高すぎる敵
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
昭和十九年秋。
飛行第四七戦隊の作戦室には、南方や中国大陸から送られてきた戦闘詳報が積み上げられていた。
敵戦闘機の性能、編隊の組み方、攻撃を受けた際の動き。活字になった報告の行間には、それを書き残すまでに帰ってこられなかった搭乗員たちの数が、見えないまま横たわっている。
黒板には、片桐義雄が白墨で描いた四本の航跡があった。
二本は味方機。残る二本は敵機。
「この一機を追ったとする」
義雄は敵機を示す線に沿って、こちらの航跡を延ばした。
「敵は旋回しながら逃げる。こちらは、その内側へ入れば追いつけると思う」
教室に集められた若い搭乗員たちが、黒板を見つめていた。
義雄の隣には水野中尉が立っている。進級したばかりだが、態度も軽口も少尉だったころから大して変わっていない。
もっとも、二機編隊の僚機を務めさせるなら、義雄が最も信頼できる搭乗員の一人になっていた。
「ところが、もう一機は逃げない」
義雄は、外側を回る敵機から日本機の後方へ線を引いた。
「追っているつもりが、追われる側になる」
一人の少尉が手を挙げた。
「では、敵の編隊を先に崩して、一機ずつ仕留めればよいのではありませんか」
「どうやって崩す」
「一機へ攻撃を集中します」
「その間、もう一機は何をしている」
少尉は答えに詰まった。
水野が黒板を見ながら言った。
「中尉……いや、大尉。敵も、我々と同じことを始めたということですか」
「同じではない。だが、考え方は近い」
義雄は白墨を置いた。
「敵機が急に強くなったわけではない。敵が、こちらの得意な戦いをしてくれなくなったんだ」
P38、P39、P40、F4F。これまでの戦闘詳報には、それらを旋回戦へ引き込み、撃墜した記録がいくつもあった。
だが、最近の敵は不利になれば降下して離脱する。一式戦では、急降下して逃れる米軍機へ、そのまま追従しきれないことも多い。一機を追えば、僚機がその後ろへ回る。いったん攻撃を外しても、別の一機が入れ替わって攻撃してくる。
機体の性能だけではなかった。
敵もまた、戦いながら学んでいた。
「二機で守り合うという考え方は、我々だけのものではない」
机の上には、新たに前線へ現れた敵機の資料も置かれていた。
P51、F6F、F4U。
飛行第四七戦隊が、まだ直接相手にしたことのない機体だった。
速度、上昇力、火力、防弾。そのどれか一つではなく、すべてを高い水準で備えている。
若い搭乗員が、写真を手に取った。
「それでも、格闘戦なら」
「その格闘戦に、敵が付き合う理由はない」
義雄の言葉に、室内が静まった。
「向こうは、機体だけでなく戦い方まで変えている。我々も変わらなければ、昨日まで勝てた相手に、明日は勝てなくなる」
*
警報が入ったのは、それから数日後だった。
関東南方の高空を、単独の大型機が北上している。
これまでの重爆撃機とは比較にならない高度。速度も速い。
新型重爆撃機、B29。
爆撃に先立つ写真偵察か、気象観測と推定された。
出動命令を受けた搭乗員たちは、厚い航空被服へ身体を押し込んだ。電熱航空被服と電熱手袋を接続し、酸素マスクを確認する。
地上にいる間は、汗ばむほどだった。
義雄は鍾馗の操縦席へ収まり、肩帯と腰帯を締めた。厚着した身体には、普段より操縦席が狭く感じられる。
整備兵が電熱服と酸素装置の接続を確認した。
刈屋中尉が、主翼の下から義雄を見上げる。
「電熱服は、上空へ出てから通電してください」
「地上で入れたら蒸し焼きになる」
「それだけ働いてくれれば、上等ですが」
義雄は眉を上げた。
「何か問題があるのか」
「昨日、別の一着で断線が見つかりました。こちらは導通を確認していますが、温まり方までは飛んでみないと分かりません」
「先に言ってくれ」
「今、申し上げました」
刈屋は、いつもの丁寧な口調のまま一歩下がった。
始動の号令がかかる。
起動車が接続され、義雄は始動の合図を送った。
外部動力でプロペラが、重そうに一枚ずつ翅を送る。
義雄が点火を入れると、発動機が火を拾った。
