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朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


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第29話 海底通路の朝

 旧通路の扉をくぐる前、カリネはパン包みの口をもう一度結び直した。

 夜明け前の博物館は、普段なら湯気と焼き目の匂いで満ちている。けれど今朝は、銅鍋の代わりにアンドリュースの計器が小さく震え、匙の音の代わりに水門の奥から低い軋みが聞こえていた。壁の青灯は二つ消え、残る一つが、眠れない目のように通路の入口を照らしている。

 「食べるなら今だぞ」

 マリヤムが持たせてくれた包みを指して、アンドリュースが言った。彼は工具帯を二重に締め、腰に下げた小型灯を何度も叩いている。

 「歩きながら食べると、パン粉が計器に入ります」

 「そこを心配するのか」

 「前に入れた人がいました」

 「誰だ」

 アンドリュースが聞くと、カリネは目をそらした。

 「朝が早かったので、私だったかもしれません」

 マリアが低く笑い、扉へ向かって一礼した。

 「今日も頼む。開いてくれたら感謝する。閉じる時は、帰るまで待ってくれ」

 「扉に交渉するな。蝶番が困る」

 アンドリュースが言いながら、照明を点けた。

 その光が、扉の向こうへ細く伸びる。旧通路は、想像していたより狭かった。壁は黒い鋼材と古い石が交互に重なり、継ぎ目から白い塩の花が噴いている。天井の管は何本も途中で折れ、ところどころ、外海を隔てる厚い観察窓が暗く濡れていた。

 マリアが先頭に立ち、盾代わりの厚板を肩に担いだ。その後ろにアンドリュース、ヴィルモス、カリネ、ノイス、ヴァシリーサが続く。アロイジアは寺の見取り図を胸に抱え、欠けた円の写しを何度も開きかけては、マリアの背中にぶつかりそうになった。

 「足元」

 ノイスがそっと袖を引く。

 「あ、ありがとう。今の段差、形が面白くて」

 「転んで顔の形を変えないでくださいね」

 「それは困る。まだこの顔で読みたい図がある」

 カリネは笑いかけたが、すぐに耳を澄ませた。

 水の音がする。

 それは、屋台の裏で鍋を洗う時の軽い音ではなかった。遠くの大きな胸が眠りながら息をしているような、低く、押し返す音。壁の向こうで海が身じろぎし、通路の骨へゆっくり手をかけている。

 「赤灯、一度目」

 アンドリュースが計器を見た。

 通路の奥に並ぶ小さな赤い灯が、ぱっと瞬き、すぐ暗くなった。

 「ここから、潮圧が緩む短い間だけ進めます」

 ヴィルモスの声は落ち着いていた。けれど、革筒を持つ指には力が入っている。カリネはその指を見て、昨日の許可証と、二十年前の事故記録を思い出した。

 怖くない人など、ここにはいない。

 それでも、誰も引き返そうとは言わなかった。

 マリアが一歩踏み出す。床板がぎしりと鳴った。彼は立ち止まり、足を少し引いて、別の場所を踏んだ。今度は低い音だけで済んだ。

 「右端は疲れている」

 「床板を人みたいに言うな」

 アンドリュースが言ったが、自分の足は素直に左へ寄せた。

 カリネも左へ足を置いた。その時、壁の向こうを銀の魚影が横切った。厚い窓の外で、細長い体が一斉に曲がり、青い光の粉を散らす。普段、街のドームから見る魚たちは飾りのように綺麗だった。けれどここでは、外海はすぐ隣で、息を吸えば水の重さまで胸に入ってきそうだった。

 「綺麗ですね」

 ノイスが小さく言った。

 「綺麗だけど、近い」

 カリネが答えると、ヴィルモスがうなずいた。

 「美しいものは、距離を間違えると怖くなる」

 その言葉が、通路の冷たい壁に触れて戻ってきた。

 しばらく進むと、天井から水滴が落ちていた。ひとつ、ふたつ、三つ。アンドリュースがすぐに計器をかざす。

 「漏水ではない。結露だ。たぶん」

 「たぶんを通路に混ぜるな」

 ヴィルモスが返したので、アンドリュースは肩をすくめた。

 「では、現時点の計測値では結露寄り。これでどうだ」

 「展示解説なら可」

 「通路の安全確認としては?」

 「不可」

 「厳しいな、博物館の解説員さん」

 カリネは思わずその呼び方に反応し、自分で言ったわけでもないのに顔が熱くなった。ヴィルモスも一瞬だけこちらを見た。薄暗い通路の中で、その視線だけがやけに近い。

 けれど、次の瞬間、奥から硬い音がした。

 かん、と金属を爪で弾いたような音。

 全員が止まった。

 「何か落ちたか」

 マリアが声を低くする。

 「違います」

 カリネは息を止めた。

 もう一度、音がした。かん、ではなく、こん。少し湿っている。通路のずっと先、曲がり角の向こう。朝の屋台で聞くなら、鍋底に残った豆が跳ねた音に似ている。けれどここに豆はない。

