第28話 触らぬ神に祟りあり
通行許可証というものは、紙一枚でできているくせに、鍋より重かった。
シグルギスリが博物館の事務卓に広げたその紙には、細かな注意書きが余白いっぱいに並んでいた。潮圧変動時の退避、青灯消灯後の待機、赤灯点滅時の移動、炉心母炉の火勢低下時の引き返し。読み上げるだけで夜明けが終わりそうな量だった。
「まず第一に、旧通路へ入る者は、この欄に氏名を記す。第二に、同行者の責任範囲を明確にする。第三に、通路内で発見した物品は勝手に持ち出さず、第四に、祈りの場であった無人の寺の床、壁、祭具、その他歴史的構造物へ無断で触れず、第五に——」
「無断で触れないなら、欠けた一片はどうするんですか」
カリネが尋ねると、シグルギスリは唇を押し結んだ。
卓の向こうでウェンノが、書類束の影からそっと顔を出す。
「触れるための別紙があります」
「別紙?」
「歴史的構造物一時接触申請書です。ただ、まだ題名しか書いていません」
「題名は立派だな」
アンドリュースが工具箱を抱えたまま、乾いた声で言った。
ウェンノは肩をすくめる。
「題名を書くところまでは、昨日の私が頑張りました」
「昨日のおまえは、なぜ本文を書かなかった」
「今日の私に期待していたんです」
「今日のおまえは?」
「期待されすぎて、手が震えています」
マリヤムが焼きたての細長いパンを卓に置いた。
「手が震えるなら、まず食べなさい。空腹で書いた許可証なんて、読んだ人まで腹が立つんだから」
「その理屈は行政文書として採用できない」
シグルギスリはそう言いながらも、パンの端をきちんと折って口に入れた。噛む回数まで規則に従っているような顔だったが、二口目は少し早かった。
カリネは彼の前に温かい粥を置いた。
「反対なんですよね」
シグルギスリは匙を取らずに、粥の湯気を見ていた。
「反対だ。旧通路は古い。無人の寺は潮圧で歪んでいる。炉の火は細い。危険が重なっている場所へ、店主見習いと解説員と技師と鍛冶守を送り込むなど、議会書記官として止めるべきだ」
「では、止めますか」
カリネは声を荒げなかった。
卓の上では、許可証の角が炉の熱でわずかに反っている。反った紙の影が、欠けた円のように見えた。
シグルギスリは匙を手に取った。けれど、まだ食べない。
「止めれば、私の職務は軽くなる。事故が起きても、許可を出さなかったと言える」
「でも、炉の火は?」
「細くなる」
「博物館は?」
「閉館手続きが進む」
「街の暖かさは?」
シグルギスリはそこで、ようやく粥を一口食べた。顔の険しさが、ほんの少しだけ下がる。
「……冷える」
カリネは彼の返事を待った。次を急がせなかった。
窓の外では、博物館前の広場に朝市の支度が始まっている。パン籠を運ぶマリヤムの弟子たち、糸飾りを直すノイス、通りがかりに屋台の看板を見上げる子どもたち。誰も大声では話さない。けれど、閉館と炉の噂は、湯気より早く街へ広がっていた。
シグルギスリは紙へ目を落とした。
「昔から、こう言う。触らぬ神に祟りなし、と」
その言葉に、アンドリュースが工具箱の留め具を鳴らした。ヴィルモスは黙ったまま、展示室へ続く扉を見ている。そこには「あの人の息」の案内板があり、いまは布で覆われていた。
カリネは匙を鍋に戻した。小さな音が、卓の上に残る。
「触らなかったから、今こうなったのではないですか」
誰もすぐには動かなかった。
カリネ自身も、言ってから胸が少し震えた。シグルギスリを責めたいわけではない。けれど、ずっと閉じたままにされた申請書、見ないふりをされた事故記録、悲恋の品としてだけ語られてきた瓶、欠けたまま置かれていたパズル。そのすべてが、触れられないまま積もっていた。
「私は、神に触りたいわけではありません」
カリネは続けた。
「無人の寺に眠っているものが、本当に祟るものなのか、それとも誰かが待っているものなのか、確かめたいんです。確かめないまま怖がっていたら、街が冷えていく音だけ聞くことになります」
