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朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


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第5話 あの人の息

 翌朝、夜明け匙の鍋からは、いつもより薄い湯気が上がっていた。

 カリネは塩を入れ忘れたわけではない。火も弱すぎない。けれど、匙を回す手が、何度も途中で止まった。昨日の講堂に落ちた「寺の底」という言葉が、鍋の底に沈んだ貝のように、かすかに鳴り続けている。

 屋台の前では、マリヤムが焼きたての丸パンを籠へ並べていた。いつもなら湯気の匂いを大げさに吸い込み、今日の出来は海竜でも泣く、などと言うのに、今朝は黙ってパンの向きをそろえている。

 「塩、入れた?」

 「入れたよ」

 「じゃあ、顔が入ってない」

 「顔は鍋に入れないよ」

 「そういう返しができるなら、まだ大丈夫」

 マリヤムは丸パンを一つ割り、熱い内側へ貝乳の白い煮詰めを塗った。カリネの手元へ置くと、自分の分は取らず、博物館の正面扉を見た。

 「今日は、あれの解説だって」

 「あれ?」

 「ほら。恋人の息を閉じ込めたっていう、あの瓶」

 あの人の息。

 その展示名を口にしただけで、屋台のそばの空気が一段冷えた気がした。カリネは小さく息を吸い、丸パンをかじった。温かい。噛むと、白い煮詰めの甘みの奥に、ほんの少し海藻の苦みが残る。

 生きている味だ、と思った。

 開館の鐘が鳴るより前に、炉心博物館の前にはめずらしく人が集まっていた。昨日の説明会で耳にした言葉が、街のあちこちで広がったらしい。魚油商、老女、受付係、眠そうな子どもを連れた父親、それから資料袋を胸に抱えたシグルギスリまでいる。

 閉館を決めるためではなく、展示を聞くために人が来ている。そのことがうれしいのか怖いのか、カリネにはまだ分からなかった。

 ヴィルモスは展示室の奥、黒い布で覆われた小さな台の横に立っていた。襟元はきっちり整っている。解説用の細い棒も手にしている。けれど、彼の視線はときどき布の端へ落ちた。

 「本日は、炉心博物館所蔵品番号二十七番、通称『あの人の息』をご案内します」

 声は、朝の水面のように澄んでいた。

 カリネは最後列に立ち、盆を抱えた。展示室に食べ物を持ち込むのは本来よくない。だから盆の上には、空の椀だけを置いている。誰かが話し終えたあと、温かいものが必要になったら、すぐ外へ走るためだった。

 ヴィルモスが黒布を外した。

 台の上に現れたのは、手のひらほどのガラス瓶だった。形は細長い小瓶に近い。底は丸く、首は細く、栓には古い銀糸が巻かれている。中には何も入っていないように見えた。ただ、瓶の腹に近いところだけ、海中灯の青とは違う、淡い白が眠っていた。

 「創設者オルネスが、最愛の人の最期の息を封じたものと伝えられています。都市建設の初期、外殻の亀裂事故で多くの住民が避難する中、彼の伴侶は炉心母炉の制御盤前に残りました。記録には、彼女が最後に『街を朝まで温めて』と言ったとあります」

 子どもが父親の袖を握った。魚油商は、いつも文句で膨らんでいる頬を静かにしぼませた。マリヤムも、今日は茶化さない。

 ヴィルモスは解説棒を瓶へ向けた。

 「この品は、愛する者を忘れないための記念物です。たとえ身体が海へ還っても、声と息は記録の中に残る。炉心博物館は長く、そう説明してきました」

 してきました、という言い方に、カリネの耳が反応した。

 ヴィルモスは、いつもなら「説明しています」と言う。展示文に沿うとき、彼は現在形を使う。古いものを今も揺るがないものとして扱う。その彼が、今だけ過去の言い方をした。

 シグルギスリが手帳を開く音がした。

 「ただし」

 ヴィルモスは、そこで一度息を整えた。

 「昨日、無人の寺および鐘に関する証言がありました。現時点では、展示説明を変更する根拠とは言えません。しかし、古い口伝と現行展示の間に差がある可能性は、記録として残します」

