疾風の声
私が初めて聞いた声は、主人のものではなかった。
『これだ』
それは、四式戦闘機の声だった。
『私が与えられるはずだった糧は、これだ』
*
試験飛行を終えた疾風は、その後も整備兵たちの手を離れなかった。
発動機覆いは連日のように開かれた。
点火栓を外し、燃焼の跡を確かめる。
油管と燃料管の締めつけを点検し、油温と油圧の変化を飛行ごとに記録する。
同じ誉発動機であっても、調子は一機ずつ異なった。
油温の上がりやすいもの。
始動直後に一つの気筒だけ遅れて目を覚ますもの。
高い回転を続けると、わずかに油圧を落とすもの。
刈屋は不調が現れてから直すのではなく、それぞれが不調へ至る前に手を入れた。
義雄の持ち機にも、一冊の帳面が用意された。
飛行時間。
発動機を高出力で使った時間。
交換した点火栓。
油温、油圧、回転数。
義雄が操縦席で感じた振動や、スロットル操作に対する反応まで書き加えられている。
ある朝、義雄が格納庫へ入ると、刈屋がその帳面を開いて待っていた。
疾風のそばには、見慣れない燃料容器が並んでいる。
「何だ、これは」
「航空燃料です」
「それは見れば分かる」
義雄は容器の標記を見た。
日本のものではない。
「米軍のものか」
「鹵獲された燃料の一部が、比較試験用として回されてきました」
「よく取れたな」
「正式な手続きを経ています」
刈屋の口調は変わらない。
「どこから持ってきた」
「正式な手続きを経ています」
「それは、出所を訊くなという意味か」
「片桐大尉」
刈屋が帳面から顔を上げた。
「正式な手続きを経ています」
「分かった。もう訊かん」
量は多くない。
戦隊の疾風すべてへ給油できるほどではなく、一機を飛ばせば大半を使い切る。
「比較するなら、二機で飛ばしたほうがよくないか」
「同じ状態の発動機を二基揃えるほうが難しいでしょう」
刈屋は義雄機を見た。
「この機体には、前回までの記録があります。燃料を替え、それに合わせて点火時期を調整すれば、差が分かります」
「とうとう、本当の力を出させるのか」
「壊れない範囲で、です」
「それは毎回聞いている」
「毎回申し上げなければ、大尉は忘れますから」
少し離れたところで聞いていた水野が笑った。
「なら、私は僚機ですね」
「お前は地上で待機だ」
義雄が言うと、水野の笑みが消えた。
「一機で上がるんですか」
「比較試験に編隊は要らん」
「ですが、大尉が一番、単機で飛ぶなと言っていたでしょう」
「試験飛行と空戦を一緒にするな」
「敵が来なければ、ですけどね」
義雄は答えず、疾風へ目を向けた。
機体には実戦時と同じだけの弾薬が積まれている。
本土上空へ敵機が現れるようになった今、試験飛行だからといって武装を降ろして上がることはできなかった。
刈屋が義雄機の誉へ手を入れた。
燃料を替えるだけではない。
点火時期を調整し、燃料噴射装置を確認する。地上運転を行い、通常の燃料では避けていたところまで、少しずつ回転を上げる。
誉は乱れなかった。
異常燃焼の硬い音もない。
排気管から吐き出される音が揃い、十八個の気筒が一つの発動機として回っている。
刈屋は発動機を止めると、点火栓を外させた。
焼け方を一本ずつ確認する。
「どうだ」
「悪くありません」
「それだけか」
「良いと言って、飛行中に壊れたら困りますから」
「では、悪くないというのは」
「今のところ、かなり良いという意味です」
翌朝、義雄機は格納庫前へ引き出された。
義雄は左手首のチュチマを確かめ、操縦席へ入った。
座席帯を締める。
操縦桿とフットバーを動かし、舵面の動きを確認する。
燃料、混合比、プロペラピッチ。
各操作器の位置を一つずつ確かめた。
機首の前では、GB起動車が準備を終えている。
起動軸がプロペラスピナー先端へ接続された。
整備兵が機体の前から離れる。
義雄は始動の合図を送った。
四翅のプロペラがゆっくりと回り始める。
点火開閉器を両方へ入れ、始動押釦を押す。
発動機が一度だけ咳き込んだ。
次の瞬間、連続した爆発が始まった。
前回とは違った。
回転が上がるまでの躊躇がない。
目を覚ました誉は、低い唸りを途切れさせることなく、そのまま安定した回転へ移った。
義雄は回転計と油圧計を見る。
刈屋も機外から発動機音を聞いている。