シグルギスリは匙を置いた。
「君は、議会向きではないな」
「そうでしょうか」
「議会なら、いまの話を三倍に引き延ばして、結論を次回に持ち越す」
「それは向いていなくてよかったです」
マリヤムが吹き出し、パン籠で顔を隠した。ウェンノも笑いかけたが、手元の書類を見て慌てて真顔に戻る。
シグルギスリは椅子から立ち上がった。外套の裾を直し、許可証の一番下へ羽根ペンを置く。
「条件を付ける」
「はい」
「第一。夜明け前の赤灯が一度瞬いた時のみ通行する。第二。水音に異常があれば、案内役の判断で引き返す。第三。欠けた一片を発見した場合、位置と状態を記録し、必要最小限の接触に留める。第四。戻った後、短い報告を提出する」
「短い、ですか」
ヴィルモスが思わず聞き返した。
シグルギスリは苦い顔をした。
「努力目標だ。そこを笑うな、解説員」
「笑ってはいません」
「口元が動いている」
「展示室の乾燥です」
「都合のよい乾燥だな」
ほんの少しだけ、卓を囲む空気が温かくなる。
シグルギスリは署名欄へ自分の名を書いた。長い名前を丁寧に書くのではなく、短い線で、迷いなく。議会の鐘のような鋭さで羽根ペンが紙を走った。
その瞬間、ウェンノが持っていた別紙を差し出した。
「接触申請書、本文を書きました」
「早いな」
「今の話を聞いて、今日の私が働きました」
書類には、まだ乾いていない字でこう記されていた。
欠けた一片を取り戻すため。炉心母炉の安全確認のため。海底都市メルティカの朝を守るため。
シグルギスリはそれを読み、何も言わずに二枚目にも署名した。
カリネは胸の奥で、何かが静かに鳴るのを聞いた。炉の音ではない。水門の音でもない。誰かが怖いと思いながら、それでも手を動かした音だった。
マリアが許可証へ深く一礼した。
「紙よ、道を開いてくれて感謝する」
「紙にまで礼を言うのか」
アンドリュースが呆れる。
「扉になるものには礼を言う」
「今のは少し分かります」
カリネが言うと、マリアは満足げにうなずいた。
ヴィルモスは許可証を受け取り、端を折らないよう慎重に革筒へ入れた。指先は、以前ほど震えていなかった。
「君の言葉は、時々、展示品の埃を払う刷毛に似ている」
カリネは瞬きをした。
「刷毛、ですか」
「強く削らない。けれど、隠れていた線を見えるようにする」
「それは褒めていますか」
「かなり」
ヴィルモスが真面目な顔で言うので、カリネは耳まで熱くなった。
マリヤムがすかさずパンを差し出す。
「はい、照れ隠し用」
「いりません」
「じゃあ本番用」
「もっといりません」
カリネはパンを受け取りながら、結局ひと口かじった。焼きたての香ばしさが、不安で固まっていた喉を少しずつほどいていく。
広場の青灯が一つ、淡く消えた。
夜明け前の合図にはまだ早い。けれど、街はもう、息を潜めて待っている。
シグルギスリは外套を翻し、扉へ向かった。途中で振り返り、いつもの長い前置きを飲み込むように喉を鳴らした。
「戻れ」
それだけだった。
カリネは深く頭を下げた。
「はい。戻って、朝ごはんを出します」
「量は多めにしておけ。報告を聞く者が増える」
そう言って、シグルギスリは出ていった。
閉じた扉の向こうで、彼が廊下の職員に何か短く指示する声がした。長い議論ではなく、短い命令だった。
ウェンノは砂時計を卓へ置き、ひっくり返した。
「出発まで、これ二回分です。たぶん」
「たぶんを正式な時刻に混ぜるな」
アンドリュースが言いながら、計器を肩にかける。
ノイスはカリネの袖をもう一度確かめ、ヴァシリーサは誰にも気づかれないよう小さな祈り歌を口ずさんだ。
カリネは革筒の中の許可証を見た。紙一枚。けれど、その下には朝市の声、展示室の沈黙、古い事故記録、未提出の申請書、そして誰かが怖がりながら書いた署名が重なっている。
触らぬ神に祟りなし。
けれど、触れないまま冷えていく朝もある。
カリネはパン包みを肩にかけ、旧通路へ続く階段を見た。
青灯が二つ目を消すまで、もう少しだった。




