勇気は装備ではない
赤い鍾馗は、通常攻撃隊の後を追って上昇してきた。
武装も弾薬も防弾板も降ろした機体は、ほかの鍾馗より軽い。上昇角を同じにしても、じわじわと距離を詰めてくる。
義雄は一度だけ後ろを振り返った。
三田機は、決められた位置を守っていた。
「震天隊は、そのまま上昇を続けろ。通常隊の上方で待機」
『了解』
三田の声が無線に入った。
酸素マスクを通した声は、いつもより遠く聞こえた。
高度五千。
義雄は混合比を調整し、発動機の音と回転計を確かめる。
高度六千を越え、電熱服へ通電する。
今回は左腿だけが焼けることも、片脚だけが凍ることもなかった。
全身が暖かいとは言い難い。それでも、厚い手袋の中で指は動く。フットバーを踏めば、爪先へ反力が返ってくる。
刈屋たちが整備したものは、正常に働いていた。
それだけで、前回とは別の空に思えた。
高度七千。
過給機を切り替える。
鍾馗の発動機音がわずかに変わった。
義雄はスロットルを調整し、機首を上げすぎないよう操縦桿を戻す。上昇率を欲張れば、速度を失う。
後方では水野機が右へ少し開き、義雄の死角を補っていた。
さらに後ろを、別の二機編隊が間隔を保って上昇している。
無線に地上からの誘導が入った。
『敵編隊、北東進。高度約九千。進路に変化あり』
義雄は眼下の地形を確かめた。
予想より東へ流されている。
空中での速度は足りている。それでも、強い西風へ向かうと地表の景色がほとんど後ろへ動かない。
鍾馗が見えない流れに押し戻されている。
「全機、針路を右へ取れ」
編隊が緩やかに向きを変えた。
三田たち震天隊は、通常攻撃隊よりさらに高度を取っている。
軽くなった鍾馗はよく登った。
義雄には、それを喜ぶことができなかった。
『十一時上方。多数』
水野の声だった。
義雄は左上方へ目を凝らした。
青黒い空の中に、銀色の点が並んでいる。
一つ、二つではない。
点は列となり、さらにその後ろにも列が続いている。
接近するにつれて、それぞれが長大な主翼と太い胴体を持つ四発機の姿へ変わった。
単機で侵入した偵察機とは違う。
空の一角を、B29の編隊が占めていた。
義雄は上方を確認した。
赤い鍾馗も、敵編隊を見つけている。
「震天隊、その高度を維持。命令があるまで降下するな」
『了解』
「水野、右後方を頼む」
『了解』
「後続は間を取れ。一番組が離脱してから攻撃に入れ。同じ敵へ一度に群がるな」
返答が続いた。
義雄はB29編隊の進路を読む。
敵の現在位置へ向かっても、追いつくころには後方へ抜けられる。
「敵のいる場所へ飛んでも間に合わん」
自分へ言い聞かせるように呟いた。
「敵が来る場所へ先に上がる」
鍾馗の機首を、敵編隊の前方へ向ける。
速度を保ちながら高度を稼ぎ、B29の進路を横切る位置へ回り込む。
敵編隊が下方に見え始めた。
義雄は操縦桿を倒した。
鍾馗が左へ傾く。
フットバーを踏み、横滑りを抑える。さらに操縦桿を前へ押し、高度を速度へ変えていく。
発動機音が高まり、速度計の針が右へ動いた。
視界の中で、B29が急速に大きくなる。
義雄は敵の現在位置ではなく、その飛行線の先へ機首を置いた。
筒型照準器を覗く。
視野の端から、B29の機影が入ってきた。
高高度の薄い空気では、操縦桿を動かしても機体の反応が鈍い。フットバーを踏みすぎると機首が滑り、狙点と着弾点がずれる。
義雄は操縦桿を握る力を抜いた。
小さく修正する。
照準器の中を、巨大な機体がゆっくり横切っていく。
まだ遠い。
義雄は撃たない。
敵の銃座がこちらを向いた。
B29の機体が照準器の視野を埋めていく。
主翼。
発動機。
胴体の外板。
国籍標識。
それぞれの形が見分けられる距離まで近づく。
「まだだ」
鍾馗へ向けて言った。
「もう少し、連れていけ」
敵機との距離が詰まる。
義雄は操縦桿上部の射撃ボタンを押した。
機銃が一斉に火を吐いた。
発射の振動が、操縦桿と座席を通して身体へ伝わる。
曳光弾がB29の前方へ走り、敵機の進路と重なった。
主翼付け根から胴体へ、着弾の白い閃光が続く。外板の破片が剝がれ、後方へ飛んだ。
一基の発動機から、黒い煙が流れ始める。
敵の防御砲火がこちらへ伸びた。
義雄は射撃ボタンから指を離した。
それ以上は追わない。
操縦桿を前へ押し、フットバーを踏み足す。鍾馗をB29の下方へ滑り込ませ、編隊から抜ける。
直後、赤い曳光弾が風防の上を通過した。