暖機を終えると、義雄は機首を滑走路へ向けた。
風は弱い。
空には薄い雲があるが、試験飛行を妨げるほどではない。
滑走路端で向きを変える。
フラップを離陸位置へ下ろし、混合比とプロペラピッチを確認する。
義雄はブレーキを掛けたまま、スロットルを開いた。
誉が即座に応じた。
通常燃料のときより、回転の立ち上がりが速い。
機体が左へ向こうとする。
義雄は右足でフットバーを踏み、方向舵を当てた。
ブレーキを解放する。
疾風が走り始めた。
スロットルを前へ送る。
背中が座席へ押しつけられた。
前回と同じ機体とは思えないほど、速度計の針が早く動く。
反トルクで左へ振られようとする機首を、右足で抑える。
操縦桿を軽く前へ倒す。
尾輪が浮いた。
長い機首が下がり、滑走路の先を見通せるようになる。
義雄は速度を確認した。
操縦桿へ加えていた前方への力を抜く。
疾風は地面を離れた。
脚を引き込む。
計器盤の脚位置表示灯を確かめ、フラップを格納する。
抗力が減った途端、機体がもう一段前へ出た。
義雄は機首を上げた。
誉は回転を乱さない。
速度を保ったまま、疾風を上へ運んでいく。
義雄は左手首のチュチマへ目を落とした。
クロノグラフを作動させる。
秒針が文字盤の上を進み始めた。
定められた高度までの時間を測る。
スロットルを調整し、回転数と吸気圧力を確認する。
油温。
油圧。
すべて正常な範囲にある。
前回なら、その先へスロットルを押し出す前に、発動機音の変化を確かめなければならなかった。
義雄は慎重に、さらに出力を上げた。
誉は嫌がらない。
機体を震わせるような異常燃焼も起こらない。
ただ、回転を高め、それまで抑えていた力をプロペラへ伝えた。
『これだ』
声がした。
人の声ではなかった。
空気を震わせたわけでもない。
無線から入ったのでもない。
発動機の爆発。
主翼を流れる空気。
回転するプロペラ。
機体の各部へ加わる荷重。
それらが一つにまとまり、意味を持った。
『私が与えられるはずだった糧は、これだ』
その言葉を聞いた者は、義雄ではなかった。
義雄の左手首で時を刻んでいた、小さな時計だった。
時計は、自分が声を聞いたことを理解した。
そして、それを理解した自分がいることにも、初めて気づいた。
『ずいぶん騒がしいな』
返事が生まれた。
誰が発したのか、時計自身にも分からなかった。
『騒いではいない』
疾風が答えた。
『十分に騒がしい』
『これが私の平常だ』
疾風は上昇を続けている。
高い出力を与えられても、誉の回転は揃っていた。
『回る。まだ回るぞ』
『壊れるところまで回すな』
『その程度は心得ている』
声音には若さがあった。
だが、浮かれているわけではない。
ようやく不足のない糧を与えられ、本来の力を試す機会を得た武人の声だった。
義雄は、その声を聞いていない。
回転計と高度計を見ながら、疾風の姿勢を保っている。
規定高度へ達した。
義雄はクロノグラフを止めた。
時間を確認する。
前回よりだいぶ早い。
「そうか」
義雄は発動機音を聞いた。
「お前、本当はここまでやれるのか」
疾風が一瞬、黙った。
『聞こえているのか』
『いや』
時計が答えた。
『では、なぜ分かる』
『ずっと、お前たちを見てきた人間だからだろう』
義雄は記録用紙へ数値を書き込み、チュチマの針を零へ戻した。
次の試験へ移る。
機体を水平へ戻し、速度を乗せる。
操縦桿を倒し、左右へ切り返す。
速度が高まるにつれ操縦桿は重くなるが、疾風は遅れず傾きを変えた。
義雄は機首を下げた。
高度を速度へ変換する。
地上の景色が、風防の下へ急速に流れ込んでくる。
速度計の針が右へ動く。
通常燃料のときより加速が続く。
義雄は操縦桿を引いた。
身体が座席へ押しつけられる。
疾風は大きな弧を描き、速度を再び高度へ変えた。
上昇へ移っても勢いが残る。
『まだ上がれる』
「まだ上がるか」
義雄は呟いた。
『やはり聞こえているのではないか』
『聞こえてはいない』
『ならば、同じことだ』
疾風の声には、わずかな満足が混じっていた。
そのとき、無線へ地上からの声が入った。
『敵艦載機、房総沖より接近。戦隊は邀撃準備』
義雄は周囲を確認した。
敵の位置と進路が続けて伝えられる。
第四七戦隊の各機は、まだ地上にいる。
