第6話 早起きだけが知っている音
夜明け前のメルティカは、鍋より先に壁が鳴る。
カリネは屋台の戸板を押し上げる途中で、手を止めた。いつもなら、遠い溶鉱炉が腹の底で眠る獣のように、どん、どん、と間を置いて息をする。その音に合わせて、天井の細い管がかすかに震え、海中灯の青が一度だけ濃くなる。
けれど今朝は違った。
どん、どん、ではない。どん、す、どん、すう、と、誰かが息継ぎを忘れたような拍子だった。
カリネは銅鍋を竈に置く前に、博物館の壁へ耳を向けた。石畳の隙間から冷えた潮の匂いが上がる。まだ開いていない朝市の布屋台が、眠ったまま小さく揺れている。
「鍋を見つめて恋の返事を待つ朝は終わった?」
背後から声がして、カリネは匙を落としかけた。
マリヤムがパン籠を抱えて立っていた。今日は焼き色の濃い細長いパンで、表面に小さな塩の粒が光っている。
「恋の返事じゃないよ。音が変なの」
「どの音?」
「炉の音。いつもの朝と違う」
マリヤムは博物館のほうへ顔を向け、しばらく目を細めた。それから、きっぱり言った。
「ごめん。私には、腹が鳴ってる音しか聞こえない」
「今、自分のお腹の話をした?」
「早起き職人は、自分の腹にも正直であるべきだから」
カリネは笑いそうになったが、すぐにまた耳を澄ませた。笑いの下でも、音のずれは消えない。どん、す、どん、すう。まるで、眠っている街の胸が、短くつまずいている。
最初の客として現れたアンドリュースは、いつものように髪に金属粉をつけ、工具鞄を椅子へ置く前から椀を求める手を出した。
「焼き豆入り粥。今日は豆を沈めてもいい。急ぐ」
カリネは椀を差し出さず、博物館の壁を指した。
「あの音、聞こえる?」
アンドリュースは口を開けたまま止まった。食べ物を前にして止まるのは、彼にしては珍しい。彼は鞄から短い金属棒を取り出し、壁際の排気管へそっと当てた。耳を棒の端に寄せると、眉がぴくりと動く。
「空気弁だ」
「壊れてる?」
「まだ壊れてはいない。壊れかけているものが、壊れていないふりをしている音だ」
マリヤムが椀を一つ持ち上げた。
「人間にもよくあるね」
アンドリュースは真剣な顔でうなずいた。
「人間なら粥で戻る場合がある。機械は粥を食べない。そこが欠点だ」
「食べたら困るよ」
カリネは言いながら、椀へ粥をよそった。焼き豆を上に散らし、刻み海草を少し多めに乗せる。アンドリュースは一口だけ食べると、目を閉じた。
「戻った」
「機械じゃなくて、あなたが?」
「私が。だから機械を見られる」
彼は立ち上がり、職員用の裏扉へ走りかけた。そこで、ちょうど扉の内側からヴィルモスが現れた。手には昨日の台帳、腕には黒布を巻いた資料箱。いつもより早い。襟元は整っているのに、髪の一房だけが額へ落ちていた。
「炉機械技師、今朝の弁音を聞いたか」
「聞いた。解説員の髪より乱れている」
ヴィルモスは額の髪に手をやり、何もなかったように下ろした。
「比喩は不要だ」
「比喩じゃない。観測結果だ」
カリネは思わず匙で口元を隠した。ヴィルモスは咳払いを一つしてから、博物館の壁を見た。
「昨夜、炉心母炉の炎が一度だけ細くなった。警報には達していない。だが、展示室のガラスが内側から曇った」
「あの瓶も?」
カリネが尋ねると、ヴィルモスの視線が一瞬だけ資料箱へ落ちた。
「あの人の息は、台座の上で微かに震えていた。解説では、温度差による古いガラスの反応とされている」
「本当に?」
問い詰める声にならないよう、カリネは椀を差し出した。ヴィルモスは受け取ってから、すぐには食べなかった。湯気の向こうで、彼の指先が台帳の角を押さえている。
