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朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


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33/41

第33話 帰れない潮

 旧通路へ戻った途端、海底の朝は別の顔を見せた。

 来る時には、壁の向こうで水が眠そうに身じろぎしているだけだった。いまは違う。厚い鋼板の継ぎ目から、低く、長く、喉を鳴らすような音が響いてくる。透明な観測窓の外では、黒い潮が細い筋になって岩肌をなで、遠くの魚影が一斉に向きを変えていた。

 カリネは一歩進み、立ち止まった。

 足元の鉄板が、ほんの少し遅れて震える。朝市で荷車が石畳を通る時の揺れとは違う。屋台の鍋が沸く前に底から返してくる音とも違う。水がどこか狭い隙間を見つけ、そこへ何度も額を押し当てている音だった。

 「左の曲がり角、通れません」

 カリネが言うと、アンドリュースが計器を覗き込んだ。

 「待ってください。地図では左が最短です」

 「でも、左は水が増えています」

 「見えるんですか」

 「聞こえます」

 アンドリュースは言葉を飲み込み、すぐに腰の工具袋から小さな音叉を取り出した。壁へ当てる。澄んだ音が、半分だけ濁って返ってきた。

 「……本当だ。内側に水が入っています。左へ進んだら、途中で扉が閉まるか、床が沈む」

 「では右だ」

 マリアが前へ出た。

 彼は片手で古い防潮扉を押し、もう片方の手で天井の亀裂を見上げた。大きな体が通路の半分をふさぐ。けれど威圧感より先に、彼は扉へ深く頭を下げた。

 「通らせてもらう。乱暴は、なるべくしない」

 「なるべく、なのね」

 ヴァシリーサが小声で言った。

 「約束できる範囲を正直に言った」

 マリアは真面目に答え、それから蝶番の錆へ手をかけた。

 重い扉が軋む。音は通路の奥へ吸い込まれたが、返ってきたのは扉の悲鳴だけではなかった。もっと低い、腹の底を揺らすような潮鳴りが近づいている。

 ヴィルモスは胸元に包んだ欠けた一片を抱え直した。布越しに形が分かるほど、指に力が入っている。

 「戻れば、すぐに展示室の円形盤へはめられる」

 彼は誰にともなく言った。

 「戻ればな」

 マリアが扉を開けながら言う。

 「戻す。展示も、説明も、朝食卓も。だから今は、足を動かす」

 その言い方があまりにまっすぐで、ヴィルモスは一瞬だけ目を瞬かせた。

 「……君の励ましは、扉の開け方に似ている」

 「褒められたな」

 「たぶん、半分だけ」

 ノイスが言い、ヴァシリーサが小さく笑った。

 笑いはすぐ潮鳴りに消えたが、それでも皆の肩から少しだけ力が抜けた。

 右の通路は、来た時には通らなかった細い保守路だった。天井が低く、壁には古い配管が何本も走っている。ところどころに、寺の鐘と同じ欠けた円模様が刻まれていた。青い非常灯がちらつくたび、模様は魚の鱗のように浮かび上がる。

 カリネは先頭から少し後ろを歩き、耳を澄ませた。

 右の壁。細い水音。まだ浅い。

 左の壁。空洞へ風が抜ける音。通れる。

 足元。鉄板の裏で、小さな石が転がる音。急がないと、次の振動で床が噛み合わなくなる。

 「次の十歩、真ん中を歩いてください。壁に寄らないで」

 「了解」

 アンドリュースが即答し、後ろへ手ぶりを送る。

 マリアは歩幅を小さくした。大きな靴が、鉄板の継ぎ目を避けて落ちる。ノイスはヴァシリーサの袖を軽く持ち、ヴァシリーサは息を弾ませながらも、後ろのヴィルモスへ笑ってみせた。

