疾風、来る
四式戦闘機は、鍾馗よりも低い姿勢で滑走路へ入ってきた。
脚を下ろし、フラップを開いたまま、ゆっくりと高度を落としてくる。
機首は長い。
だが、その後ろに続く胴体も長く、鍾馗のように発動機だけが前へ張り出しているようには見えない。
大きく広がった主翼が、重そうな機体を空中へ支えていた。
接地の直前、機首がわずかに上がる。
主脚が滑走路を捉えた。
機体はすぐには尾を下ろさない。二点姿勢のまま走り、速度を落としてから尾輪を接地させる。
排気とプロペラの搔いた空気が、滑走路の砂塵を巻き上げた。
四翅のプロペラが回転を落としながら、駐機場へ近づいてくる。
義雄は、その姿を正面から見た。
鍾馗よりも一回り大きい。
胴体は太く、主翼も広い。
機首には大馬力の空冷発動機を収めながら、全体の姿は不思議なほど滑らかにまとまっている。
翼内には20mm機関砲二門。機首には12.7mm機関銃二挺。
鍾馗でB29を撃ったとき、義雄が足りないと感じたものが、最初から積まれている。
疾風は誘導する整備兵に従い、列線の前で向きを変えた。
発動機が止まる。
四枚のプロペラが、一枚ずつ見分けられる速さまで落ちた。最後にわずかに逆へ戻り、斜めの位置で止まる。
搭乗員が風防を開けた。
しかし、義雄は降りてくる男ではなく、機体を見ていた。
「大きいですね」
隣で水野が言った。
「鍾馗よりはな」
「重そうです」
「実際に重い」
刈屋はすでに機体へ歩み寄っていた。
受領を待ちかねていたのか、手には帳面を持っている。搭乗員へ挨拶を済ませると、すぐに機首の下へ回り込んだ。
整備兵たちが、次々に覆いを外していく。
義雄も機体へ近づいた。
近くで見ると、主翼の広さがいっそう目立つ。
鍾馗は、太い胴体に肩を怒らせたような短く小さな主翼をつけていた。
疾風の翼は、それより長く、前後にも広い。翼端へ向かって細くなりながら、機体の重量を受け止めるだけの面積を保っている。
「力づくで飛ばすだけの機体ではないな」
義雄が言うと、刈屋は発動機覆いの留め具を外しながら答えた。
「そうでなければ、格闘戦まで求めることはできません」
覆いが外された。
内部から現れた誉発動機は、機体の外形から想像するより小さく見えた。
十八個の気筒が、二列に重なっている。
小さな直径へ大きな力を詰め込んだため、補機や配管が隙間なく並んでいた。
刈屋は顔を近づけ、配管の一本ずつを目で追った。
「どうだ」
「まだ何とも言えません」
「届いたばかりだぞ」
「届いたばかりだからです」
刈屋は油のにじんだ箇所へ指を触れた。
「飛べる状態であることと、戦える状態であることは違います」
別の整備兵が、点火栓を外し始めた。
刈屋は油管、燃料管、点火線の取り回しを確認し、帳面へ何かを書き込む。
「誉は手が掛かると聞いたが」
「手を掛ければ応える発動機なのでしょう。掛けなければ、そうならないというだけです」
刈屋は淡々と答えた。
「部品の精度にばらつきがあります。配管も、すべてが同じ具合についているとは限りません。ですが、それだけなら一つずつ確かめれば済みます」
「済まないものもあるか」
「燃料です」
刈屋は、取り外された点火栓を受け取った。
先端の焼け方を見てから、義雄へ差し出す。
「指定された出力を出そうとすれば、点火時期を進めなければなりません。ですが、支給される燃料では異常燃焼を起こすおそれがある」
「発動機が力を出せないのではなく、出させられないのか」
「今のところは、そう考えています」
義雄は、むき出しになった誉を見た。
高い出力を求めて作られた発動機が、必要な燃料を与えられないまま前線へ送られてくる。
性能表に記された数字だけを見れば、敵の新鋭機にも劣らない。
しかし、数字どおりに飛ばすために必要なものまでは、機体と一緒に届かない。
「壊さずに、どこまで出せる」
「それを調べます」
刈屋は帳面を閉じた。
「まず、この機体の正常を決めます」
「正常?」
「油温、油圧、回転数、各気筒の状態。地上運転と飛行後の変化を記録します。同じ四式戦でも、一機ごとに違いますから」
刈屋は機体を見上げた。
「片桐大尉の持ち機になるのであれば、大尉が乗ったときの正常を知らなければなりません」
