第33話 帰れない潮
旧通路へ戻った途端、海底の朝は別の顔を見せた。
来る時には、壁の向こうで水が眠そうに身じろぎしているだけだった。いまは違う。厚い鋼板の継ぎ目から、低く、長く、喉を鳴らすような音が響いてくる。透明な観測窓の外では、黒い潮が細い筋になって岩肌をなで、遠くの魚影が一斉に向きを変えていた。
カリネは一歩進み、立ち止まった。
足元の鉄板が、ほんの少し遅れて震える。朝市で荷車が石畳を通る時の揺れとは違う。屋台の鍋が沸く前に底から返してくる音とも違う。水がどこか狭い隙間を見つけ、そこへ何度も額を押し当てている音だった。
「左の曲がり角、通れません」
カリネが言うと、アンドリュースが計器を覗き込んだ。
「待ってください。地図では左が最短です」
「でも、左は水が増えています」
「見えるんですか」
「聞こえます」
アンドリュースは言葉を飲み込み、すぐに腰の工具袋から小さな音叉を取り出した。壁へ当てる。澄んだ音が、半分だけ濁って返ってきた。
「……本当だ。内側に水が入っています。左へ進んだら、途中で扉が閉まるか、床が沈む」
「では右だ」
マリアが前へ出た。
彼は片手で古い防潮扉を押し、もう片方の手で天井の亀裂を見上げた。大きな体が通路の半分をふさぐ。けれど威圧感より先に、彼は扉へ深く頭を下げた。
「通らせてもらう。乱暴は、なるべくしない」
「なるべく、なのね」
ヴァシリーサが小声で言った。
「約束できる範囲を正直に言った」
マリアは真面目に答え、それから蝶番の錆へ手をかけた。
重い扉が軋む。音は通路の奥へ吸い込まれたが、返ってきたのは扉の悲鳴だけではなかった。もっと低い、腹の底を揺らすような潮鳴りが近づいている。
ヴィルモスは胸元に包んだ欠けた一片を抱え直した。布越しに形が分かるほど、指に力が入っている。
「戻れば、すぐに展示室の円形盤へはめられる」
彼は誰にともなく言った。
「戻ればな」
マリアが扉を開けながら言う。
「戻す。展示も、説明も、朝食卓も。だから今は、足を動かす」
その言い方があまりにまっすぐで、ヴィルモスは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……君の励ましは、扉の開け方に似ている」
「褒められたな」
「たぶん、半分だけ」
ノイスが言い、ヴァシリーサが小さく笑った。
笑いはすぐ潮鳴りに消えたが、それでも皆の肩から少しだけ力が抜けた。
右の通路は、来た時には通らなかった細い保守路だった。天井が低く、壁には古い配管が何本も走っている。ところどころに、寺の鐘と同じ欠けた円模様が刻まれていた。青い非常灯がちらつくたび、模様は魚の鱗のように浮かび上がる。
カリネは先頭から少し後ろを歩き、耳を澄ませた。
右の壁。細い水音。まだ浅い。
左の壁。空洞へ風が抜ける音。通れる。
足元。鉄板の裏で、小さな石が転がる音。急がないと、次の振動で床が噛み合わなくなる。
「次の十歩、真ん中を歩いてください。壁に寄らないで」
「了解」
アンドリュースが即答し、後ろへ手ぶりを送る。
マリアは歩幅を小さくした。大きな靴が、鉄板の継ぎ目を避けて落ちる。ノイスはヴァシリーサの袖を軽く持ち、ヴァシリーサは息を弾ませながらも、後ろのヴィルモスへ笑ってみせた。
「解説員さん、こういう時の通路解説はないの」
「ある」
ヴィルモスは少し遅れて答えた。
「百十二年前の保守路は、主通路より幅が狭く、配管がむき出しで、緊急時には潮圧を逃がす役目を持つ。ただし、現在は閉鎖区域であり、見学には向かない」
「最後だけ、今すごく実感があるわ」
ヴァシリーサが肩で息をしながら言う。