「一番組、離脱。二番組、入れ」
義雄は速度を残したまま降下を続けた。
水野機も右後方からついてくる。
後続の二機編隊が、入れ替わるようにB29へ向かっていった。
機銃の発射光が瞬く。
B29の胴体に新たな命中痕が生じる。
波状攻撃は機能していた。
一組が攻撃して離れたあと、次の組が入る。
敵の銃座に一機だけを狙い続ける時間を与えず、鍾馗は速度を失わない。
義雄たちが、これまで訓練してきたとおりの攻撃だった。
だが、B29は落ちなかった。
最初に義雄が撃った一機は、一基の発動機から煙を吐きながらも飛び続けている。
編隊からわずかに遅れてはいる。
それでも、高度を大きく失ってはいない。
義雄は機首を上げた。
速度をできるだけ残しながら上昇し、次に敵の進路を叩ける位置へ向かう。
「残弾は」
『まだあります』
水野が答えた。
「次は、もっと近づく」
『また刈屋中尉に叱られますよ』
「帰れればな」
義雄はB29の前方へ回り込んだ。
二度目の攻撃へ入る。
今度は射撃開始をさらに遅らせた。
B29の防御砲火が先に始まる。
曳光弾が鍾馗の左右を流れた。
義雄は大きく避けない。
操縦桿をわずかに倒し、フットバーで機首を合わせ直す。
照準器から敵機を逃がさない。
B29の胴体が急速に膨らむ。
義雄は射撃ボタンを押した。
発射振動。
曳光弾。
敵機の外板に並ぶ着弾。
風防の向こうで、破片が飛び散る。
次の瞬間、左翼に硬い衝撃が走った。
操縦桿が震える。
義雄は射撃を止めた。
操縦桿を引きすぎず、そのままできるだけ速度を保ちながらB29の下方へ抜け、降下して離脱する。
「水野」
『ついています』
義雄は左翼を見た。
翼面に穴が開いている。
だが、補助翼は動く。燃料も漏れていない。
まだ戦える。
再び高度を取りながら、義雄は攻撃を受けたB29を探した。
煙は濃くなっていた。
しかし、まだ飛んでいる。
当たらなかったのではない。
狙った場所へ、確かに当てた。
戦法も間違っていない。
鍾馗も、操縦に応えている。
それでも足りなかった。
義雄は上方を見た。
赤い鍾馗が、機首を下げようとしていた。
「震天隊、そのまま待て」
赤い機体の姿勢が戻った。
義雄は三度目の攻撃位置を取る。
残弾は少ない。
燃料も減っている。
何より、一度攻撃するたびに高度を失う。上り直している間にも、B29は先へ進む。
通常攻撃隊の別の鍾馗が接近した。
機銃を撃つ。
敵機の尾部に命中する。
それでも、B29は飛び続ける。
義雄は照準器へ敵機を入れた。
最後まで近づく。
射撃ボタンを押す。
機銃が短く火を吐き、止まった。
弾が尽きた。
義雄は射撃ボタンから指を離す。
機首を下げ、敵機の下を抜けた。
「一番機、残弾なし」
水野から返事が入る。
『二番機、残り僅か』
義雄は後続機の位置を確認した。
通常攻撃を続けられる機体は、まだある。
だが、B29編隊は目標へ近づいている。
上方で待機していた赤い鍾馗が、再び機首を下げた。
「三田、まだだ」
『三田機、了解』
返事はあった。
しかし、赤い鍾馗は降下を続けた。
「待機しろ。通常攻撃を続けられる」
今度は返事がない。
三田機は、煙を吐くB29へ向かっていた。
義雄には、その理由が分かっていた。
三田機には機銃がない。
弾薬もない。
照準器もない。
敵へ向けて降下を始めた以上、できることは一つしか残されていない。
「三田、帰れ!」
震天制空隊へ出された命令とは、正反対の言葉だった。
赤い鍾馗は進路を変えない。
B29の尾部へ向けて距離を詰めていく。
機影を収める照準器はない。
射撃距離を測る必要もない。
操縦席にいる三田自身が、唯一の照準器だった。
「三田!」
赤い鍾馗が、B29の下方から機首を起こした。
B29の銃座が火を吐く。
鍾馗の主翼から、小さな破片が飛んだ。
それでも機体は上がっていく。
二つの機影が重なった。
音は聞こえなかった。
銀色の巨体から尾部の一部が折れ、赤い鍾馗の翼がちぎれた。
わずかに遅れて、破片が空へ広がった。
B29が傾く。
編隊から外れ、煙を引きながら高度を落としていく。
赤い鍾馗だったものも、いくつかの破片に分かれて落下していた。
義雄は空を探した。
落下傘は見えない。
「三田、応答しろ」
雑音しか返らない。
「三田」
義雄はもう一度呼んだ。
返事はなかった。
B29編隊の防御砲火が、再び周囲を通過した。
ここで立ち止まることはできない。
三田を追って降りることもできない。