爆発が一つずつつながり、やがて胴体全体を震わせる連続音に変わる。
暖機を終え、鍾馗は滑走路へ出た。
義雄はスロットルを押し出す。
プロペラの反トルクで左へ振られようとする機首を、右フットバーを踏んで押さえる。速度が乗ったところで操縦桿をわずかに前へ送り、尾輪を浮かせた。
前方視界が開けてくる。
鍾馗は滑走路を離れた。
義雄は脚を引き込み、脚位置表示を確かめてから上昇へ移る。油温と筒温を見ながら、発動機に無理をさせない範囲で高度を稼いでいく。
水野機が右後方についた。
そのさらに後方を、もう一組の二機が上がってくる。
高度三千。
空気が冷え始めた。
高度五千。
義雄は混合比を調整し、発動機の音と回転計を確かめた。酸素マスクを顔へ密着させる。
自分の呼吸音が、頭の内側で鳴っているように聞こえた。
高度六千を越えた。
義雄は電熱服へ通電した。
何も起こらなかった。
接続を確かめる余裕はない。右手は操縦桿、左手はスロットルから離せない。
数十秒後、左腿に温かさを感じた。
ようやく働き始めたかと思った。
だが、熱は左腿の一か所だけに集まっていた。
温かいのではない。
火のついた煙草を、服の上から押しつけられているような熱さだった。
義雄は電源を切った。
熱は少しずつ引いた。
一方で、右足の爪先は冷え続けていた。電熱手袋の左側も働いていないらしく、指先の感覚が薄れていく。
電源を入れ直す。
また左腿が焼け始める。
腰の右側にも、針で刺されるような熱が生じた。
そのほかの場所は冷たいままだった。
義雄は短時間だけ通電しては切った。
暖を取っているのではない。
凍えるまでの時間を、少しずつ先へ延ばしていた。
高度七千。
過給機を切り替える。
切り替えた瞬間、発動機の調子がわずかに変わった。義雄は回転数を見ながらスロットルを調整する。
地上では敏捷だった鍾馗が、別の機体のように鈍くなっていく。
操縦桿へ返ってくる力が薄い。フットバーを踏んでも、機首は一拍遅れて動く。
義雄は上昇角を欲張らなかった。
機首を上げすぎれば速度を失う。速度を取り戻すために機首を下げれば、せっかく稼いだ高度を失う。
速度と高度のあいだにある細い道を、鍾馗とともに上っていく。
無線に雑音が入った。
『目標、北東へ進行。高度、約一万』
約一万。
その言葉だけで、義雄は奥歯を噛んだ。
「一番機、了解」
返事をした声が、酸素マスクの中でくぐもった。
左手の指が動きにくい。
義雄は指を何度か握り直し、スロットルの頭を確かめた。
高度八千。
敵機はまだ見えない。
地上から見上げれば、どちらも同じ空を飛んでいるように見えるだろう。
だが、義雄たちは機外の寒気と薄い空気の中へ、身体をむき出しにして上がっている。
義雄にはあずかり知らぬことではあるが、B29は、その空の中へ地上そのままの環境を持ち込んでいる。
同じ高度にいても、同じ場所にいるわけではなかった。
『十一時上方、単機』
水野の声だった。
義雄は左上方を見た。
青黒い空の中に、銀色の点があった。
点は四発機の形になり、やがて長い主翼と大きな胴体が見分けられるようになった。
高い。
まだ、こちらよりはるかに高い。
義雄は機首を上げた。
速度計の針が落ち始める。
操縦桿を引けば上がる。だが、上がるだけでは近づけない。
敵機は、こちらが高度を稼ぐ間にも前へ進んでいる。
「水野、無理に機首を上げるな。速度を残せ」
『了解』
鍾馗は登った。
発動機は回っている。
プロペラも空気を掻いている。
それでも、敵との距離は縮まらない。
義雄は右フットバーを踏み足した。
爪先から返ってくるはずの感触がない。
踏んだつもりなのか、本当に踏めているのか。右方向舵が足りず、一瞬遅れて機首が左へ振られた。
義雄は計器と風防の外を見比べながら、踏み量を修正した。
敵機は、ゆっくりと右へ遠ざかっていく。
あと千メートル。
いや、千メートル上がったとしても、そこから攻撃に使える速度がない。
敵機の高度へ届くことと、敵機を撃てることは違う。
義雄は追撃を断念した。
「一番機より各機。これ以上は追わない。編隊を維持して降下する」
一瞬の間を置いて、返答が続いた。
水野機が翼を振る。
義雄は機首を下げた。
