話してくれれば
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
飛行第四七戦隊への改編後、調布飛行場へ集められる人員と機体は、目に見えて増えていた。
新任の操縦者も、次々に配属される。
水野中尉の小隊へ加わった藤村少尉は、飛行学校での成績もよく、操縦も正確だった。
教えられた操作を、教えられたとおりに行う。
計器を読むのも早く、編隊を乱すことも少ない。
だが、片桐義雄大尉には、その正確さがいくらか気にかかっていた。
*
藤村の二式単座戦闘機「鍾馗」が、敵役の機体を追って降下した。
操縦桿を前へ押し、機首を下げる。高度が速度へ換わり、速度計の針が上がっていく。
敵役は左へ旋回した。
藤村も操縦桿を左へ倒す。左フットバーを踏み、機首を旋回方向へ合わせながら、逃げる機体を照準器へ入れようとする。
敵役は、さらに旋回を深くした。
藤村はその後ろを追った。
速度を失い始めた敵役へ、優速を保ったまま一撃を加えて離脱する。それが訓練の目的だった。
だが藤村は、目の前にある射撃機会を捨てなかった。
操縦桿を引く。
鍾馗の機首が、敵役を追って回り込む。
筒型照準器の視野を、敵役の機影が横切った。
藤村は、さらに操縦桿を引いた。
急激な荷重が機体へ加わる。
操縦桿が重くなり、足元から粗い振動が突き上げてきた。それでも敵役は、照準器の視野へ近づいてくる。
藤村は左フットバーを踏み足し、機首を無理に合わせた。
機体がわずかに横滑りする。
敵役の翼が、照準器の中央へ入った。
藤村は操縦桿上部の射撃ボタンを押した。
写真銃が、その瞬間を記録する。
直後、鍾馗は大きく速度を失った。
敵役は機首を下げ、藤村の前から離れていく。
『藤村、追うな。離脱しろ』
水野の声が受話器へ入った。
藤村は操縦桿を戻し、スロットルを押し出した。機体を水平へ戻しながら、速度が乗るのを待つ。
そこから上昇へ移ったが、失った高度を取り戻すまでには時間がかかった。
*
「写真銃には収めました」
帰還した藤村は、胸を張るでもなく言った。
事実を報告しているだけ、という口調だった。
義雄は写真銃の記録を机へ置いた。
「その前に、機体は何と言っていた」
「機体、ですか」
「引き起こしたとき、操縦桿が重くならなかったか」
「なりました」
「振動は」
「多少ありました。しかし、操縦できないほどではありませんでした」
「計器は」
「すべて規定の範囲内です」
「だから問題ないと?」
藤村は一瞬黙った。
「規定された限界は超えていません」
「限界を超えなければ、何をしても壊れないと思っているのか」
「そのための制限ではないのですか」
義雄は藤村の顔を見た。
反抗しているわけではない。本当に、そう教えられ、そう理解している。
「壊さないように飛べと言っているんじゃない」
義雄は写真銃の記録を指で押した。
「壊れる前に、何が起きているか知れと言っている」
藤村は、まだ腑に落ちない顔をしていた。
「次は撃つことより、離脱することを考えろ。照準器へ入った敵を捨てるのも、操縦者の仕事だ」
「はっ」
返事は正確だった。
*
翌日、その鍾馗には別の操縦者が乗った。
通常の編隊訓練だった。
高出力で上昇しながら、左へ緩く旋回する。高度計の針が上がり、速度計の針はゆっくりと下がっていく。
その途中、足元から粗い振動が伝わった。
発動機の回転は安定している。
油温、油圧にも目立った変化はない。
操縦者はスロットルをわずかに戻した。
振動が消えた。
もう一度、慎重に出力を上げる。
水平飛行では異常がない。
左へ機体を傾け、操縦桿を引くと、再び振動が現れた。
操縦者は訓練を中止した。
旋回を解き、速度を保ったまま飛行場へ戻った。
*
「気のせいかもしれません」
報告を終えた操縦者は、最後にそう付け加えた。
「地上では出ていないのか」
義雄が尋ねた。
「はい。帰還後に回転を上げましたが、異常はありませんでした」
整備兵も、目立った異常はないと報告した。
発動機の回転は安定している。
点火にも乱れはない。
