第26話 言わせんな恥ずかしい、未遂
炉心展示室へ向かう廊下は、いつもより人の声が低かった。
朝食解説の看板はまだ壁に立てかけたままで、マリヤムの焼きパンも、ノイスが結んだ糸飾りも、ヴァシリーサが持ち込んだ小さな朗読台も、始まる前の舞台みたいに並んでいた。けれど、足元から伝わる振動だけが、いつもの朝と違う。
溶鉱炉の息が、細い。
カリネは鍋を抱えたまま、展示室の入口で立ち止まった。赤い光が床に伸びている。昨日までは、湯気に混じるほど温かかった光が、今日は濡れた糸のように頼りない。
「朝粥、置く場所ありますか」
声が上ずった。
アンドリュースは計器箱に頭を突っ込んでいた。返事の代わりに、片手だけが床を指す。そこには工具、記録紙、半分かじられた焼きパン、さらに工具、そして誰かの手袋が散らばっていた。
「食べ物と鉄粉を同じ床に置く人には、朝ごはんを出せません」
「今それどころじゃないんだ、弁が三拍で詰まって二拍で抜ける。聞こえるか」
カリネは耳を澄ませた。
奥で、かすかに音がする。ふう、ふ、ふう。昨日まで聞いていた不規則な息より短く、途中で喉をつまらせたような拍子だった。
「……老人の鼻歌と、少し違います」
「やっぱりか」
アンドリュースが顔を上げた。頬に煤がついている。本人は気づいていない。
「前は古い拍子に戻ろうとしていた。今は、その拍子を途中で切られている。制御信号がどこかで欠けてる」
「欠けている」
その言葉に、カリネは胸の奥で円形盤の空白を思い浮かべた。
ヴィルモスは少し遅れて展示室に入ってきた。記録板を胸に抱えている。そこにカリネの便箋が挟まっていると思うと、顔の熱がまた戻りそうになった。
だめだ。今は炉を見る。手紙を見るな。記録板も見るな。ヴィルモスの耳も見るな。
「ヴィルモスさん」
「今、耳を見たか」
「見ていません」
「即答が早い」
「炉を見ています」
「私も炉を見る」
二人とも同じ方向を向いた。なのに、横顔の気配だけで、手紙の冒頭が廊下を走り回っている気がする。
朝ごはんを一緒に食べませんか。
ただそれだけの文が、どうしてこんなに大きな音を立てるのだろう。
「その、先ほどの紙についてだが」
ヴィルモスが低く言った。
「今ですか」
「今でなければ、君は逃げる」
「炉が危ないので逃げません」
「炉が危なくなくても、鍋の陰には隠れる」
「鍋には信頼があります」
ヴィルモスは真面目な顔のまま、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「私は、返事を保留したいわけではない」
カリネの手から、木べらが滑りかけた。
アンドリュースが工具箱の陰から顔を出す。マリヤムが入口で焼きパン籠を抱えたまま止まる。ノイスは子どもの袖口を直していた手を止め、ヴァシリーサは朗読台を運ぶ姿勢のまま口だけを丸くした。
「皆さん、炉を見てください」
カリネは小声で言った。
「見てるよ。炉と同じくらい赤いものも見てるけど」
マリヤムが小さく笑った。
ヴィルモスは咳払いした。解説前の声を整える時と同じ、少し堅い咳払いだった。
「冒頭について、私は」
「冒頭という言い方をやめてください。展示目録みたいです」
「では、あの一文について」
「それもやめてください。証拠品みたいです」
「君は注文が細かい」
「読む方が悪いんです」
「それは認める」
すぐに認められてしまい、カリネは続く言葉を失った。怒っているわけではない。恥ずかしいだけだ。けれど、その恥ずかしさの底に、少しだけうれしいものが沈んでいるから、余計に困る。
ヴィルモスは記録板を抱え直した。
「カリネ」
また名前だった。