義雄は操縦桿を倒した。
「全機、敵編隊から離脱。残弾と燃料を報告しろ」
返答が続く。
その中に、三田の声はなかった。
成増へ帰還すると、刈屋が義雄機の左翼へ駆け寄った。
外板に開いた穴へ手を入れ、内部を確かめる。
「主桁までは達していません。補助翼の索も無事です」
「次も飛べるか」
「飛ばします」
刈屋は短く答えた。
ほかの整備兵たちも、帰還した鍾馗へ取りついている。
被弾した機体。
機銃を撃ち尽くした機体。
高高度で発動機を酷使し、油を吹いた機体。
損傷していても、帰ってきた機体には整備兵が集まった。
震天隊の赤い鍾馗も帰還していた。
武装も防弾板も持たない機体が、再び列線へ並べられている。
その中に、一か所だけ空いた駐機位置があった。
三田の赤い鍾馗が置かれていた場所だった。
車輪止めだけが残っている。
刈屋も、その場所を見た。
「機体は直せます」
誰に言うでもなく、刈屋が口にした。
少し間を置く。
「ですが、搭乗員は直せません」
義雄は答えなかった。
やがて、搭乗員の一人が言った。
「三田伍長は、よくやりました」
義雄も、それを否定しなかった。
否定できるはずがなかった。
「ああ。勇敢だった」
一度、そこで言葉を切った。
「だが、勇気は装備ではない」
周囲が静まった。
発動機の冷える音と、工具が外板へ触れる音だけが残った。
「足りない機銃も、届かない高度も、薄い装甲も――搭乗員の勇気で埋めていい穴じゃない」
若い搭乗員が口を開いた。
「ですが、通常攻撃では落とせませんでした」
「だからといって、生きて帰れない方法を戦法にしたら、次は誰を使う」
義雄は、その搭乗員を見た。
「その次は誰だ」
誰も答えない。
「最後には、飛べる者が誰も残らん」
「体当たりしても、脱出はできます」
「生還できた者がいることと、生還できる戦法であることは違う」
義雄は、赤い鍾馗がいた場所へ目を向けた。
「三田は命令を果たした。あいつの勇気を疑う者はいない」
空になった駐機位置には、もう誰も近づかなかった。
「だからこそ、それを次の搭乗員へ要求してはいけない」
義雄は、自分の持ち機へ戻った。
左翼には弾痕がある。
胴体と主翼には、硝煙と油がこびりついている。
それでも鍾馗は義雄を飛行場まで連れて帰った。
義雄は胴体へ手を置いた。
「お前が悪いんじゃない」
金属の外板は、まだ発動機の熱を残していた。
「お前は、届くところまでは連れていってくれた」
義雄は、傷ついた主翼を見る。
「足りなかったのは、その先だ」
少し離れたところで、刈屋が聞いていた。
「片桐大尉」
「何だ」
「機体が本当に話せるなら、何と言うでしょうな」
義雄は考えた。
「もっと早く連れていけ」
「はい」
「もっと近くまで寄せろ」
「手厳しいですな」
「飛ぶために作られたものは、飛ばし方にも注文が多い」
義雄は赤い鍾馗がいた場所を見た。
油の染みと、車輪止めだけが残っている。
「あいつも、帰りたかっただろうな」
三田のことなのか。
赤い鍾馗のことなのか。
刈屋は尋ねなかった。
義雄は左手首のチュチマを見た。
クロノグラフの針は、攻撃を開始してからの時間を示している。
実際に射撃できた時間は、ほんの数秒。
攻撃位置へ入り、撃ち、離脱するまでを含めても数十秒にすぎない。
義雄はクロノグラフを止めた。
針を零へ戻す。
時計は何も言わない。
ただ、時を刻み続けた。
年が明けた。
義雄の机へ、一通の書類が置かれた。
機種転換に関する命令だった。
水野が横から書面を覗き込む。
「四式戦闘機」
義雄は書類の文字を追った。
鍾馗より速く、航続距離も長い。武装も強化され、格闘性能まで備えているという。
「今度こそ、足りますかね」
水野が言った。
義雄は、格納庫の外に並ぶ鍾馗を見た。
速さと上昇力を求め、旋回性能だけに頼らない戦闘機として生まれた機体。
鍾馗が先に選んだ思想を、さらに先へ進めた新型機が来る。
「それは、乗ってみなければ分からん」
遠くから、聞き慣れない発動機音が近づいてきた。
義雄と水野は格納庫の外へ出た。
飛行場上空へ、一機の戦闘機が進入してくる。
鍾馗より長い胴体。
大きく広がった主翼。
空冷発動機を収めた機首から、尾部へ向けて滑らかに絞られた機体。
四式戦闘機――疾風。
新しい機体は飛行場上空を一度通過し、着陸のために旋回へ入った。
義雄は、その姿を目で追った。
左手首では、チュチマが静かに時を刻んでいた。




