第34話 溺れるくらいの愛を、笑えるくらいに
潮圧計の針は、赤い目盛りの端でじっと止まっていた。
待避室の石卓には、食べ終えた油紙と、欠けたパズルの一片を包んだ布が並んでいる。丸窓の向こうでは、暗い海がゆっくり波打っていた。扉は閉じたままなのに、さっきより息がしやすい。誰かの腹が鳴って、パンを分けて、豆汁を疑って、それだけで人は少しだけ戻ってこられるのだと、カリネは思った。
ヴァシリーサが、油紙の隅を指でつまんで広げた。
「ねえ、こんな時こそ、あの古い恋文の続きを考えてみない?」
「こんな時こそ、の意味が分かりません」
ヴィルモスが即座に返す。
「分からないなら解説員失格よ。閉じ込められた海底の小部屋。欠けたパズル。帰れない潮。ここで恋文を読まなくて、いつ読むの」
「博物館の規定では、収蔵文書の私的な朗読は」
「今、手元にあるのは油紙です」
ノイスが静かに言った。
ヴァシリーサは胸に油紙を当て、舞台に立つ時のように背筋を伸ばした。
「では、創設者の恋文に残された、あの有名すぎる一節を。溺れるくらいの愛を――」
「やめてください」
カリネとヴィルモスの声が重なった。
その重なり方があまりにきれいで、アンドリュースが豆汁を吹きかけた。マリアは慌てて布を差し出し、ノイスは何も言わずにアンドリュースの袖口をつまんで拭いた。
「二人とも、息が合っているわね」
「今のは偶然です」
ヴィルモスが言う。
「偶然です」
カリネも言った。
また重なった。
ヴァシリーサは今度こそ石卓を叩きそうになり、自分で自分の手首を押さえた。
「危ない。恋の拍手で遭難を延ばすところだったわ」
待避室に笑いが広がった。海の底で、扉はまだ閉ざされている。けれど笑い声が壁に跳ねると、冷たい石室が少しだけ朝市の屋根の下に似た。
カリネは頬の熱を冷まそうとして丸窓を見た。そこに映った自分の顔は、パンを焼く炉の前に立った時より赤い。隣では、ヴィルモスが欠けた一片の布包みを妙に丁寧に結び直していた。結び目が一度、二度、三度と変な形になる。
「解説員さん、その結び方だとほどけません」
「ほどけないほうが安全だ」
「でも、ほどけないと中身を出せません」
「……その通りだ」
彼は結び目を見下ろし、困ったように眉を寄せた。その顔が展示室で難しい史料を読む時よりずっと人らしくて、カリネは笑いそうになった。
ノイスがそっと布を受け取り、指先だけで結び直した。
「強く結ぶと、守ったつもりで使えなくなることがあります」
誰もすぐには返事をしなかった。
ヴィルモスの指が止まる。カリネも、胸の奥が小さく鳴った。展示説明も、古い事故記録も、言えない恋文も、強く結びすぎて中身を取り出せなくなっていたのかもしれない。
ヴァシリーサは声の調子を少し落とした。
「溺れるくらいの愛を、ってさ。初めて聞いた時は、重すぎると思ったのよ。海底都市でそれ言う? 縁起でもないって」
「僕もそう思いました」
アンドリュースがうなずく。
「装置の説明なら、もっと安全基準に沿った表現にできます。たとえば、十分な浮力を伴う愛を」
「恋文が安全講習になる」
マリアが真顔で言い、皆がまた笑った。
ノイスは干し果実の最後の一つを半分に割り、カリネとヴィルモスの間に置いた。
「深いものは、沈めるためだけにあるわけではありません。深い海があるから、街は外の嵐から守られている。深い気持ちも、誰かを底へ引くのではなく、浮かせるために使えると思います」
待避室は、笑いのあとに静かになった。
海の音が遠くで低く鳴る。潮圧計の針は、赤の端から、ほんの少しだけ戻っていた。
カリネは、干し果実へ伸ばしかけた手を止めた。ヴィルモスも同じものへ手を伸ばしていたからだ。指先が触れそうになり、二人とも慌てて引っ込める。
「どうぞ」
「いや、君が」
「いえ、解説員さんが一片を守っていますし」
「それは先ほどパンで聞いた理由だ」
「理由は何度使ってもいいと思います」
「展示説明では避けたい」
そのやり取りに、ヴァシリーサがにやにやと笑う。マリアは何かを言いかけ、ノイスに袖を引かれて黙った。アンドリュースは計器を見ているふりをして、完全に耳だけこちらを向けている。
ヴィルモスは干し果実を手に取らず、少しだけカリネのほうを向いた。
「カリネ」
名前で呼ばれた。
胸の奥で、鍋の蓋が跳ねるような音がした。
「はい」
「戻ったら、私は展示説明を直す。父の事故記録も、あの人の息の説明も、欠けたまま置かれていたものを、できる限り開く」
彼はそこで一度、言葉を切った。
「その時、君が聞いた声を、隣で教えてほしい」
カリネはすぐに返事ができなかった。
朝ごはんを一緒に、と言いたかったはずなのに、先に差し出されたのは食卓だけではなかった。展示室の隣。記録の隣。これから変えていく場所の隣。
喉が熱くなる。
「はい」
それだけで精いっぱいだった。
ヴィルモスはほっとしたように息を吐き、次の言葉を探す顔をした。カリネには分かった。彼はまだ何か言おうとしている。展示の話ではない。事故記録でも、制御室でもない。もっと近くて、もっと恥ずかしい言葉だ。
だが、潮圧計が甲高く鳴った。
扉の上の古い灯が、赤から青へ変わる。
「開きます」
アンドリュースが立ち上がった。
ヴィルモスは口を閉じた。カリネも、何も言えなかった。ヴァシリーサが「ああ、潮まで空気を読まない」と小声で嘆き、ノイスが干し果実を二つに割って、それぞれの手に押し込んだ。
「続きは、沈まない場所で」
ノイスはそう言った。
重い扉が、ゆっくり上がる。冷たい通路の空気が流れ込んできた。けれど、待避室を出る足取りは、閉じ込められた時より少し軽かった。
カリネは振り返り、石卓の上を確かめた。油紙は畳み、豆汁の筒は空になり、欠けた一片はヴィルモスの胸元にある。笑い声も、言えなかった言葉も、ここに置き去りにはしない。
通路へ出る前、ヴァシリーサが油紙を掲げて朗々と言った。
「溺れるくらいの愛を、笑えるくらいに持って帰りましょう」
「それは正式な展示名にはしません」
ヴィルモスが即座に答える。
カリネは笑いながら、薄暗い通路へ足を踏み出した。
海の底はまだ深い。炉の火はまだ細い。街へ戻れば、議会も、閉館の票も、止まりかけた溶鉱炉も待っている。
それでも、彼女は知っていた。
深いものは、沈めるだけではない。
誰かを浮かせる力にもなる。