操縦系統を動かしても、引っ掛かりはなかった。
訓練に使用できる機体には限りがある。原因の分からない一度きりの振動で飛行停止にすれば、そのぶん訓練の割当てを組み直さなければならない。
「通常点検で問題がなければ、明日から戻してもよいのでは」
幕僚の一人が言った。
「気のせいなら、それを確かめてから飛ばせばいい」
義雄は答えた。
「異常がなければ、一機遊ばせることになります」
「異常があれば、操縦者ごと失う」
「しかし、地上では何も出ていません」
「空では出た」
義雄が言うと、刈屋正意中尉がうなずいた。
「詳しく調べます。この機体は、それまで飛行停止にしてください」
*
地上で発動機を回しても、振動は再現しなかった。
整備兵たちは覆いを外し、操縦系統、発動機、配管、取付部を調べた。
だが、その日のうちに原因は見つからなかった。
作業を終えた格納庫に、鍾馗が残されていた。
義雄は機体へ近づいた。
冷え始めた胴体へ手を置く。
薄い外板の向こうには、胴枠と縦通材が通っている。その前方には、発動機と機体をつなぐ構造がある。
飛行中に現れた振動は、すでに消えていた。
機体は何事もなかったように黙っている。
「お前が、どこが苦しいのか話してくれればな」
「話していますよ」
背後から声がした。
義雄が振り返ると、刈屋が立っていた。
「聞いていたのか」
「聞こえました。機体の声は聞こえませんが」
刈屋は鍾馗へ近づき、義雄が触れていた場所へ目をやった。
「ですが、こいつは話しています。人の言葉ではないだけです」
「今日は、ずいぶん詩人だな」
「片桐大尉ほどではありません」
刈屋は機体下面へ身をかがめた。
「空では、どんな振動だったそうですか」
「細かい振動ではない。操縦席全体が、わずかに揺すられるような感じだ。高出力で上昇中、左へ旋回したときに出た。出力を落とすと消えた」
「水平飛行では」
「出ていない」
「発動機だけの不調なら、地上運転でも出てよさそうです」
「飛んでいるときにしか加わらない力がある、ということか」
「その可能性はあります」
刈屋は外板を見ながら、指先で取付部をたどった。
「空でしか聞けない声があります」
「地上でしか聞けない声もあるか」
「あります。ボルトの緩み、金属の擦れ、油の汚れ。飛んでいる人には見えません」
「なら、両方を合わせるしかないな」
「ええ。操縦者と整備員が、別々の話を聞いたままでは分かりません」
義雄の手首で、チュチマの秒針が黒い文字盤を進んでいた。
空で起きたことと、地上に残った痕跡。
二人がそれをつなぎ合わせる間も、時計はただ時を刻んでいた。
*
藤村少尉は、もう一度呼び出された。
「昨日の飛行を、発進から説明しろ」
義雄が言った。
「敵役を発見し、降下しました」
「その前だ。発進時に異常は」
「ありません」
「上昇中は」
「通常どおりです」
「敵役へ降下を始めるまで、異常はなかったか」
「ありません」
「振動が出たのは」
「旋回へ追随して、二度目に操縦桿を引き足したときです」
「操縦桿が重くなったのは、引き始めてすぐか」
「いいえ。敵役の旋回へ合わせて、さらに引き足したあとです」
「ラダーは」
「左フットバーを踏みました。照準が遅れたため、さらに踏み足しています」
「そのとき、横滑りしたな」
「はい」
「振動は、どこから来た」
藤村は少し考えた。
「発動機というより、機体全体だったと思います。座席とフットバーから来ました」
「帰還までに再発は」
「ありません」
刈屋が記録した。
「高出力だけでは出ない。荷重が加わったときに出る。昨日の急激な引き起こしで初めて現れ、今日の左旋回で再発した」
義雄が言った。
「発動機の取付部を、もう一度見ましょう」
刈屋は整備兵を呼んだ。
*
発動機架と機体側の取付部を調べるため、周囲の部品が外された。
塗装と汚れを落とす。
一本のボルトの周囲に、ごくわずかな擦れがあった。
油に混じった細かな金属粉が付着している。
「ここが動いています」
整備兵が言った。
ボルトを外す。