「分からない」
それは、昨日までの彼なら言わなかった言葉に聞こえた。
アンドリュースが排気管のねじを外し、細い測定羽根を差し込んだ。羽根は規則正しく回るはずなのに、三回に一度だけ小さく跳ねた。
「変な拍子だ。古い制御信号が混ざっている。今の炉の技術記録にはない」
「昔の記録には?」
「探す。だが、記録庫の棚は解説員の心より固い」
「それは比喩だ」
「観測結果だ」
ヴィルモスが今度こそ少しだけ眉を寄せたので、マリヤムがパンを割って二人の間に差し入れた。
「固いものには、温かいものを挟む。喧嘩にもパンにも効く」
カリネは笑いながらも、胸の奥では音の拍子を数えていた。どん、す、どん、すう。聞いているうちに、別の記憶が浮かんだ。昨日、展示室の隅で居眠りしかけていた老人が、帰り際に鼻歌をこぼしていた。歌というより、息だけの短い節だった。
ふう、す、ふう、すう。
同じだ。
カリネは椀を置き、老人が座っていた席を振り返った。もう誰もいない朝の石畳に、昨日の声だけが残っている気がした。
「アンドリュース」
「何だ」
「炉の音、誰かの鼻歌に似てる」
アンドリュースの手が止まった。ヴィルモスも台帳を閉じる。
「誰の?」
「昨日、展示を聞いていたおじいさん。無人の寺の話をした人とは別の人。帰るとき、こう……」
カリネは恥ずかしさを飲み込み、できるだけ小さく息を鳴らした。ふう、す、ふう、すう。マリヤムが真似しようとして、二回目でくしゃみをした。
「違う、今のは小麦粉」
「分かってるよ」
けれど、アンドリュースは笑わなかった。測定羽根の跳ねる拍子に合わせ、カリネの息を指で数えている。三度目で彼は顔を上げた。
「一致している」
ヴィルモスの手が、台帳の表紙を強く押さえた。
「人の鼻歌が、炉心母炉の弁音と一致するはずがない」
「今の技術記録には、そう書いてあるかもしれない」
カリネは椀の湯気を見た。声を強くすると、言葉が欠けそうだった。だから、ゆっくり言った。
「でも、昨日の台帳にも、書いていないことがありました」
ヴィルモスは返さなかった。逃げるように顔を背けることもなかった。ただ、炉の奥から聞こえる不規則な息を、初めて本当に聞こうとする人の顔になった。
博物館の開館鐘が鳴る前に、炉心母炉がまた一度、どん、すう、と長く息を乱した。屋台の吊り匙が、かすかに揺れる。
カリネは鍋の火を弱め、昨日の客の顔を思い出していった。魚油商、老女、受付係、眠そうな子どもを抱えた父親、鼻歌の老人。みんなの言葉は、朝ごはんの湯気と一緒に消えたわけではない。
どこかに残っている。
炉の奥か、展示品の瓶か、それとも、まだ誰も入っていない無人の寺の底か。
ヴィルモスが資料箱を抱え直した。
「記録庫を開ける。古い拍子の説明があるかもしれない」
「私も行きます」
「君は屋台がある」
「朝ごはんは、聞くための場所です。聞いたことを持っていかないと、ただの満腹で終わります」
マリヤムが、残っていた塩パンを紙に包んでカリネの手へ押しつけた。
「満腹は大事。でも、持ち運べる満腹も大事」
アンドリュースが工具鞄を肩にかける。
「炉は待ってくれない。粥も冷める。どちらも急ぐべきだ」
カリネは屋台の看板を一度だけ見上げた。夜明け匙の文字は、今日も少し斜めだった。けれど、その斜めさが、今朝は道しるべの矢印に見えた。
早起きだけが取り柄だと、何度も言われてきた。
けれど、早起きだけが知っている音がある。
カリネは匙を布で拭き、胸元の紐へ結んだ。炉の不規則な息に合わせるように、博物館の古い扉が開く。
その奥で、まだ名前のない朝が、誰かに聞き取られるのを待っていた。




