赤い鍾馗
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
十一月二十四日、早朝。
「各員、搭乗」
片桐義雄の声で、待機所の空気が一斉に動いた。
搭乗員たちが飛行帽と手袋を手に取り、扉から駆け出していく。整備兵も、それぞれの担当機へ散った。
成増飛行場の列線には、出撃準備を終えた鍾馗が並んでいる。
その中に、四機だけ異なる姿の機体があった。
銀色の機首から胴体へ、鮮やかな赤が塗られている。
一機の胴体側面には、大きな陣太鼓が描かれていた。独立飛行第四七中隊だったころ、鍾馗とともに戦場を渡った部隊の印だった。
義雄は、赤い鍾馗の前で足を止めた。
*
その塗装が施されたのは、単独で侵入したB29を取り逃がした直後だった。
戦隊本部から届いた命令書には、震天制空隊を編成せよと記されていた。
要員は四名。
高高度を飛行するB29に対し、通常の射撃による撃墜が困難な場合、機体をもって体当たりする。
衝突の直前、あるいは直後に機外へ脱出し、落下傘によって生還を期す。
説明した上官は、必死の攻撃ではないと強調した。
義雄は命令書を机の上へ置いた。
「一万メートルで四発重爆へ機体を当て、そのあと無事に脱出しろと?」
「生還の手段は残されている」
「それを生還可能とは言いません」
義雄は、命令書の短い文章を見た。
「生還を禁じていないだけです」
上官の表情が硬くなった。
「片桐大尉」
「命令には従います」
義雄は立ち上がった。
「ですが、通常攻撃で落とせる限り、震天機は使いません」
「判断する時間があるとは限らんぞ」
「その判断をするために、自分が上がります」
命令を拒否することはできなかった。
だからこそ義雄は、命令に書かれていない余地を残そうとした。
震天制空隊に選ばれた搭乗員の中に、三田伍長がいた。
若いが、鍾馗を任せられるだけの技量はある。命令を告げられても取り乱さず、背筋を伸ばして聞いていた。
義雄は、三田だけをその場へ残した。
「射撃で落とせるなら、体当たりする必要はない」
「はい」
「通常攻撃隊が先に入る。お前たちは上方で待て」
「はい」
「我々が落とせば、そのまま帰投しろ」
「はい」
三田は三度、同じ返事をした。
「返事だけで、納得したふりをするな」
三田がわずかに表情を緩めた。
「大尉殿も、無理なことを言われますね」
「何がだ」
「命令には従え。しかし、命令どおりには死ぬなと聞こえます」
「敵を落とすことがお前の任務だ。死ぬことではない」
「ですが、震天制空隊は、そのための部隊でしょう」
「体当たりしたあとでも、脱出できるなら生きて戻れ。機体を操縦できるなら、必ず飛行場まで帰せ」
三田は少し黙った。
今度は、形だけではなく、義雄の言葉を呑み込んでから答えた。
「はい」
*
震天機への改修は、その翌日から始まった。
格納庫へ四機の鍾馗が引き入れられた。
刈屋正意中尉の指示で、整備兵たちが機体の覆いを外す。
最初に、翼と胴体から機銃が抜かれた。
弾薬と給弾装置が降ろされる。
操縦席からは筒型照準器が外された。
続いて、搭乗員の背後に取り付けられていた防弾板が取り外された。
ほかにも、体当たりまでの飛行に不要と判断された装備が、次々と機体から降ろされていく。
作業台の上へ、鍾馗を戦闘機たらしめていたものが並んだ。
機銃。
弾薬。
照準器。
防弾板。
敵を撃つためのものと、搭乗員を守るためのもの。
機体は確かに軽くなっていった。
そのぶんだけ、何かを奪われていくように義雄には見えた。
「どれだけ変わる」
義雄が尋ねると、刈屋は作業記録から顔を上げた。
「上昇には、はっきり差が出るでしょう」
「一万まで上がれるか」
「上がりやすくはなります」
刈屋は、床へ置かれた防弾板を見た。
「帰りやすくはなりませんが」
義雄は、機銃を抜かれた主翼へ目を向けた。
銃口があった場所には、空虚な穴が残っている。
「戦えなくするほど、戦場へ届きやすくなるわけか」
刈屋は答えなかった。
答える代わりに、整備兵へ作業の続きを命じた。
軽量化しただけで、すぐに飛ばせるわけではない。
重量の変化に合わせて機体の釣り合いを確認し、舵の遊びを調べる。発動機、燃料系統、点火栓、酸素装置。取り外した装備の跡にも異常がないか確かめる。
刈屋たちは、震天機を通常機以上に念入りに整備した。
一万メートルまで確実に上がれるように。
狙った敵へ、正確に届くように。
そして、衝突する瞬間まで搭乗員の操作に応えるように。
整備が完全であるほど、その機体は体当たりに適したものになる。
これほど腕を振るうことが嬉しくない仕事はなかった。
発動機覆いを閉じた整備兵が、工具を片づける。
義雄は、軽くなった鍾馗へ近づいた。
「こいつは、ぶつかるために作られたんじゃない」
