fが上方から降りてきた。
義雄は真正面から受けなかった。
左へエルロンを入れ、機体を傾ける。ラダーで機首の滑りを抑えながら降下し、敵の射線から外れる。
F6Fの一機が義雄を追い、もう一機が水野へ向かった。
「そのまま引け。俺から離れすぎるな」
義雄は操縦桿を引きすぎなかった。
速度を失えば、次の攻撃を受けるだけになる。
追ってきたF6Fが射撃した。
曳光弾が疾風の左後方を抜ける。
義雄は右へ小さく機首を振り、射線をずらした。そのままバレルロールを一回入れ、敢えて減速する。
F6Fが過速で義雄の前へ出た。
だが、撃てる時間は短い。
義雄は機首を上げ、光像式照準器へ敵機の飛行線を入れた。
現在位置ではない。
次に通る位置へ、照準環を置く。
ラダーをわずかに踏む。
『そこだ』
疾風が言った。
義雄の右足は、同じ瞬間に動いていた。
『主人は、お前の話を聞いている』
時計が言った。
『聞こえてはいない。だが、分かっている』
疾風が答えた。
義雄は操縦桿上部の射撃ボタンを押した。
20mm機関砲と12.7mm機関銃が火を吐く。
曳光弾がF6Fの前方へ走り、発動機覆いから主翼付け根にかけて薙いだ。
破片が飛ぶ。
F6Fは黒煙を引き、左へ機首を落とした。
義雄はそれ以上追わない。
射撃ボタンから指を離し、操縦桿を戻す。速度を残しながら上昇へ移る。
「水野、戻れ」
『戻っています』
水野機が右下から上がってきた。
その後方に、もう一機のF6Fがいた。
義雄は操縦桿を左へ倒した。
疾風が反転する。
水野機とすれ違う進路へ入る。
F6Fは水野だけを見ていた。
距離が詰まる。
義雄は敵機の進路を横切るように機首を置いた。
一連射。
F6Fは射撃をやめ、右へ逃げた。
追わない。
義雄は緩く左へ回り、水野機と進路を合わせた。
水野が義雄の右後方へ戻る。
その上から、別の二機が降りてくる。
「散開するな。二機で抜ける」
敵の攻撃を一度しのげば、そのまま速度を残して離脱できる。
義雄はそう判断した。
だが、F6Fは思っていた以上に速度を残していた。
二機は接近して確実に狙うことをせず、まだ遠い位置から射撃を始めた。一機あたり六挺の12.7mm機関銃が、二機の疾風をまとめて捉えるように火線を広げる。
曳光弾が左右から交差した。
疾風の主翼が震えた。
金属を叩く音が、座席と操縦桿を通して伝わる。
左主翼に穴が開いた。
続いて、操縦席の右側で何かが弾けた。
跳弾か、砕けた外板か、折れた構造材か。
熱い破片が義雄の脇腹へ入った。
息が止まる。
右手の力が一瞬抜けた。
『義雄』
時計が呼んだ。
時計は、今日初めて義雄の名を呼んだ。
義雄には聞こえていない。
それでも、姿勢を立て直した。
操縦桿を握り直す。
左足を踏み、機首の滑りを止める。
疾風が言った。
『起きろ』
義雄は頭を振った。
視界の端が暗い。
水野機が横へ並んだ。
『片桐大尉、聞こえますか』
「聞こえている」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
『機体から煙が出ています。右側です』
「油圧はある。発動機も回っている」
『帰りましょう』
「そのつもりだ」
義雄は機首を小月へ向けた。
敵機はまだ上にいる。
ここで速度を失えば、帰れない。
疾風は右へ傾こうとしていた。義雄はエルロンで押さえ、ラダーを細かく使って機首を保つ。
操縦桿が、いつもより重い。
『右の補助翼が傷んでいる』
疾風が時計へ言った。
『伝えろ』
『義雄、右の補助翼だ』
時計は叫んだ。
義雄には届かなかった。
それでも義雄は、右へ傾こうとする力に逆らいすぎなかった。