「まだ俺のものと決まったわけではない」
「では、誰が最初に乗りますか」
義雄は答えなかった。
水野が横で笑った。
「決まったようですね」
義雄は水野を見た。
「お前が先でもいいぞ」
「刈屋中尉が許しませんよ」
「許可を出すのは俺だ」
「壊したときに叱るのは刈屋中尉です」
刈屋は誉から目を離さなかった。
「壊さなければ叱りません」
水野が一歩下がった。
*
受領した疾風の点検と調整には数日を要した。
燃料管の締め直し。
点火栓の確認。
動きの渋かった昇降舵索の調整。
脚の作動試験。
フラップの左右同調。
機銃の装填機構と照準器の確認。
刈屋は一項目ずつ帳面へ記録させた。
発動機については、短い地上運転を繰り返した。
最初から高い回転を与えることはしない。油温が上がるのを待ち、回転を少しずつ変え、そのたびに油圧と発動機音を確かめる。
整備兵たちは運転を終えるたびに点火栓を外し、焼け方を比べた。
義雄も何度か操縦席へ座った。
鍾馗より広い。
それでも余分な空間があるわけではない。
左右には操作器と計器が並び、正面の計器盤には速度計、高度計、回転計、吸気圧力計、油温計、油圧計が収まっている。
操縦桿を左右へ倒す。
補助翼の動きには、鍾馗よりわずかに重い手応えがあった。
前後へ動かす。
昇降舵は滑らかだが、機体が大きいぶん、鍾馗と同じつもりで扱えば動かしすぎるかもしれない。
フットバーを踏む。
方向舵から、索を通じて反力が返ってくる。
義雄は計器盤の上から、長い機首の先を見た。
地上姿勢では、正面の滑走路はほとんど見えない。
「離陸滑走では気をつけてください」
主翼の上に立った刈屋が言った。
「四翅になったぶん、スロットルを急に開ければ左へ持っていかれます」
「鍾馗も同じだ」
「同じだからといって、同じ強さとは限りません」
「分かっている」
「でしたら結構です」
刈屋は操縦席の縁へ手を置いた。
「着陸でも、鍾馗と同じつもりで下ろさないでください」
「重いから速く入れろということか」
「重量だけならそう考えます。ですが、こちらのほうが翼が広い。速度を落としても、思ったより浮くかもしれません」
「接地を急ぐな、と」
「浮いている機体を、操縦桿で地面へ押しつけないでください」
「それをやったら?」
「跳ねます」
「その次は」
「脚を壊します」
刈屋は間を置いた。
「その次に、私が叱ります」
*
試験飛行の日、空には薄い雲が広がっていた。
風は弱い。
格納庫前へ引き出された疾風には、燃料と必要な弾薬が積まれている。実戦時に近い重量で飛ばなければ、試験の意味がない。
義雄は飛行服の袖を整え、左手首のチュチマを確かめた。
クロノグラフの針は零を指している。
主翼へ足を掛け、操縦席へ入った。
座席帯を締める。
操縦桿とフットバーを動かし、舵面の動きを確認する。
燃料、混合比、プロペラピッチ。
各操作器の位置を確かめる。
風防は開けたままにしておく。
機首の前では、GB起動車が位置についた。
整備兵が、起動車から延びる軸をプロペラスピナー先端の噛み合わせへ接続する。
義雄は周囲を確認した。
機体の前方から整備兵が離れる。
始動の合図を送った。
起動車の回転が軸を通じて伝わり、四翅のプロペラがゆっくりと動き始める。
一枚。
二枚。
速度を増し、四枚が円へ溶けていく。
義雄は点火開閉器を両方へ入れ、始動押釦を押した。
一度、発動機が咳き込む。
排気管から薄い煙が吐き出された。
もう一度、爆発が続く。
十八個の気筒が順に目を覚まし、誉が低い唸りを上げた。
機体全体へ細かな振動が広がる。
整備兵が合図を送り、起動軸を外した。
義雄は回転を抑えたまま、油圧計を見る。
針が上がる。
油温はまだ低い。
発動機音に乱れはない。
義雄は左手首へ目を落とし、チュチマのクロノグラフを作動させた。
秒針が動き始める。
暖機を終えると、義雄は車輪止めを外すよう合図した。
スロットルをわずかに開く。
疾風が動き出した。
地上姿勢では前方が見えないため、左右へ緩やかに機首を振りながら進む。
右へ振ったときに左前方を確認し、左へ振ったときに右前方を見る。
鍾馗より機首が長い。
その代わり、脚の間隔は広く、地上での据わりは悪くなかった。
