第7話 朝ごはんを一緒に、とは言えない
記録庫の扉は、朝の光が博物館の床へ届く前に開いた。
ヴィルモスが古い鍵を回すと、棚の奥から乾いた紙と鉄錆の匂いが流れ出た。カリネは、手に持った塩パンの包みを胸元へ寄せる。マリヤムが押しつけてくれたそれはまだ温かく、薄い紙越しに指先を励ますようだった。
天井の管は、相変わらず、どん、す、どん、すう、と頼りない拍子で震えている。
「古い拍子については、炉心母炉の初期整備記録に残っている可能性がある」
ヴィルモスは棚札を確認しながら言った。説明している時の声は、展示室に立つ時と同じく滑らかだ。けれど、台帳へ伸びる指だけが少し急いでいた。
カリネはその横顔を見て、言おうと決めていた言葉を思い出した。
朝ごはんを一緒に。
ただそれだけだ。匙を落とすほど難しい注文ではない。屋台では毎朝、初対面の客にも「温かいうちにどうぞ」と言える。アンドリュースが粥の豆を数え始めても、ノイスが相手の袖口を直しながら泣きそうな人の隣に座っていても、カリネは椀を置く場所を間違えない。
なのに、ヴィルモスの前では、言葉が鍋底に貼りついた粥のように剥がれない。
「カリネ」
「はいっ。朝です」
返事をした瞬間、自分でも何を言ったのか分からなかった。
ヴィルモスが台帳から目を上げる。
「朝だな」
「あ、いえ、そうではなくて。朝の、ご飯が、朝です」
記録庫の入口で、マリヤムが両手で口を押さえた。押さえたのに、笑い声は指の隙間からしっかり漏れた。
「朝のご飯が朝。うん、今朝いちばん深い言葉が出た」
「深くない。沈めないで」
カリネは塩パンの包みで顔を隠した。耳まで熱い。炉の熱ではない。もっと役に立たない熱だ。
ヴィルモスは真顔のまま、少し考え込んだ。
「朝に飯が出るのは正しい」
マリヤムがついに棚へ額をつけて笑い出した。
「正しさで返した。さすが解説員さん。恋の入口に注釈を置いた」
「恋とは言ってない!」
カリネの声が裏返る。記録庫の古い紙束が、びくりと震えた気がした。
ヴィルモスは咳払いをし、台帳を抱え直した。耳の先が、炉の赤よりほんの少し濃い。
「つまり、朝食について何か提案があるのか」
「提案というほど立派なものではなくて、その、閉館の話とか、炉の音とか、恋文とか、欠けたパズルとか、いろいろありますけど」
「いろいろありすぎるな」
「だから、せめて、今度、ちゃんと座って……一緒に」
そこまで言えた。
カリネは自分を褒めたかった。今なら蒸し卵を十個割らずに籠へ移せる気がした。
だが、言葉の最後が出る前に、廊下から慌ただしい足音が響いた。紙束を抱えた受付係が、記録庫の前で息を切らして立ち止まる。
「ヴィルモスさん、カリネさんも。議会から通達です」
白い封筒には、青い議会印が押されていた。ヴィルモスが受け取り、封を切る。紙を開いた瞬間、彼の顔から先ほどの赤みが消えた。
カリネは、まだ口の中に残っていた「一緒に」を飲み込んだ。
「何と書いてありますか」
ヴィルモスは一度だけ、天井の管を見上げた。どん、すう。今朝の炉は、返事を待つ余裕などないというように、長く息を乱した。
「炉心母炉の修繕作業、暫定中止」
マリヤムの笑いが止まった。
受付係が悔しそうに唇を結ぶ。
「安全審査が終わるまで、工具の搬入も、部品交換も、記録庫資料の外部持ち出しも止める、と。議会書記官の署名です」
「シグルギスリ……」
カリネは封筒の端を見つめた。長すぎる説明で会場の空気を冷ましたあの書記官の顔が浮かぶ。けれど、彼がただ意地悪で印を押したのではないことも、少し分かってしまう。溶鉱炉が不規則に鳴っている今、事故を恐れる人はいる。街の夜景を守りたい人ほど、動かすことを怖がるかもしれない。
ヴィルモスは通達を丁寧に折り直した。丁寧すぎるほどに。
「規則上、これ以上は進められない」
その言い方は、展示棚の硝子扉をそっと閉める音に似ていた。中のものを守るために、外の手を拒む音。
カリネは塩パンの包みを開いた。湯気はもうほとんど消えていたが、焼き色はまだ朝の色をしていた。彼女はそれを半分に割り、片方をヴィルモスの台帳の上ではなく、空いている作業台へ置いた。
「規則は、朝ごはんを食べることまで止めませんよね」
「今は、それどころではない」
「それどころだからです。お腹が空いた人は、難しい書類を読むとき、だいたい敵みたいな顔になります」
マリヤムが小さく頷いた。
「パンを噛んでいる間は、少なくとも一方的に怒鳴れないしね」
ヴィルモスは置かれた塩パンを見た。手を伸ばさない。けれど目は離さない。
カリネは、自分の半分を一口かじった。塩気が舌に触れ、胸の熱が少しだけ落ち着く。
「修繕が止まったなら、なぜ止まったのか聞きに行きます。通達を書いた人にも、止められて困る人にも。私、朝ごはんを出しながらなら、怒っている人の話も最後まで聞けます」
「君が危ない場所に行く必要はない」
「危ない場所にだけ、危ない話があるわけじゃありません。机の上にも、棚の隙間にも、鍋の底にもあります」
ヴィルモスは困ったように眉を寄せた。そこへ、アンドリュースが廊下から工具鞄を抱えて現れた。肩で息をしながら、通達を覗き込む。
「搬入禁止? 工具が入れないなら、俺が工具を持ったまま朝食客として入るのは?」
「それは屁理屈だ」
「屁理屈でも、炉が止まるよりましだ」
記録庫に、重い沈黙が落ちた。
カリネはもう一度、ヴィルモスを見る。朝ごはんを一緒に、と言うつもりだった。けれど今は、その言葉が少し形を変えていた。
「まず、食べましょう。それから、聞きに行きましょう。一緒に」
最後の二文字だけ、どうにか逃がさず言えた。
ヴィルモスはしばらく黙っていた。やがて、作業台に置かれた塩パンを手に取る。かじる前に、彼は通達の紙をもう一度開き、署名欄を見た。
「……説明を求める。だが、感情で押し切るのではない」
「はい。朝ごはんで押し切ります」
「それも違う」
マリヤムがまた吹き出した。今度の笑いは、少しだけ震えていた。
天井の管が、どん、す、どん、と鳴る。最後の息継ぎだけが、また欠けた。
カリネは匙を握り直した。誘い損ねた朝ごはんは、まだ終わっていない。博物館の扉の向こうには、止められた修繕と、長すぎる議論と、誰かが隠した古い事故の影が待っている。
それでも、作業台の上で半分ずつになった塩パンは、ちゃんと二人分だった。