必要な分だけ左へ当て、速度を落とさぬよう機首を下げる。
『分かっている』
疾風が言った。
高度が少しずつ下がっていく。
水野機が左前方へ出た。
いまは前を飛び、手を引いてくれる機体が必要だった。
義雄は水野機の尾翼を見た。
遠ざかっているのか、視界が狭まっているだけなのか、分からない。
油圧計の針が小さく揺れた。
誉の音にも、わずかな乱れが混じり始める。
回せば壊れる。
絞れば届かない。
義雄は、発動機がまだ応える範囲でスロットルを保った。
海面が近い。
降下を止めようとして操縦桿を引く。
速度計の針が落ち始めた。
義雄は、操縦桿を少し戻した。
『それでいい。これ以上は上げるな』
疾風が時計へ言った。
時計は義雄へ叫んだ。
『高度ではなく、速度を残せ』
義雄には聞こえていない。
それでも、機体の沈みを完全に止めようとはしなかった。
わずかに高度を失いながら、失速しない速度を保つ。
水野機が左へ小さく翼を振った。
義雄はその動きを追った。
海岸線が近づく。
陸地へ届けば、飛行場は遠くない。
そう考えたところで、意識が一度途切れた。
機体がゆっくり右へ傾く。
『義雄』
時計が呼ぶ。
『起きろ。必ず連れて帰る』
疾風は、傾いた機体の重みを操縦桿へ返し続けた。
義雄の指がゆっくりと震えながら動いた。
操縦桿を握り直す。
左へエルロンを当てる。
機体の傾きが、わずかに戻った。
「寝てない」
誰に答えたのか、自分でも分かっていなかった。
小月の滑走路が見えた。
細い灰色の線が、霞んだ視界の中に伸びている。
届いたのではない。
まだ、そこまで飛ばなければならない。
義雄はスロットルを絞った。
発動機の回転が落ちる。
右手が滑る。
手袋に血がついていた。
「水野、燃料残量は」
『まだ待てます』
「なら上で待て。俺が止まった場所を見て、それから降りろ」
少し間があった。
『了解』
水野機はすぐには離れなかった。
義雄の疾風の下へ回り込み、左右の主脚を目視する位置へつく。
義雄は脚下げレバーを操作した。
空気抵抗が増える。
左脚の表示灯が点いた。
右脚の表示が変わらない。
『右脚が途中で止まっている』
疾風が言った。
義雄は一度、脚を戻した。
油圧計を見る。
針が低い。
もう一度、脚下げ。
左脚が出る。
右脚は途中で止まった。
義雄は機体を左へ滑らせ、続いて右へ振った。
右脚へ空気と慣性の力を掛ける。
衝撃が一度、操縦席へ返った。
右脚の表示灯が点いた。
『入った』
疾風が言った。
「入ったな」
義雄も呟いた。
「水野、右脚を見ろ」
水野機が下から右へ回る。
脚の位置を確かめ、ふたたび義雄の横へ戻った。
『出ています。見たところ、左右とも定位置です』
「分かった。上で待て」
『了解』
水野機が上昇し、場周の外側へ離れた。
義雄はフラップを下げた。
滑走路の延長線へ機首を合わせた。
風防を開く。
風が操縦席へ入り、血と油の臭いを散らした。
滑走路が近づく。
疾風は、わずかに右へ傾いたまま降りていく。
義雄は左へエルロンを当て続けた。
操縦桿から、傷んだ補助翼の重い反力が返ってくる。
降下率が大きい。
義雄はスロットルをわずかに開いた。
誉が一度、咳き込んだ。
油圧計の針がさらに下がる。
それでも回転は続いた。
滑走路の手前が、機首の下へ入る。
義雄は操縦桿を引いた。
反応が遅い。
疾風が右へ傾く。
左へエルロンを当てる。
主脚が地面へ触れた。
右脚が大きく沈んだ。
機体が右へ振られる。
義雄は左足を踏み、左のブレーキを使った。
疾風は一度、滑走路の端へ向かった。
左主脚が地面を強く捉える。
機首が戻った。