刈屋は作業記録へ何かを書き込みながら答えた。
「はい」
「飛んで、戦って、搭乗員を連れて帰るために作られたんだ」
「分かっています」
「なら、なぜそんなに丁寧に仕上げられる」
刈屋の手が止まった。
「不完全に仕上げれば、体当たりする前に搭乗員が死にます」
義雄は何も言えなかった。
「それに――」
刈屋は鍾馗を見上げた。
「帰れる機会が僅かにでもあるなら、そのときに操縦へ応えられる機体でなければなりません」
命令された仕事を、わざと不完全にすることはできない。
刈屋にできる抵抗は、搭乗員が最後まで操縦できる機体へ仕上げることだけだった。
*
整備を終えた鍾馗には、識別のための塗装が施された。
刷毛が、銀色の機首へ赤い線を引いた。
塗料を含ませるたび、その赤は機首から胴体へ広がっていく。
鮮やかな色だった。
勇壮にも見えた。
「ずいぶん派手になりましたね」
隣で水野中尉が言った。
義雄は答えなかった。
飛行中に、通常攻撃隊と震天制空隊を見分けるための印。
それ以上に、帰ってくる機体と、帰還を求められていない機体を区別する印のように見えた。
塗装が乾いたあと、義雄は赤い鍾馗の主翼へ手を置いた。
金属の冷たさが、掌へ返ってきた。
「お前まで、そのつもりにさせられたのか」
当然、返事はない。
機銃を外されても、照準器を奪われても、鍾馗の形は変わらない。
翼は飛ぶための形を保ち、発動機は回されるときを待っている。
そのことが、かえって義雄にはつらかった。
「大尉殿」
振り返ると、三田が立っていた。
三田は赤く塗られた自分の機体を見上げた。
「よく上がるようになったそうですね」
「そのために、必要なものを全部外した」
「なら、任務には向いています」
三田は主翼の下へ回り、機銃が外された場所を覗き込んだ。
「軽くなったぶん、操縦も変わりますか」
「変わる。試験飛行で確かめろ。上昇がよくなったからといって、無理に機首を上げるな」
「はい」
「発動機も、酸素も、電熱服も、すべて出撃前にもう一度確認しろ」
「はい」
「三田」
三田が振り返った。
「帰ってこい」
三田は姿勢を正し、義雄へ敬礼した。
「はい」
だが、義雄の手は赤い鍾馗の主翼へ置かれたままだった。
「二人ともだ」
三田は自分の機体を見た。
塗りたての赤が、格納庫へ差し込む光を鈍く返している。
しばらくして、三田はもう一度答えた。
「はい」
義雄の左手首では、チュチマが規則正しく時を刻んでいた。
時計は何も言わない。
ただ、赤く塗られた鍾馗と、その隣に立つ三田を見ていた。
*
そして、十一月二十四日。
B29の大編隊が関東へ接近した。
列線では、通常攻撃隊の鍾馗が次々と発動機を始動している。
義雄も自分の持ち機へ向かった。
その途中で、赤い鍾馗の前に立つ三田と目が合った。
「通常攻撃隊が先に入る」
「はい」
「我々が攻撃している間は、絶対に降りてくるな」
「了解しました」
「撃墜できれば、そのまま帰れ」
「了解しました」
三田は笑わなかった。
義雄も、それ以上は何も言わなかった。
整備兵が三田の身体を支え、操縦席へ上げる。
機銃も、弾薬も、照準器もない。
搭乗員の背を守る防弾板もない。
それでも、発動機の始動音はほかの鍾馗と何も変わらなかった。
起動車が接続される。
プロペラが回り、発動機へ火が入る。
排気が白く流れる。
機体は、自分に与えられた役目など知らないまま、飛ぶ準備を整えていく。
義雄は自分の鍾馗へ乗り込んだ。
肩帯と腰帯を締め、酸素装置と電熱服の接続を確認する。整備兵が車輪止めの前で待機している。
義雄は赤い鍾馗を見た。
「帰ってこい」
発動機音に消され、自分の耳にも届かなかった。
それが三田へ向けた言葉なのか、赤い鍾馗へ向けた言葉なのか、義雄自身にも区別できなかった。
離陸の合図が出た。
通常攻撃隊の鍾馗が、一機ずつ滑走を始める。
排気とプロペラの掻いた空気が、地面の砂塵を巻き上げた。
義雄は機首を滑走路へ向け、スロットルを押し出した。
プロペラの反トルクで左へ振られようとする機首を、右フットバーを踏んで押さえる。
速度が乗ったところで操縦桿をわずかに前へ送り、尾輪を浮かせた。
前方視界が開けてくる。
さらに加速する。
義雄が操縦桿を軽く引くと、鍾馗は地上を離れた。
脚を引き込み、脚位置表示を確かめてから上昇へ移る。
その後ろから水野機が続く。
さらに後続の通常攻撃隊が、次々と空へ上がる。
最後に、赤い鍾馗が滑走路へ入った。
武装を持たず、守るものも削られた機体が、ほかの鍾馗より短い滑走で尾輪を浮かせる。
三田機は速度を増し、静かに地上を離れた。
赤い機首が上を向く。
鍾馗は本来の性質に従って、空へ上がっていった。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