 展示室がざわついた。

 シグルギスリは顔を上げた。反論の言葉を探しているのかと思ったが、彼は手帳に短く何かを書くだけだった。長い議論を始めない。その沈黙が、かえって目立った。

 老女が杖をつきながら前へ一歩出た。

 「昔、祖父はその瓶を、息をしまうものじゃなく、息を呼ぶものだと言っていたよ」

 ヴィルモスの手が、ほんの少し止まった。

 「息を、呼ぶ」

 「ああ。泣いている子をあやすみたいにね。炉が荒れたら、瓶の前でゆっくり息を合わせるんだと」

 「その話は、どなたから」

 「祖父だよ。祖父の父は、炉心母炉の灰を運ぶ役だった。手柄話は三割増しで話す人だったけれど、嘘をつくと耳が赤くなる人でもあった」

 何人かが笑った。重かった空気が、少しだけほどけた。

 ヴィルモスも、口元だけで笑おうとした。だが次の瞬間、瓶の中の淡い白が、ふっと揺れた。

 カリネは息を止めた。

 見間違いではない。瓶の腹に眠っていた白が、老女の声に応えるように、細く伸びた。まるで、湯気がガラスの内側で立ち上がったみたいだった。

 「今、光りませんでした?」

 カリネの声は、自分で思ったより小さかった。それでも、展示室の奥まで届いた。ヴィルモスがこちらを見る。

 「海中灯の反射でしょう」

 返事は早かった。

 早すぎた。

 カリネは口を閉じた。問い詰めれば、彼は展示文の後ろに下がってしまう。昨日、茶を差し出したときの沈黙を、彼はちゃんと受け取ってくれた。ならば今度も、急いで答えを奪ってはいけない。

 ヴィルモスは解説棒を持ち直した。指先がわずかに震えている。棒の先が、瓶ではなく台の縁を示していた。

 「この銀糸は、初期の炉心作業員が使った耐熱糸と同じものです。瓶そのものは、祈念品として作られたと推定されています。収蔵台帳には、創設者の私物、ならびに無人の寺より移管、とあります」

 「無人の寺より?」

 シグルギスリが言った。

 ヴィルモスは台帳の写しを開いた。紙の端は何度も読まれた跡で薄くなっている。

 「はい。ただし、移管時期が欠けています。記録上、そこだけが空欄です」

 また、欠けている。

 パズルの一片。展示目録。事故記録。寺の鐘。いま、瓶の来た時期まで。

 カリネは空の椀を盆の上で重ね直した。かつん、と小さな音がした。その音に合わせるように、瓶の白が再び震えた。

 今度は、カリネだけではなかった。子どもが指をさした。

 「あ、息した」

 父親が慌ててその手を下げさせたが、子どもの目は瓶に釘づけだった。

 ヴィルモスは黙った。

 展示室の誰も、すぐには言葉を足さなかった。魚油商でさえ、口を開いたまま閉じた。マリヤムはカリネの袖を後ろからつまむ。つまんだ指が、いつもより強い。

 やがてヴィルモスは、解説棒を台の横へ置いた。

 「本日の定型解説は、ここまでにします」

 その言葉に、受付係が目を丸くした。ヴィルモスが自分から台本を閉じるのは、たぶん初めてだった。

 「以降は、証言の聞き取りに移ります。この瓶について、あるいは無人の寺、鐘、息を合わせる行為について、覚えている話があれば、受付へお伝えください。正しいと決めるためではなく、欠けている場所を知るために」

 カリネは、胸の奥で何かが温まるのを感じた。

 彼は展示を変えたわけではない。まだ怖がっている。指先も震えている。けれど、閉じていた戸に、細い隙間を作った。

 老女が受付係のほうへ歩き出した。子どもは父親に抱き上げられながら、「瓶が息した」と何度も言った。シグルギスリは手帳を閉じ、いつもの長い前置きを飲み込むように唇を結んだ。

 カリネは展示台へ近づいた。

 「ヴィルモスさん」

 初めて、心の中の呼び名ではなく名前が先に出た。彼も驚いたように瞬きをした。

 「外に、温かいスープがあります」

 「展示室での飲食は」

 「外です」

 「そうでした」

 彼は少しだけ肩を落とし、それから瓶を見た。

 「気のせいだと、言いたかった」

 「言いましたね」

 「言ったな」

 短いやり取りのあと、二人とも黙った。瓶の中の白は、もう眠っている。けれどカリネには、あの揺れが目の奥に残っていた。人の声に応えた光。空の椀の音に震えた白。閉じ込められた息ではなく、誰かを呼ぶ息。

 博物館の外では、炉心母炉が低く鳴っていた。

 いつもと同じ音のはずなのに、今朝のそれは、眠っている獣の喉ではなく、遠くで誰かが息継ぎをしている音に聞こえた。

 カリネは盆を抱え、展示室の扉へ向かった。外の屋台には、まだ温かいスープが残っている。話し終えた人にも、話し始める前の人にも、きっと必要になる。

 背後で、ヴィルモスが小さく言った。

 「カリネさん。さっきの光を、記録に残します」

 振り返ると、彼はまだ瓶を見ていた。指先は震えている。けれど、台帳へ向かう手は、逃げる向きではなかった。

 カリネはうなずいた。

 あの人の息は、ただの悲しい恋の品ではないのかもしれない。

 それを確かめる朝が、始まってしまった。



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