滑走路端で向きを変える。
フラップを離陸位置へ下ろす。
プロペラピッチを確認する。
混合比を濃くする。
油温、油圧、回転数。
異常はない。
義雄は風防を閉じた。
前方は問題なく開けている。
ブレーキを掛けたまま、スロットルを少し開く。
機体が左へ向こうとする。
右フットバーを踏み、方向舵で押さえる。
義雄はブレーキを解放した。
疾風が滑走を始める。
スロットルを一気に押し込まず、発動機の回転と機首の動きを確かめながら前へ送る。
四翅のプロペラが空気を搔き、反トルクが機体を左へ振ろうとする。
右フットバーを踏み足す。
速度が増すにつれ、方向舵が効き始める。踏み込む力を少し戻し、機首を滑走路へ沿わせる。
義雄は操縦桿を軽く前へ倒した。
尾輪が浮く。
長い機首が下がり、滑走路の先を見通せるようになった。
鍾馗より加速が鈍いわけではない。
重い機体を、誉が力任せに引いている。
速度計の針が上がる。
操縦桿に返る力が変わった。
義雄は、引き起こすというほど強くは引かなかった。ただ、前へ加えていた力を抜く。
主脚が地面を離れた。
疾風は、滑走路の上へ浮かび上がった。
義雄は機首を上げすぎない。
地面すれすれで速度を乗せる。
昇降計が上昇を示したところで、脚上げの操作を行う。
主脚が格納され始める。
計器盤の脚位置表示灯を確かめる。
フラップを段階的に戻す。
抗力が減り、機体が前へ出た。
義雄はスロットルを維持したまま、上昇姿勢へ移した。
飛行場が下へ離れていく。
鍾馗とは違う。
最初に感じたのは、重さだった。
操縦桿を倒せば機体は傾く。しかし、鍾馗のように胴体全体がすぐ横へ転がるのではない。
ひと呼吸遅れて、大きな主翼が空気を掴む。
動き始めれば、姿勢は安定している。
義雄は右へ緩く旋回した。
補助翼で傾きを作り、フットバーを踏んで横滑りを抑える。
旋回計の球が中央から外れない範囲で、操縦桿を引く。
主翼が機体を支える。
鍾馗なら速度を保つために早めに機首を戻すところで、疾風にはまだ余裕があった。
義雄は旋回を深くする。
機体は沈み込まない。
広い主翼が揚力を残したまま、円を小さくしていく。
「重いが、鈍くはないか」
独り言を口にした。
疾風は何も答えない。
発動機と風切り音だけが風防の外で鳴っている。
義雄は旋回を解き、機体を水平へ戻した。
スロットルを押し出す。
速度計の針が右へ動く。
鍾馗では、速度を得るために機首を下げる場面が多かった。
疾風は水平のまま速度を増していく。
機体が大きいぶん、加速の感覚は穏やかだった。
だが、地上の景色が後方へ流れる速さは、確実に増している。
義雄は左手でチュチマの押しボタンを操作した。
上昇試験を始める。
速度を合わせ、操縦桿を引く。
疾風の機首が上がった。
スロットルを調整し、回転数と吸気圧力を確認する。
油温と油圧に異常はない。
高度計の針が回る。
鍾馗より重い。
それでも誉は、機体を上へ押し上げていく。
義雄は機首を上げすぎず、定めた速度を保った。
上昇率を欲張れば、どんな機体でも速度を失う。
だが、疾風は速度を高度へ換えたあとも、まだ前へ進む力を残している。
規定高度へ達すると、クロノグラフを止めた。
時間を確認し、機上の記録用紙へ書き込む。
もう一度クロノグラフを零へ戻す。
次は降下と加速を試す。
義雄は周囲を確認した。
機首を下げる。
速度が増し、操縦桿が重くなる。
大きな機体は、速度が乗るほど空気へ押し固められていく。
補助翼を使い、左右へ切り返す。
鍾馗ほど軽々とは転がらない。
しかし、一度与えた傾きを保つ力が強い。余分な揺れを残さず、狙った角度へ収まる。
義雄は操縦桿を引いた。
速度を高度へ戻す。
疾風は大きな弧を描いて上昇へ移った。
そのまま反転し、模擬的な攻撃姿勢へ入る。
義雄は眼下に敵機の姿を思い描いた。
その現在位置から未来位置を予測し、そこを見下ろせる高さへ上がる。
機首を下げ、想定した未来位置へ照準器を運ぶ。
速度を殺さぬよう補助翼で機体を傾け、ラダーで機首を合わせる。
射撃位置を通過したところで、そのまま離脱に入る。
操縦桿を引きすぎず、できるだけ速度を保ちながら上昇する。
身体が座席へ押しつけられた。