カリネは思わず笑いかけたが、その途中で足を止めた。
前方から、鈴のような音がした。寺の鐘を小さくしたような、でも金属ではなく、水泡が管をくぐる音。
「止まって」
声を張るより早く、マリアが片手を上げた。全員が止まる。
通路の先、天井から細い水が一筋落ちた。床に当たった水は、黒く光って左右へ伸びる。次の瞬間、天井の継ぎ目が膨らみ、白い霧のような潮気が吹いた。
アンドリュースの計器が甲高く鳴る。
「潮圧弁が閉じかけています。戻る道も、進む道も、あと少しで区切られる」
「走るか」
マリアが尋ねる。
「走ったら床が鳴ります」
カリネは首を横に振った。
「鳴ると、閉じます。たぶん、この通路は音に反応している」
ヴィルモスが顔を上げた。
「息を合わせよ、か」
寺の鐘の内側にあった文字。あれが、ここにも生きている。
カリネは自分の呼吸を数えた。朝、鍋を火にかける時と同じ。焦って匙を入れると底を引っかく。待ちすぎると泡が暴れる。ちょうどいい拍子がある。
「ゆっくり、同じ足で進みましょう。私が数えます。声は小さく」
「朝粥の列をさばく時みたいに?」
ノイスが言った。
「はい。割り込み禁止です」
「私、今は割り込まない」
ヴァシリーサが胸に手を当てる。
こんな場所でそんなことを言うので、アンドリュースが一瞬だけ変な顔をした。笑う余裕はなさそうなのに、口元が少しだけ緩む。
カリネは息を吸った。
「一、二。右。左。一、二。右。左」
全員の足音がそろい始めた。
鉄板の震えが、少しだけ落ち着く。天井の水は落ち続けているが、通路全体を叩く音にはならない。誰かの靴底が滑りかけると、ノイスが袖を引き、マリアが肩で支え、アンドリュースが配管を押さえた。ヴィルモスは片手で欠けた一片を守り、もう片方の手をカリネの背中のすぐ後ろに置いている。触れてはいない。でも、倒れたら受け止める位置だった。
曲がり角まであと少し。
その時、背後で重い音がした。
防潮扉が落ちたのだ。来た道が閉じられた。
誰も声を上げなかった。上げれば、次の扉も閉じる。
カリネは数を止めない。
「一、二。右。左」
声が震えそうになるのを、胸の奥で押さえた。鍋の湯気を見て落ち着く朝ではない。屋台の灯も、マリヤムのパンの香りもない。けれど、彼女の耳には、これまで聞いてきた朝の声が残っていた。眠い子どものあくび。老人の鼻歌。マリヤムが焼き網を叩く音。ヴィルモスが展示棒を落とした、あの恥ずかしい音。
みんな、生きている音だ。
それを思い出すと、足が止まらなかった。
最後の角を曲がると、円形の待避室が現れた。古い保守員用の休憩室らしく、壁に折り畳み椅子が吊られ、中央に小さな石卓がある。上部には厚い丸窓があり、外の海が暗い青に光っていた。
全員が中へ入った瞬間、前方の扉も落ちた。
金属の音が、腹の底に響く。
閉じ込められた。
アンドリュースが計器を見た。
「潮圧が落ち着くまで、扉は開きません」
「どれくらいだ」
マリアが尋ねる。
「数分ではありません。数時間、かもしれません」
沈黙が降りた。
寺の地下で見つけた一片はある。制御室の真相も掴んだ。戻らなければ、何も変えられない。なのに、海は扉を閉じ、皆を小さな待避室へ押し込めてしまった。
ヴィルモスは壁にもたれた。顔色が悪い。欠けた一片を抱く手の甲が白くなっている。
カリネは何か言おうとして、言葉を探した。大丈夫です、は軽い。必ず戻れます、も今は約束できない。
その時、マリアの腹が鳴った。
待避室に、あまりにも正直な音が響いた。
ヴァシリーサが目を丸くする。ノイスが口元を押さえる。アンドリュースは計器を見たまま肩を震わせた。