さらに取付金具を調べると、穴の縁から細い筋が伸びていた。
表面を磨き、拡大鏡を当てる。
傷ではない。
金属に入った亀裂だった。
完全には破断していない。
地上で発動機を回すだけなら、荷重のかかる方向は大きく変わらない。しかし飛行中に高い出力を使い、旋回や引き起こしによる力まで加われば、取付部がわずかに動く。
その動きが、操縦席まで振動となって伝わっていた。
「このまま飛ばしていたら」
藤村が尋ねた。
「次の飛行で落ちた、とまでは言えません」
刈屋は亀裂を見た。
「ですが、次も帰ってきたとは言えません」
藤村は黙った。
「修理に入ります」
整備兵が言った。
「待て」
刈屋が止めた。
「同じ時期に受け入れ、同じ程度飛んでいる機体を調べる」
「壊れたのは、この一機です」
「壊れたことが分かったのは、この一機だ」
刈屋は周囲の鍾馗へ目を向けた。
「ほかの機体が、黙っているとは限らん」
*
同じ条件に近い機体が、格納庫へ集められた。
取付部の状態を、一機ずつ確認する。
亀裂まで生じた機体は、ほかになかった。
しかし、別の一機にボルトの緩みが見つかった。さらに一機では、塗装の擦れと微量の金属粉が確認された。
故障ではない。
今すぐ飛べなくなる状態でもない。
だが、そのまま使い続ければ、最初の機体と同じ経過をたどる可能性がある。
「この部品は交換します」
刈屋の指示に、整備兵が答えた。
「まだ使えます」
「まだ使えるうちに替える」
「交換品にも限りがあります」
「空で使い切ったら、部品だけでは済まん」
刈屋は、すべてを無条件に交換しろとは言わなかった。
破損したときの危険が大きい。
外から劣化を確認しにくい。
同じ飛行時間や使われ方をした機体に、同様の兆候が現れている。
そうした部品を選び、一定の時間を目安に点検し、必要なら故障する前に交換する。
「今までも、故障した場所と交換した部品は記録しています」
刈屋は従来の整備記録を開いた。
「ですが、それでは壊れたあとの話しか残らない」
「壊れる前の話も残すのか」
義雄が尋ねた。
「操縦桿が重かった。振動が違った。油温や油圧が、正常の範囲内でも普段とは違った。いつ、どんな飛び方をしたときに出たか。故障でなくても記録します」
「操縦者は嫌がるぞ。自分の腕を調べられていると思う」
「片桐大尉が最初に書けば、ほかも書きます」
「俺を人柱にする気か」
「新しいやり方には、偉い人から引っかかっていただくのが一番です」
「俺より偉い人がいるだろう」
「まず、言うことを聞いてくれそうな人から始めます」
義雄は苦笑した。
*
機体番号ごとに、新しい記録簿が作られた。
飛行時間、発動機の使用時間、修理と部品交換の履歴。
それだけではない。
過去に受けた損傷、異音、振動、計器値の変化。どの速度、高度、出力、姿勢で症状が出たのか。再現したのか、一度だけだったのか。
操縦者からの報告も残された。
「自分の操縦まで、整備記録へ書くんですか」
藤村が尋ねた。
「機体だけで飛んで帰ってくるわけではありませんから」
刈屋は答えた。
「急な引き起こしが多い。高回転を長く使う。着陸で右へ流れやすい。乗る者によって、機体へ加わる負担は変わります」
「腕を査定するためじゃない」
義雄が言った。
「同じ鍾馗でも、誰がどう使ったかで傷む場所が変わる。それを知るためだ」
専門ごとの作業をなくすわけではなかった。
発動機、機体、電装、無線。それぞれの技術を持つ者が、必要な作業を行う。
だが、担当する整備兵は、自分の担当機について全体の履歴を把握する。
「発動機は発動機、無線は無線で直して、それぞれ帰ってしまったら、誰が一機全体の調子を見る」
刈屋は、機体番号の記された帳面を叩いた。
「専門は分ける。責任までばらばらにするな」
最初の違和感報告は、義雄が書いた。
高出力上昇中、左旋回に入った時点で振動が増加。
出力を落とすと消失。
水平飛行では再現せず。
発生した時刻も記す。
チュチマは敵機の移動を測るだけでなく、機体が異常を示した瞬間を残すためにも使われた。
*
「自分が壊したのでしょうか」