疾風は、速度を失わず再び高所へ戻っていく。
義雄は、そこで初めて笑った。
「なるほど」
鍾馗が選んだ思想を、その先まで持っていける。
速さを保って接近し、強い武装を短時間だけ叩き込み、敵が追いつけないうちに離脱する。
必要なら旋回戦にも応じられる。
だが、旋回できることと、旋回し続けることは違う。
疾風の本当の価値は、格闘戦ができることではない。
格闘戦を選ばずとも勝てるだけの速さと上昇力を持ちながら、必要なときには曲がれることにある。
義雄は飛行場へ針路を戻した。
油温が、少し高い。
許容範囲には収まっている。
だが、試験を続けて限界を探る必要はなかった。
刈屋なら、この上昇の仕方と油温の変化から、次に見る場所を決めるだろう。
飛行場が近づく。
義雄は速度を落とし、脚を下ろした。
脚位置表示を確かめる。
フラップを開く。
機首を下げ、着陸進入へ入った。
鍾馗より速度を落としても、操縦桿にはまだ手応えが残っている。
主翼が空気を掴んでいる。
義雄は降下率を見ながら、スロットルを少し戻した。
滑走路が近づく。
機首を起こす。
疾風は沈まなかった。
地面すれすれで、なおも浮いている。
義雄は接地を急がない。
操縦桿を前へ押して、機体を地面へ置こうともしない。
滑走路の上を進みながら、速度が落ちるのを待つ。
主脚が地面へ触れた。
一度、軽く荷重が抜ける。
義雄は操縦桿を動かさず、機体がふたたび沈むのを待った。
今度は主脚が確実に接地する。
そのまま二点姿勢を保ち、速度を落とす。
尾輪が地面へ下りた。
方向舵の効きが弱くなるにつれ、左右のブレーキを使って機首を保つ。
疾風は滑走路の中心を外れることなく、速度を落とした。
*
駐機場へ戻ると、刈屋たちが待っていた。
義雄が発動機を止める。
プロペラが止まりきる前に、整備兵たちは機体の周囲へ散った。
油の漏れ。
排気管の色。
覆いの隙間から流れた汚れ。
脚とタイヤ。
主翼と舵面。
刈屋は義雄が降りるのを待たず、機首の下へ入った。
「油温が少し上がった」
操縦席から義雄が言った。
「どの操作のあとですか」
「上昇試験のあとだ。高度を取ってから降下し、もう一度引き起こした」
「回転数は」
義雄は数値を答えた。
刈屋が帳面へ書き込む。
「操縦性は」
「鍾馗より重い」
「やはり鈍いですか」
「いや」
義雄は座席帯を外し、主翼へ降りた。
「動かし始めるまでは重い。だが、動き始めれば素直だ。低速でも思ったより翼が支える」
「着陸では浮きましたか」
「お前の言ったとおりだ」
「押しつけませんでしたね」
「脚を壊して、お前に叱られたくないからな」
「結構です」
刈屋はようやく顔を上げた。
「発動機は」
「力はある」
義雄は、機首の覆いへ手を置いた。
金属板の向こうから、まだ熱が伝わってくる。
「だが、もっと出せるはずだ。スロットルを開けても、どこかで手加減させられている」
「燃料に合わせて点火時期を抑えていますから」
「機体は足りた。今度は、燃料が足りんか」
「少なくとも、発動機のせいだけにはできません」
整備兵が発動機覆いを外した。
刈屋は、さっそく内部を調べ始める。
義雄は主翼から地面へ降りた。
少し離れたところで、水野が待っていた。
「どうでした」
「いい機体だ」
「それだけですか」
「お前も乗れば分かる」
「今すぐ乗っても?」
刈屋が誉の奥を覗き込んだまま答えた。
「点検が終わってからです」
水野は口を閉じた。
義雄は疾風を振り返った。
鍾馗より大きな機体が、整備兵たちに囲まれている。
発動機覆いを開かれ、油で汚れた内部をさらしていても、その姿から速さは失われていない。
よく飛ぶ。
よく曲がる。
よく登る。
そして、鍾馗では足りなかった火力を持っている。
だが、この機体を性能表どおりに飛ばすために必要な燃料も、部品も、時間も、すでに不足し始めていた。
義雄はもう一度、疾風の胴体へ手を置いた。
時計は何も言わない。
機体も、まだ何も言わない。
それでも、外板の下に残った熱と、飛行中に操縦桿へ返ってきた力を、義雄は覚えていた。
「行くぞ」
返事を待つように、一度言葉を切った。
「二人で帰ってくる」
左手首では、チュチマが静かに時を刻み続けていた。