「すまない」
マリアは真剣に頭を下げた。
「潮より先に、腹が扉を叩いた」
カリネはとうとう吹き出した。笑ったらいけない場所のような気がしたのに、笑いは止まらなかった。怖さが消えたわけではない。ただ、怖さの上に、いつもの朝が一枚かかった。
「そうだ」
彼女は鞄を開けた。
「マリヤムが持たせてくれた包みがあります」
油紙の包みを開くと、焼きパンの香りが広がった。炉の熱で焼いた小さな丸パン、乾いた貝藻を練り込んだ塩菓子、冷めても固くなりにくい豆餡の包み焼き。さらに、ノイスが袖の内側から布包みを出した。
「針と糸だけじゃないの?」
ヴァシリーサが聞く。
「空腹の人の袖は、だいたい乱れるから」
ノイスはそう言い、干し果実を石卓へ並べた。
アンドリュースも工具袋から小さな金属筒を出す。中身は温かい茶ではなく、濃い豆汁だった。
「機械油じゃないでしょうね」
「飲めます。たぶん」
「たぶんを食卓に出さないで」
カリネが言うと、待避室にまた笑いが起きた。
彼女は丸パンを人数分に割った。ヴィルモスの分だけ少し大きくしようとして、手が止まる。今それを見られたら、また妙な沈黙になる。けれど、マリヤムなら迷わず大きくする。
カリネは少し大きいほうをヴィルモスへ渡した。
「今は、解説員さんが一片を守っていますから」
彼はパンを見下ろし、それからカリネを見た。
「その呼び方は、まだ続くのか」
「え」
「いや。今のは、責めたわけではない」
ヴィルモスはパンを受け取り、耳まで赤くしながら小さく咳をした。
「ただ、ここから戻ったら、名前で呼ばれるくらいの仕事をしなければと思っただけだ」
ヴァシリーサが石卓を叩きそうになり、ノイスがそっと手を押さえた。
「叩くと扉が反応するかもしれない」
「危なかったわ。恋の拍手で遭難が延びるところだった」
カリネはパンを口元へ運びながら、視線を丸窓へ逃がした。外の海は暗い。けれど、遠くで魚の群れが銀の線を描き、消えかけた灯の代わりに揺れている。
ヴィルモスは、少し遅れてパンをかじった。
「うまい」
「マリヤムに言ってください。たぶん、三日くらい威張ります」
「三日なら短い。彼女は七日いける」
「よく分かってますね」
「朝市の観察記録だ」
「そんな展示、ありましたっけ」
「これから作る」
その言葉に、カリネは胸の奥が温かくなるのを感じた。
戻った後の話をしている。閉じ込められた小さな待避室で、彼はもう、終わる準備ではなく続く準備を口にしている。
潮圧計はまだ赤い値を示していた。扉は重く閉ざされ、炉心博物館も街も遠い。だが石卓の上には割ったパンがあり、欠けた一片が布に包まれてあり、皆の息が少しずつ同じ速さに戻っていく。
カリネは小さな豆餡の包み焼きを半分に割り、残りをヴィルモスの前へ置いた。
「戻ったら」
言いかけて、喉が詰まる。
朝ごはんを一緒に。
その言葉は、まだうまく出なかった。
ヴィルモスは半分の包み焼きを見て、静かに言った。
「戻ったら、続きを聞く」
カリネは顔を上げた。
彼はもう展示室の台本を読む顔ではなく、待っている人の顔をしていた。
「今は、食べよう。潮が開くまで、体を温めておく必要がある」
「はい」
カリネは頷き、包み焼きをかじった。
甘い豆餡に、かすかな塩気が混じっていた。海の底で食べるには、少し泣きそうになる味だった。
閉ざされた扉の向こうで、潮がまだ低く鳴っている。
それでも待避室の中では、朝ごはんの湯気の代わりに、皆の息が白くならずに重なっていた。
帰れない潮の中で、カリネは初めて思った。
朝ごはんを一緒に食べる約束は、帰る理由になるのだと。