 「水です」

 「結露?」

 「いえ。落ちる水じゃなくて、押してくる水です」

 アンドリュースが計器を見た。

 「数値はまだ危険域じゃない」

 「でも、拍子が違います」

 カリネは耳を澄ませた。夜明け前の炉の音を毎日聞いてきた。客が来る前の広場の音、パン窯が温まる音、寝不足の職員が階段で足を引きずる音。そのどれとも違う音は、すぐ分かる。

 こん、こん、こん。

 ひとつ間をあけて、こん。

 何かが堪えて、また押している。

 「右の壁ではありません。床の下です。曲がり角の先、真ん中あたり」

 マリアが黙って膝をついた。厚板を床へ当て、耳を近づける。

 「いる」

 「何がですか」

 「水が、怒っている」

 「だから人みたいに言うな」

 アンドリュースはそう言いながら、今度は何も否定しなかった。代わりに工具で床の継ぎ目を叩き、眉をひそめる。

 「この先の中央板、裏が抜けかけている。踏めば一気に沈むかもしれない」

 アロイジアが見取り図を開いた。

 「でも、そこを通らないと寺へ向かう古い階段に出られない」

 「真ん中を避けます」

 カリネは床の音を追った。水が押している場所は、通路の中央より少し右。左端には、かすれた乾いた音が残っている。けれど左端だけでは狭い。

 マリアは周囲を見回し、古い管の固定枠に手をかけた。

 「これを渡せる」

 「待て、外すな。どの管につながっているか分からない」

 アンドリュースが慌てて確認する。計器を当て、耳を近づけ、管の表面を撫でるように叩いた。

 「死んでいる管だ。使える」

 「死んでいるものも、道になるんだな」

 ヴァシリーサがぽつりと言った。

 マリアは固定枠を外し、長い管を橋のように中央板の上へ渡した。自分が最初に乗る前に、管へ一礼する。

 「重さを預ける。すまん」

 管はぎしりと鳴ったが、沈まなかった。

 一人ずつ渡ることになった。アロイジアは図を抱えたまま足を出し、途中で下を見て固まった。ノイスが後ろから袖をそっと押さえる。

 「図は逃げません」

 「床は逃げそう」

 「では、床より先に行きましょう」

 アロイジアは目をぎゅっと閉じ、管の上を渡った。渡り終えると、マリアに向かって深く頭を下げた。

 「ありがとう。今の揺れ、円形盤の中心線に似ていた」

 「礼の後に研究を始めるな」

 アンドリュースが言うと、暗い通路に小さな笑いが落ちた。

 最後にカリネとヴィルモスが残った。

 「先に」

 ヴィルモスが言った。

 「一緒に進んだほうが、足音が分かりやすいです」

 「足音?」

 「はい。私が先に行くと、たぶん急ぎます。ヴィルモスさんが後ろにいると、気にして急ぎます」

 「では、私が先に行く」

 「それはそれで、心配で急ぎます」

 ヴィルモスは少し黙ったあと、困ったように息を吐いた。

 「つまり?」

 「横で、同じ歩幅がいいです」

 言ってから、カリネは自分の言葉に気づいた。通路の冷たさとは別の熱が、頬に上がる。

 ヴィルモスは咳払いをした。

 「合理的だ」

 「今の、合理的で片づけますか」

 「ほかの置き場所が見つからない」

 二人は同時に一歩を出した。管が鳴る。足元の下で、水がこん、と押した。カリネは立ち止まり、次の音を待った。ヴィルモスも止まる。息が揃う。

 こん。

 次の隙間で、進む。

 こん。

 また止まる。

 まるで見えない鐘に合わせて、二人は渡った。

 向こう側へ着いた時、カリネは自分が息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。ヴィルモスも同じように息を吐く。その音が重なり、通路の奥へ細く伸びていった。

 「今の拍子」

 アンドリュースが計器をのぞき込む。

 「炉の空気弁の揺れと近い。偶然か?」

 「偶然という展示名にすると、説明が雑すぎます」

 ヴィルモスが言った。

 カリネは奥を見た。通路の先に、古い階段が下へ伸びている。壁には、消えかけた文字があった。塩に覆われ、半分しか読めない。それでも、最初の一文字だけは見えた。

 息。

 カリネはパン包みを抱え直した。

 夜明け前の街では、そろそろ最初の客が屋台を探している頃だ。けれど今日、彼女の屋台は閉まっている。鍋の代わりに、旧通路の水音を聞いている。

 朝ごはんを待つ人たちのために、今は進む。

 マリアが階段へ一礼した。

 「では、下りる」

 アンドリュースが計器を上げ、ノイスが袖を整え、ヴァシリーサが小さく歌を止めた。

 ヴィルモスは革筒を胸に当て、カリネを見る。

 「案内を頼む」

 カリネはうなずいた。

 「はい。音が変わったら、止まってください」

 「君が止まったら、止まる」

 短い返事だった。けれど、昨日の署名よりも、少し重かった。

 階段の下から、遠い鐘の余韻のような水音が聞こえてくる。

 海底通路の朝は、太陽より先に、見えない水の拍子で始まっていた。



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