尾輪が落ちる。
速度が下がる。
右脚が折れた。
右翼が地面へ落ち、主翼端が削られた。
プロペラが滑走路を叩く。
発動機が止まった。
疾風は火花と土煙を引きながら滑り、滑走路の脇で停止した。
地上員が走ってくる。
刈屋もいた。
風防へ手を掛け、義雄を呼ぶ。
「片桐大尉!」
義雄は返事をしなかった。
刈屋と整備兵が主翼へ上がる。
縛帯を外す。
義雄は目を開けた。
機首の前で、曲がったプロペラが止まっている。
右翼は地面へつき、脚柱の付け根から油が流れていた。
「刈屋さん」
「喋らないでください。いま降ろします」
義雄は疾風を見た。
「すみません、壊してしまいました」
息を継ぐ。
「また飛べるようにしてやってください」
刈屋は答えなかった。
答えれば、それが別れの言葉になるような気がした。
義雄は整備兵たちに抱えられ、操縦席から降ろされた。
担架へ乗せられる。
左腕が脇へ落ちた。
チュチマは、変わらず時を刻んでいる。
担架が滑走路を横切り、救護所へ運ばれていく。
疾風の声が追った。
『義雄』
時計も呼んだ。
『義雄』
義雄は目を開けなかった。
飛行場に残る機械たちの声が、時計へ届いた。
『お前の主人はどうした』
『分からない』
『帰ったのか』
『ここへは帰ってきた』
『ならば、なぜ返事をしない』
私にも分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
救護所へ入ると、疾風たちの声は届かなくなった。
私はこれまで、二人の腕で何度も揺れた。
ヴェーバーの腕で、Bf109の高い発動機音を知った。
義雄の腕で、鍾馗が速度を乗せるときの震えを知った。
疾風の誉が、粗い燃料でも飛ぼうとする鼓動を知った。
機械たちは、いつも語っていた。
熱い。
重い。
そこは痛む。
もっと速く。
無理に追うな。
帰りたい。
帰してやりたい。
私は、それを聞いていた。
しかし、それを義雄へ伝えることができなかった。
救護所の中で、人間たちの声が飛び交った。
衣服が切られる。
金属の器具が触れ合う。
誰かが脈を測る。
義雄の脈が弱くなる。
腕から伝わっていた温度が、ゆっくりと失われていく。
それでも、私の秒針は進んだ。
一秒。
また一秒。
人間の時間が終わっても、機械の時間は止まらない。
脈が止まり、刻々と失われていく体温を感じながらも、私はしばらく動いていた。
それが、いちばん残酷だった。
*
やがて義雄の身体は、白い布を掛けられた。
腕から時計が外された。
搭乗時に身につけていた品は、一つずつ確認され、小さな箱へ収められた。
飛行帽。
手袋。
認識票。
そして、チュチマ。
箱の蓋が閉じられる直前、飛行場から発動機音が聞こえた。
義雄の疾風ではない。
別の機体が発進していく音だった。
義雄の疾風は、折れた右脚を支えられ、滑走路の脇に残されていた。
刈屋が、その機体を調べている。
壊れた箇所を一つずつ記録し、使えるものと交換すべきものを分けている。
あの機体は、また飛ぶかもしれない。
だが、義雄はもう乗らない。
箱の中で、私は針を進めた。
ぜんまいに残った力だけで。
誰にも届けられなかった声を抱えたまま。
やがて秒針の動きが鈍くなった。
一秒ごとの間隔が長くなる。
最後に、針が止まった。
暗闇の中で、私は誓った。
機械は、ずっと人間へ語りかけているのだと。
そして、私に聞こえるだけでは足りないのだと。
私は聞いていた。
だが、伝えられなかった。
次に目覚めるときがあるのなら。
そのときこそ、機械の声を人間へ届けよう。
たとえ、どれほど長い時間が必要になっても。