 「解説員さん、こういう時の通路解説はないの」

 「ある」

 ヴィルモスは少し遅れて答えた。

 「百十二年前の保守路は、主通路より幅が狭く、配管がむき出しで、緊急時には潮圧を逃がす役目を持つ。ただし、現在は閉鎖区域であり、見学には向かない」

 「最後だけ、今すごく実感があるわ」

 ヴァシリーサが肩で息をしながら言う。

 カリネは思わず笑いかけたが、その途中で足を止めた。

 前方から、鈴のような音がした。寺の鐘を小さくしたような、でも金属ではなく、水泡が管をくぐる音。

 「止まって」

 声を張るより早く、マリアが片手を上げた。全員が止まる。

 通路の先、天井から細い水が一筋落ちた。床に当たった水は、黒く光って左右へ伸びる。次の瞬間、天井の継ぎ目が膨らみ、白い霧のような潮気が吹いた。

 アンドリュースの計器が甲高く鳴る。

 「潮圧弁が閉じかけています。戻る道も、進む道も、あと少しで区切られる」

 「走るか」

 マリアが尋ねる。

 「走ったら床が鳴ります」

 カリネは首を横に振った。

 「鳴ると、閉じます。たぶん、この通路は音に反応している」

 ヴィルモスが顔を上げた。

 「息を合わせよ、か」

 寺の鐘の内側にあった文字。あれが、ここにも生きている。

 カリネは自分の呼吸を数えた。朝、鍋を火にかける時と同じ。焦って匙を入れると底を引っかく。待ちすぎると泡が暴れる。ちょうどいい拍子がある。

 「ゆっくり、同じ足で進みましょう。私が数えます。声は小さく」

 「朝粥の列をさばく時みたいに?」

 ノイスが言った。

 「はい。割り込み禁止です」

 「私、今は割り込まない」

 ヴァシリーサが胸に手を当てる。

 こんな場所でそんなことを言うので、アンドリュースが一瞬だけ変な顔をした。笑う余裕はなさそうなのに、口元が少しだけ緩む。

 カリネは息を吸った。

 「一、二。右。左。一、二。右。左」

 全員の足音がそろい始めた。

 鉄板の震えが、少しだけ落ち着く。天井の水は落ち続けているが、通路全体を叩く音にはならない。誰かの靴底が滑りかけると、ノイスが袖を引き、マリアが肩で支え、アンドリュースが配管を押さえた。ヴィルモスは片手で欠けた一片を守り、もう片方の手をカリネの背中のすぐ後ろに置いている。触れてはいない。でも、倒れたら受け止める位置だった。

 曲がり角まであと少し。

 その時、背後で重い音がした。

 防潮扉が落ちたのだ。来た道が閉じられた。

 誰も声を上げなかった。上げれば、次の扉も閉じる。

 カリネは数を止めない。

 「一、二。右。左」

 声が震えそうになるのを、胸の奥で押さえた。鍋の湯気を見て落ち着く朝ではない。屋台の灯も、マリヤムのパンの香りもない。けれど、彼女の耳には、これまで聞いてきた朝の声が残っていた。眠い子どものあくび。老人の鼻歌。マリヤムが焼き網を叩く音。ヴィルモスが展示棒を落とした、あの恥ずかしい音。

 みんな、生きている音だ。

 それを思い出すと、足が止まらなかった。

 最後の角を曲がると、円形の待避室が現れた。古い保守員用の休憩室らしく、壁に折り畳み椅子が吊られ、中央に小さな石卓がある。上部には厚い丸窓があり、外の海が暗い青に光っていた。

 全員が中へ入った瞬間、前方の扉も落ちた。

 金属の音が、腹の底に響く。

 閉じ込められた。

 アンドリュースが計器を見た。

 「潮圧が落ち着くまで、扉は開きません」

 「どれくらいだ」

 マリアが尋ねる。

 「数分ではありません。数時間、かもしれません」

 沈黙が降りた。

 寺の地下で見つけた一片はある。制御室の真相も掴んだ。戻らなければ、何も変えられない。なのに、海は扉を閉じ、皆を小さな待避室へ押し込めてしまった。

 ヴィルモスは壁にもたれた。顔色が悪い。欠けた一片を抱く手の甲が白くなっている。

 カリネは何か言おうとして、言葉を探した。大丈夫です、は軽い。必ず戻れます、も今は約束できない。

 その時、マリアの腹が鳴った。

 待避室に、あまりにも正直な音が響いた。

 ヴァシリーサが目を丸くする。ノイスが口元を押さえる。アンドリュースは計器を見たまま肩を震わせた。

 「すまない」

 マリアは真剣に頭を下げた。

 「潮より先に、腹が扉を叩いた」

 カリネはとうとう吹き出した。笑ったらいけない場所のような気がしたのに、笑いは止まらなかった。怖さが消えたわけではない。ただ、怖さの上に、いつもの朝が一枚かかった。

