表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/40

第35話 議会の朝食卓

 街区へ戻るころ、海底都市メルティカの朝は、いつもの青ではなく、薄い灰色を混ぜたように沈んでいた。

 寺へ続く旧通路の扉が背後で閉じると、カリネは肩にかけていた布包みを抱え直した。中には、欠けたパズルの一片を写した図、創設者の恋文の写し、寺地下制御室で書き留めた共鳴器の特徴、そして待避室で食べ残した干し果実が入っている。最後の一つだけは資料ではないが、ノイスが「腹が鳴ると説明の途中で自分に怒ることになります」と押し込んだものだった。

 博物館へ戻る道には、すでに人が集まり始めていた。

 暖房が弱くなった街区の角で、子どもが両手をこすり合わせている。パン屋の前では、朝市の客たちが炉の火の様子を噂していた。誰かが「やっぱり博物館なんかに任せておくから」と言い、別の誰かが「閉じたら余計に悪くなるんじゃないのか」と返す。言葉は湯気のない息のように白く、すぐ消えずに通りへ残った。

 カリネはその一つ一つを聞きながら歩いた。

 「怒っている人、増えたね」

 マリヤムが、焼きたての長いパンを両腕に抱えたまま隣に来た。寝ていない顔をしているのに、パンだけはつやつやしている。

 「それ、全部持ってきたの?」

 「全部じゃないよ。議会前に並べる分だけ。あと十籠ある」

 「十籠?」

 「議論が長くなったら、みんなお腹がすくでしょ」

 マリヤムは当然のように言い、カリネの顔をのぞき込んだ。

 「で、言えた?」

 「何を」

 「分かってて聞き返す時の顔だ、それ」

 カリネは布包みを抱く腕に力を込めた。隣を歩くヴィルモスが、少し離れたところでアンドリュースと話している。彼の胸元には、欠けた一片が入った小袋が揺れていた。

 「今は、議会のことが先」

 「うん。そう言うと思った」

 マリヤムは笑ったが、からかいの色は薄かった。代わりに、長いパンを一本、カリネの腕の上へ置く。

 「じゃあ、まず街を食べさせよう」

 議会庁舎前の広場に着くと、ヴァシリーサがすでに人を動かしていた。小劇場から借りた布幕が、柱と水門標識の間に張られている。ノイスは子どもの椅子に布を結び、寒さで震えている老人の袖口を直していた。マリアは大きな折り畳み卓を肩に担ぎ、議会警備員に深々と頭を下げてから、その人の倍はありそうな卓を軽々と置いた。

 「感謝する。通してくれて助かった」

 「いや、まだ許可は」

 「通してくれて助かった」

 マリアがもう一度礼を言うと、警備員は何か言いかけて、卓の重さを思い出したのか道を空けた。

 広場の中央に、長い朝食卓ができていく。

 マリヤムのパン。カリネのスープ鍋。ノイスが温めた手布。ヴァシリーサが集めた声の紙片。アロイジアが徹夜で描いた円形パズルの大きな写し。アンドリュースの修繕計画。ヴィルモスが抱えた古い恋文の写し。

 それらは皿や資料というより、一つの展示のように並んだ。

 庁舎の階段上に、シグルギスリが現れた。いつもの長い外套を整え、議事録用の板を抱えている。彼は広場を一目見て、眉間に深い線を刻んだ。

 「ここは飲食許可区域ではない」

 「議会前広場使用申請は出ています」

 ウェンノが紙束を持ち上げた。目の下に濃い影があり、髪は片側だけ寝癖で立っている。

 「昨夜、三枚目の添付図を上下逆にしてしまいまして、四度ほど書き直しましたが、今朝の五時二十分に受理印をもらいました」

 「五時二十分に誰が押した」

 「五時二十分の私です。受付代理権限がありました」

 「それは自分で自分に押したということか」

 「押さないよりは進みます」

 広場の数人が小さく笑った。シグルギスリは額を押さえたが、すぐに視線を戻した。

 「閉館票決は本日正午だ。ここで情に訴えても、炉の不安定化と財政の問題は解決しない」

 「情だけではありません」

 カリネは鍋の前に立った。

 手は震えていた。けれど匙を握ると、少し落ち着いた。何度も朝を始めてきた手だ。眠い客に粥をよそい、怒っている職人に熱い汁を渡し、黙っている解説員へスープを差し出してきた手だ。

 「今日は、朝ごはんを配りながら、博物館をどう残すか説明します。怒っている人も、反対の人も、寒い人も、どうぞ座ってください。聞くだけでも構いません」

 「聞くだけで炉は直らない」

 誰かが叫んだ。

 「はい」

 カリネはうなずいた。

 「でも、聞かないまま閉じたら、直す場所も、残す理由も、また欠けます」

 その言葉に、ヴィルモスが顔を上げた。

 彼は一歩前へ出て、円形パズルの写しを広げた。寺地下で見つけた一片の線を、アロイジアが赤い糸で示している。

 「このパズルは、装飾品ではありませんでした。炉心母炉、空気循環路、水門、そして無人の寺の地下制御室を示す地図です。欠けていた一片は、寺に保管されていました」

 ざわめきが広がる。

 アンドリュースが修繕計画を卓に置き、声を張った。

 「炉の物理修繕は可能です。ただし、制御信号の安定化には、博物館にある共鳴器『あの人の息』の再調査が必要です。展示ケースにしまったままでは、炉の症状を確かめられません」