修理中の鍾馗を前に、藤村が言った。
義雄と刈屋は、機体から外された取付金具を見ていた。
「一度の引き起こしだけで亀裂が生じたとは言えません」
刈屋が答えた。
「それまでの飛行で疲労が蓄積していた可能性もあります。あなたの操作が最後のきっかけになったかもしれない。そうでないかもしれない」
「では、原因は分からないままですか」
「だから、これから記録します。次に同じ兆候が出たとき、今回の記録と比べられる」
義雄が藤村を見た。
「お前が無理をさせたことと、この亀裂の原因がすべてお前にあることは、同じではない」
「はい」
「だが、あのとき機体が嫌がったことは覚えておけ」
「嫌がった、ですか」
「操縦桿が重くなった。振動が変わった。それを、命令に従わないと考えるな。あれは警告だ」
藤村は修理中の鍾馗へ目を向けた。
「計器が正常でも?」
「正常の範囲内にあることと、昨日までと同じであることは別だ」
刈屋が言った。
「いつもの状態を知っていなければ、その違いにも気づけません」
*
修理を終えた鍾馗を、最初に義雄が飛ばした。
起動車を接続し、発動機を始動させる。
地上で回転を上げ、計器と発動機の調子を確かめる。
異常はない。
義雄は機首を滑走路へ向けた。
前方が開けていることを確認し、スロットルを押し出した。
プロペラの反トルクで左へ振られようとする機首を、右フットバーを踏んで押さえる。速度が乗ったところで操縦桿をわずかに前へ倒し、尾輪を浮かせた。
前方視界が開けてくる。
さらに加速する。
操縦桿を軽く引くと、鍾馗は地面を離れた。
脚を引き込み、計器盤の脚位置表示灯を確かめてから、フラップを格納する。
いきなり高出力で旋回へは入らない。
通常の出力で上昇し、水平飛行へ移る。
左右へ機体を傾ける。補助翼の効きと、フットバーを踏んだときの機首の動きを確かめる。
異常はない。
もう一度上昇へ入り、出力を上げる。
左へ緩く旋回する。
座席とフットバーへ意識を向ける。
粗い振動は戻らない。
高度を取り、今度は徐々に機首を下げた。
速度が乗る。
操縦桿を引く。
最初は軽く、次は少し強く。
荷重を段階的に増やす。
操縦桿へ返る力は途切れず、機体の振動にも不自然な変化はなかった。
義雄は試験項目を終え、飛行場へ戻った。
*
「今度はお前が飛べ」
義雄は藤村へ言った。
「よろしいのですか」
「こいつが嫌がったときに乗っていたのは、お前だ。直ったことも、お前が確かめろ」
藤村は鍾馗を見た。
「分かりました」
藤村の試験飛行は、以前より慎重だった。
だが、操縦桿を恐る恐る動かしているわけではない。
必要な出力を使い、必要なだけ機体を傾ける。そのたびに、操縦桿とフットバーから返る力を確かめる。
左旋回へ入り、少しずつ荷重を増す。
振動は現れない。
帰還した藤村は操縦席から降りると、刈屋のところへ向かった。
「前とは違います」
「どう違いますか」
「左へ荷重をかけても、振動が増えません。操縦桿へ返ってくる力も途切れませんでした」
「発動機の出力を上げたときは」
「異常ありません。ただ、通常の上昇時より振動が少なく感じました」
「それも記録します」
刈屋は帳面を開いた。
藤村は、飛行中の状況を最初から説明した。
*
修理された鍾馗は、小隊の列へ戻った。
次の訓練飛行を前に、藤村は機体の周囲を一周した。
脚、タイヤ、翼面、操縦舵面。
修理された取付部は、外からは見えない。
それでも藤村は、そこに何があるかを確かめるように視線を向けた。
操縦席へ入る前に、胴体へ一度手を触れる。
義雄は、少し離れた場所からそれを見ていた。
機械は、人の言葉では喋らない。
だから人間の側が、振動を拾い、音を覚え、操縦桿へ返る力を読む。
空でしか分からないことは操縦者が持ち帰り、地上でしか見えない痕跡は整備員が拾う。
その二つをつないで、ようやく一機の話になる。
義雄の左腕では、チュチマが変わらぬ時を刻んでいた。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