 「そうだ」

 彼女は鞄を開けた。

 「マリヤムが持たせてくれた包みがあります」

 油紙の包みを開くと、焼きパンの香りが広がった。炉の熱で焼いた小さな丸パン、乾いた貝藻を練り込んだ塩菓子、冷めても固くなりにくい豆餡の包み焼き。さらに、ノイスが袖の内側から布包みを出した。

 「針と糸だけじゃないの?」

 ヴァシリーサが聞く。

 「空腹の人の袖は、だいたい乱れるから」

 ノイスはそう言い、干し果実を石卓へ並べた。

 アンドリュースも工具袋から小さな金属筒を出す。中身は温かい茶ではなく、濃い豆汁だった。

 「機械油じゃないでしょうね」

 「飲めます。たぶん」

 「たぶんを食卓に出さないで」

 カリネが言うと、待避室にまた笑いが起きた。

 彼女は丸パンを人数分に割った。ヴィルモスの分だけ少し大きくしようとして、手が止まる。今それを見られたら、また妙な沈黙になる。けれど、マリヤムなら迷わず大きくする。

 カリネは少し大きいほうをヴィルモスへ渡した。

 「今は、解説員さんが一片を守っていますから」

 彼はパンを見下ろし、それからカリネを見た。

 「その呼び方は、まだ続くのか」

 「え」

 「いや。今のは、責めたわけではない」

 ヴィルモスはパンを受け取り、耳まで赤くしながら小さく咳をした。

 「ただ、ここから戻ったら、名前で呼ばれるくらいの仕事をしなければと思っただけだ」

 ヴァシリーサが石卓を叩きそうになり、ノイスがそっと手を押さえた。

 「叩くと扉が反応するかもしれない」

 「危なかったわ。恋の拍手で遭難が延びるところだった」

 カリネはパンを口元へ運びながら、視線を丸窓へ逃がした。外の海は暗い。けれど、遠くで魚の群れが銀の線を描き、消えかけた灯の代わりに揺れている。

 ヴィルモスは、少し遅れてパンをかじった。

 「うまい」

 「マリヤムに言ってください。たぶん、三日くらい威張ります」

 「三日なら短い。彼女は七日いける」

 「よく分かってますね」

 「朝市の観察記録だ」

 「そんな展示、ありましたっけ」

 「これから作る」

 その言葉に、カリネは胸の奥が温かくなるのを感じた。

 戻った後の話をしている。閉じ込められた小さな待避室で、彼はもう、終わる準備ではなく続く準備を口にしている。

 潮圧計はまだ赤い値を示していた。扉は重く閉ざされ、炉心博物館も街も遠い。だが石卓の上には割ったパンがあり、欠けた一片が布に包まれてあり、皆の息が少しずつ同じ速さに戻っていく。

 カリネは小さな豆餡の包み焼きを半分に割り、残りをヴィルモスの前へ置いた。

 「戻ったら」

 言いかけて、喉が詰まる。

 朝ごはんを一緒に。

 その言葉は、まだうまく出なかった。

 ヴィルモスは半分の包み焼きを見て、静かに言った。

 「戻ったら、続きを聞く」

 カリネは顔を上げた。

 彼はもう展示室の台本を読む顔ではなく、待っている人の顔をしていた。

 「今は、食べよう。潮が開くまで、体を温めておく必要がある」

 「はい」

 カリネは頷き、包み焼きをかじった。

 甘い豆餡に、かすかな塩気が混じっていた。海の底で食べるには、少し泣きそうになる味だった。

 閉ざされた扉の向こうで、潮がまだ低く鳴っている。

 それでも待避室の中では、朝ごはんの湯気の代わりに、皆の息が白くならずに重なっていた。

 帰れない潮の中で、カリネは初めて思った。

 朝ごはんを一緒に食べる約束は、帰る理由になるのだと。



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