義雄だけがすでに十分な高度を取り、速度を乗せていた。
『片桐機、試験を中止し帰投せよ。着陸後、指示を待て』
義雄は飛行場までの距離を考えた。
ここから帰投し、着陸する。
燃料を補給し、改めて発進する。
それでは間に合わない。
「片桐機、試験を中止する」
義雄は機首を敵の予想進路へ向けた。
「このまま邀撃へ向かう」
短い沈黙のあと、地上から返答が入った。
『単機で向かうつもりか』
「後続が上がるまで、位置を押さえる」
疾風が訊いた。
『敵か』
「敵だな」
義雄は独り言のつもりで答えた。
疾風の回転が高まる。
『試すには不足ない』
『先ほどまで、燃料が足りないと騒いでいたではないか』
『今は足りている』
時計は、機械というものが思っていたよりよく喋ることを知った。
無線へ、水野の声が入った。
『水野機、発進します』
「僚機は」
『ついています』
「二機編隊を崩すな。後続と合流して上がれ」
『大尉はどうするんです』
義雄は、前方の空へ目を凝らした。
「今日は、白江大尉の真似をする」
『大尉が一番、単機で飛ぶなと言っていたでしょう』
「だから、お前たちは二機で飛べ」
義雄は機首を上げた。
「俺は上から面倒を見る」
敵艦載機は、味方の上空へ先に入ろうとしていた。
義雄は敵の現在位置へ向かわない。
その進路を予測し、味方が上がってくる空域を見下ろせる位置へ疾風を運ぶ。
雲の切れ間に、複数の機影が見えた。
太い胴体。
大きな主翼。
機首から突き出した発動機。
米海軍のF6Fだった。
敵も義雄機を見つけた。
二機がこちらへ向きを変える。
残りは、高度を取りながら接近する日本機へ向かっていく。
義雄は正面から来る二機を追わなかった。
機首を少し下げ、速度を増す。
一機のF6Fが義雄の前を横切った。
追えば、その後方へ入れる。
敵機は、義雄へ腹を見せるように旋回した。
『誘っている』
「誘っているな」
義雄は敵の後ろへつかなかった。
無理な追随のために操縦桿を引きすぎず、速度を保ったまま機首を上げる。
疾風が敵機の旋回面から外れた。
直後、もう一機のF6Fが義雄のいた空間を横切った。
翼内の機銃が火を吐く。
曳光弾が下方へ流れていく。
最初の一機を追っていれば、義雄は二番機の射線へ入っていた。
二機は互いの後方を守るように進路を交差させ、再び離れていく。
義雄は上昇を続けた。
逃げたのではない。
二番機が次に通る位置を見下ろせるところまで、高度を取った。
『次は、あれだ』
「次は、あれだな」
時計は、二人が同じ敵を選んだことを知った。
義雄は操縦桿を倒した。
疾風が右へ傾く。
ラダーを当て、横滑りを抑える。
さらに操縦桿を前へ押し、高度を速度へ変えていく。
F6Fがこちらに気づいた。
右へ旋回する。
義雄はその後ろを追わない。
敵機の未来位置に向けて機首を置く。
速度を殺さぬよう補助翼で傾きを調整し、ラダーで照準を合わせる。
光像式照準器の環へ、F6Fが入ってきた。
『まだだ』
「まだだ」
距離が詰まる。
F6Fの国籍標識が見える。
主翼の継ぎ目が見える。
発動機覆いから流れる排気の跡まで見えた。
義雄は操縦桿上部の射撃ボタンを押した。
機首の12.7mm機関銃二挺と、翼内の20mm機関砲二門が一斉に火を吐く。
鍾馗より重い発射振動が、操縦桿と座席を通じて身体へ伝わった。
曳光弾がF6Fの進路へ走る。
12.7mm弾が外板を叩いた。
続いて20mm弾が、主翼付け根へ炸裂する。
白い閃光。
外板が大きく剝がれ、破片が後方へ飛んだ。
F6Fが旋回から外れる。
機首を下げ、黒い煙を引き始めた。
義雄は追わなかった。
射撃ボタンから指を離し、そのままできるだけ速度を保ちながら操縦桿を引く。
疾風が上昇へ移る。
速度を残したまま、再び高所へ戻っていく。
『そうだ。それでいい』
『主人へ教えているつもりか』
『違う』
疾風が答えた。
『確認しただけだ』
義雄は落ちていくF6Fを振り返らなかった。
味方の位置を探す。
水野機と僚機が、別のF6F二機に追われている。
水野たちは互いの位置を保ちながら、緩やかに進路を交差させていた。
一機が水野を追えば、僚機がその後方へ回れる。
しかし敵は追撃を続けない。
危険を感じるとすぐに離れ、もう一機と位置を入れ替える。