 「展示品を壊す気か」

 老人が言った。怒りよりも、怖さに近い声だった。

 カリネはその老人を見た。第2話の朝、パズルが昔から欠けていたとつぶやいた人だ。彼女は紙片の束から、一枚を取り出す。

 「最初に、声を読みます」

 広場が少し静かになった。

 「『妻と初めて来たのは、炉心博物館の無料開館日だった。金がなかったから、暖かい場所を探して入った。あの日、展示より先に、解説員が貸してくれた椅子を覚えている』」

 紙片を書いた老人が、目を瞬かせた。

 カリネは次の紙を取った。

 「『迷子になった時、あの人の息の展示ケースの前で泣いていた。ガラスに映る自分の顔が変で、泣きながら笑った。迎えに来た母も笑った』」

 後ろのほうで、子どもを抱いた女性が口元を押さえた。

 「『喧嘩した相手と仲直りしたのは、溶鉱炉の前だった。熱くて、怒っているのが馬鹿らしくなった』」

 誰かが「あれ、俺だ」と小さく言い、隣の人に肘でつつかれた。

 カリネは読み続けた。初デート。祖母の手。雨漏りの日に逃げ込んだ朝。眠れなかった夜に、炉の赤い光を見たこと。展示名を間違えて覚えていたこと。パンくずを落として叱られたこと。叱った職員があとでこっそり菓子をくれたこと。

 怒っていた人たちは、すぐに賛成にはならなかった。けれど、声の紙片が一枚ずつ読まれるたび、広場のざわめきは形を変えた。攻めるための声が、自分の記憶を探す声へ変わっていく。

 シグルギスリは腕を組んだまま、階段上で立っていた。

 「思い出は、財源ではない」

 「はい」

 カリネはまたうなずいた。

 「だから、財源案もあります」

 マリヤムが待ってましたとばかりに長いパンを掲げた。

 「朝食解説を正式に有料化します。ただし、寒い日は子どもと高齢者は無料。パンの端は私が出します」

 「勝手に出すな」

 近くのパン焼き仲間が叫んだ。

 「じゃあ、端の半分」

 「端を半分にするな、売りにくい」

 笑いが起きた。

 ヴァシリーサが布幕をめくり、小劇場と職人たちの協力一覧を見せる。ノイスは、来館者が書いた声の紙片を展示に加える案を説明した。アロイジアは子ども向けの複製パズルを卓に並べ、すでに子ども二人が手を伸ばしているのを見て、目だけで「あとで」と訴えていた。

 ヴィルモスは最後に、古い恋文の写しを持った。

 「創設者の恋文は、悲恋だけを語るものとして展示されてきました。けれど寺地下の制御室に、同じ言葉が刻まれていました。『海の底で会いましょう』は、失われた恋人への呼びかけだけではない。未来の住民へ、制御室へ来いと告げる合図でもありました」

 彼の声は、展示室で聞く時より少し低かった。けれど震えてはいない。

 「私たちは、説明を欠けさせていました。欠けたまま残すことを、守ることだと思っていた。今日、ここで直します」

 カリネは隣に立った。

 鍋の中では、スープが小さく泡を立てている。寺から戻ってきたばかりの足は重い。けれど、胸の中だけは、朝の火に近かった。

 彼女は最後の紙片を開いた。

 「『朝ごはんを一緒に食べた場所は、だいたい帰る場所になる』」

 誰が書いたものか、署名はない。

 カリネは少しだけ笑った。

 「炉心博物館を、帰る場所にしたいです。展示を見るだけではなく、声を聞き、朝ごはんを食べ、古いものを今の暮らしにつなぐ場所に。閉じる前に、直させてください」

 広場の奥で、怒鳴っていた男が紙椀を受け取った。彼はまだ眉をしかめていたが、スープを一口飲むと、目を伏せた。

 「……熱いな」

 「熱いように作りました」

 カリネが答えると、男はそれ以上何も言わなかった。

 シグルギスリは長い沈黙のあと、議事録板を閉じた。

 「正午の票決は行う」

 広場の空気が張りつめる。

 「ただし」

 彼は階段を一段下りた。

 「本日の議題に、条件付き猶予案を追加する。議論は長くなる」

 マリヤムが即座にパン籠を持ち上げた。

 「長くなるなら、パンは足ります」

 「パンの量で議会を支えるな」

 シグルギスリはそう言ったが、受け取った紙椀を返しはしなかった。

 カリネは広場を見回した。まだ何も決まっていない。炉の火は細いまま。閉館票も消えてはいない。

 それでも、朝食卓の上には、声と、恋文と、パズルと、修繕計画が並んでいる。

 欠けたものを、欠けたまま隠すのではなく、みんなに見える場所へ置けた。

 それだけで、次の一匙をよそう力になった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