速度が戻るにつれて、操縦桿とフットバーの手応えも戻ってきた。
鍾馗が、ようやく鍾馗に戻っていく。
だが、銀色の四発機は上空を悠然と飛び去っていた。
撃てなかった。
敵の射撃を受けたわけでもない。
操縦を誤ったわけでもない。
ただ、そこまで届かなかった。
*
着陸後、義雄は操縦席から立ち上がろうとして、右脚に力が入らないことに気づいた。
翼の上へ出たところで膝が崩れた。
待機していた整備兵が、慌てて身体を支える。
「大尉殿」
「脚が冷えただけだ。機体を先に見ろ」
「その脚で言われても説得力がありません」
下から刈屋が言った。
整備兵二人がかりで地上へ降ろされ、義雄は格納庫脇の椅子へ座らされた。
航空被服を脱ぐ。
左腿には、配線に沿うような赤い腫れが残っていた。右脚は触れられても感覚が鈍く、自分の脚ではないようだった。
刈屋は、取り外した電熱服を作業台へ広げた。
整備兵が検査器を当て、配線を順に調べていく。
「左腿へ電流が集中しています」
「右脚は」
「途中で切れています。こちらには流れていません」
刈屋が答えた。
「片方は焼いて、片方は凍らせるのか」
「公平ではありますな。どちらの脚も使えなくなる」
「笑い事か」
「笑ってはおりません」
刈屋はいつもの表情で言った。
少なくとも、義雄には笑っているようには見えなかった。
水野が隣の椅子へ腰を下ろした。
「私のは、背中だけ温かくなりました」
「手は」
「途中から、操縦桿を握っているのかどうか分からなくなりました」
「それを先に言え」
「無線で報告しようとしたんですが、その無線のつまみを回せませんでした」
義雄は額へ手を当てた。
刈屋は電熱服から目を離さずに言った。
「航空被服も酸素装置も、これからは搭乗員ごとに割り当てます」
「数が足りるのか」
「足りないなら、なおさらです。誰がどれを使い、どこへ不具合が出たか分からないまま使い回す余裕はありません」
刈屋は整備兵へ指示を出した。
配線の導通だけではなく、部位ごとの発熱を確認する。接続部と電線の履歴を記録する。電熱手袋も左右別々に検査する。
酸素装置についても、気密と供給量だけでなく、搭乗員が実際にマスクを着けた状態で確認する。
「機体だけ飛べても駄目だ」
義雄が言った。
「中で人間が凍っていたら、戦闘機にはならん」
刈屋が顔を上げた。
「機体と搭乗員を合わせて、一機ということですな」
「ああ」
その日から、鍾馗の記録にも項目が増えた。
規定高度へ達するまでの時間。
油温と筒温の推移。
過給機を切り替えたあとの回転数。
高高度での出力低下。
無線、酸素装置、電熱航空被服の状態。
同じ鍾馗でも、すべてが同じようには飛ばない。
上昇のよい機体もあれば、高度を上げると発動機の回転が不安定になる機体もある。温度の上がりやすい機体、速度の乗りやすい機体、右へ取られやすい機体。
義雄が感覚として捉えていた個体差を、刈屋は記録へ変えていった。
*
数日後、義雄は格納庫で自分の持ち機と向き合った。
整備兵が発動機覆いを閉じ、工具を片づけている。
義雄は鍾馗の胴体へ手を置いた。
冷たい金属の感触が、掌へ返ってきた。
「今度は、もう少し早く呼んでもらう」
当然、返事はない。
「お前なら、届くところまでは行ける」
左手首では、ドイツから来たチュチマが静かに針を進めていた。
それもまた、何も答えなかった。
*
十一月二十四日、早朝。
待機所の電話が鳴った。
南方より、大型機の編隊が接近中。
その数、一機ではない。
情報は錯綜していた。
高度も、針路も、予想される目標も、報告が入るたびに変わった。
義雄は壁の地図へ近づいた。
各監視所から届いた位置と時刻を、一本の線で結んでいく。
水野が、その横から地図を覗き込んだ。
「武蔵野ですか」
「おそらくな」
義雄は腕のチュチマを見た。
発進が早すぎれば、敵が来る前に燃料を失う。
遅すぎれば、また届かない。
針が一目盛り進んだ。
義雄は顔を上げた。
「各員、搭乗」
待機所の空気が、一斉に動いた。
格納庫の外では、鍾馗の発動機が次々と目を覚まし始めていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