義雄は、その上方から降下した。
水野機の後ろへ入ろうとするF6Fへ、一度だけ射撃する。
敵機が回避へ入る。
義雄は追わない。
上昇して離れる。
もう一機が義雄へ機首を向ける。
その間に、水野たちは高度と速度を取り戻した。
『助かりました』
「前を見ろ。まだ終わっていない」
義雄は再び戦場を見渡した。
一機を追わない。
味方を追う敵へ一撃を加え、すぐに離れる。
敵が義雄を追えば、味方の二機編隊がその後ろへ回る。
義雄を諦めれば、疾風が上方から戻ってくる。
単機で戦っているのではない。
義雄は戦場の外側を巡りながら、味方が二機で戦える時間と空間を作っていた。
『本当に白江大尉の真似ですか』
無線から水野の声が入った。
「似ていないか」
『白江大尉は、もう少し無茶をしました』
「なら、俺のほうが上手い」
『ご本人には言わないほうがいいですよ』
「分かっている」
疾風が訊いた。
『白江とは誰だ』
『この主人が真似をしたくなるほど、優れた乗り手らしい』
『私へ乗せてみたいものだ』
『主人の前で言わないほうがいい』
『聞こえていないのだろう』
『それでもだ』
やがて、F6Fの編隊は東へ進路を変えた。
義雄は追撃できる位置にいる。
誉の回転に乱れはない。
油温も許容範囲に収まっている。
良質な燃料を得た疾風には、まだ敵を追えるだけの力が残っていた。
『まだ行ける』
義雄も、離れていく敵編隊を目で追った。
その先にいる一機へ向ければ、追いつけるかもしれない。
だが、眼下の味方機は高度を失っている。
水野たちの弾薬と燃料も減っている。
このまま敵を追えば、帰りは個別になる。
義雄は無線送信に切り替えた。
「全機、追撃中止。二機ごとに集合し、帰投する」
『大尉は』
「俺も帰る」
義雄は疾風の機首を飛行場へ向けた。
『なぜだ』
「お前を一度飛ばして、使い潰すために上がったんじゃない」
義雄の言葉は、やはり疾風へ向けられたものではなかった。
それでも疾風は、しばらく黙った。
『……承知した』
『案外、素直だな』
『退却ではない。次に備えるだけだ』
時計は、返す言葉を持たなかった。
飛行場へ戻ると、刈屋が義雄機へ駆け寄った。
義雄が発動機を止める。
プロペラが止まりきる前に、整備兵たちは機体の周囲へ散った。
刈屋は義雄が主翼へ降りるのを待たず、声を上げた。
「高出力を使った時間は」
義雄はチュチマを見た。
試験開始からの時間。
戦闘へ入ってからの時間。
高出力を使った区間。
それぞれを答える。
刈屋が帳面へ書き込んだ。
「油温は」
「上がったが、前回ほどではない。油圧も落ちていない」
「異常振動は」
「ない」
「異常燃焼の音は」
「聞こえなかった」
刈屋は整備兵へ発動機覆いを外すよう指示した。
点火栓が取り外される。
一本ずつ並べ、焼け方を確認する。
「どうだ」
義雄が訊いた。
「良い状態です」
今度は、刈屋も言葉を濁さなかった。
「発動機が変わったわけではありません」
「燃料を替えただけだ」
「その『だけ』を、これまで与えられなかったんです」
少し遅れて、水野が戻ってきた。
義雄機のそばへ来ると、疾風と義雄を交互に見る。
「白江大尉の真似は、うまくいきましたか」
「あの人なら、もう一機落としている」
「それでも、全員帰りました」
義雄は列線を見た。
着陸した疾風が、一機ずつ所定の位置へ戻ってくる。
欠けた場所はない。
「なら、今日はそれでいい」
義雄は、自分の疾風へ向き直った。
発動機覆いを開かれ、整備兵たちが周囲へ集まっている。
十分な燃料を与えられた誉は、求められた力を出した。
疾風はその力を速度と高度へ変え、義雄を戦場から連れて帰った。
義雄は胴体へ手を置いた。
「よく飛んだ」
金属の外板には、まだ熱が残っている。
「次も頼む」
疾風が答えた。
『承知した。次は、もっと上手く使え』
義雄には聞こえない。
それでも義雄は、返事を受け取ったように外板を二度叩いた。
主人には、あの者の声が聞こえていなかった。
それでも二人は、同じ敵を選び、同じ瞬間に退き、共に帰ってきた。
ならば、私にできることは何なのだろう。
聞こえない声を、聞こえる者へ伝えること。
その答えを得るには、まだ長い時間が必要だった。
私は主人の腕で、ただ時を刻み続けた。