展示室の赤い光が、薄く彼の横顔を染める。彼は炉を見たまま、けれど声だけはまっすぐカリネへ向けた。
「私は、君の朝ごはんに何度も助けられている。熱いものを置いて、こちらが話すまで待ってくれる。説明を間違えた時も、責めるより先に続きを聞いた。だから、その……」
その、と言ったきり、彼の声が止まった。
マリヤムが口を押さえる。ヴァシリーサが朗読台をそっと床に置く。アンドリュースまで工具を握ったまま固まっている。
カリネは鍋蓋を持ち上げた。
「待ってください」
「なぜ蓋を構える」
「顔を隠す準備です」
「まだ隠すな。こちらも、言う準備に時間がかかっている」
「では私も聞く準備に時間がかかります」
「君は聞くのが得意だろう」
「恋文関係は専門外です」
ヴィルモスの口元が、今度こそ少しだけ緩んだ。
「私も専門外だ」
それから彼は、胸の奥に沈んでいた言葉を、錆びた扉を押すようにゆっくり持ち上げた。
「つまり、その。言わせ……」
その瞬間、炉心母炉の奥で、金属が悲鳴を上げた。
鋭い警報が展示室に突き刺さる。赤い光が一度大きく膨らみ、すぐに細く落ちた。床の下で空気が引き抜かれるような音がし、壁の展示札がかたかた震える。
「弁が閉じた!」
アンドリュースが叫んだ。
恋文も、朝ごはんも、言いかけの言葉も、全部が一瞬で炉の奥へ吸い込まれた。
カリネは鍋蓋を落としかけ、慌てて抱え直す。マリヤムがパン籠を台の下へ押し込んだ。ノイスは子どもを自分の背中にかばい、ヴァシリーサは朗読台を倒れないよう両手で押さえた。
ヴィルモスはすでに動いていた。
記録板を胸から外し、展示室奥の安全扉へ走る。その横顔に迷いはない。さっきまで言葉を選びすぎていた人と同じとは思えないほど、足取りが速かった。
「アンドリュース、手順は」
「旧式の吸気弁を手動で開ける。でも、制御信号の欠けが原因なら一時しのぎだ」
「一時でも、今の客を冷やさない」
ヴィルモスは安全扉の鍵を回した。二十年前の事故記録に触れる時、彼の手は震えていた。今は違う。指先が白くなるほど力は入っていたが、鍵穴を外さなかった。
カリネはそれを見て、鍋を台に置いた。
「私、何をしますか」
「来館者を中央広間へ。温かいものを配って、不安な話を聞いてくれ」
ヴィルモスは振り返らずに言った。
「君が聞いてくれれば、声は散らばらない」
胸の奥で、何かが灯った。
告白の続きではない。けれど、カリネにはその言葉が、恋文の返事の手前に置かれた大事な札のように思えた。
「分かりました。朝ごはん係、動きます」
「朝ごはん係ではない」
「では何ですか」
ヴィルモスは安全扉を押し開けた。熱の落ちた空気が、冷たい霧のように流れ出る。
彼は一瞬だけこちらを見た。
「……今は、街の声をまとめる人だ」
言い終えると同時に、彼は奥へ入った。アンドリュースが工具箱を抱えて続く。
カリネは固まりそうになる足を叱り、中央広間へ走った。
廊下には、不安そうな住民が集まり始めていた。誰かが閉館票のことを叫び、誰かが暖房の止まった区画の名を口にする。子どもが泣き、老人が杖で床を叩く。
カリネは鍋を持ち直し、大きく息を吸った。
「温かいスープがあります。話は、順番に聞きます。寒い人から、まず一杯どうぞ」
その声は震えていた。けれど、届いた。
最初に泣いていた子どもが、ノイスに袖を直されながら椀を受け取った。次に老人が、杖を膝に挟んで椀を持つ。マリヤムがパンを割り、ヴァシリーサが冗談を一つ添えた。
炉の警報はまだ鳴っている。
言いかけの「言わせんな」は、赤い光の向こうに置き去りになったままだ。
けれどカリネは、逃げなかった。
恋文の続きは書けなかった。告白の続きも聞けなかった。それでも今、自分の前に並ぶ声を、一つずつ受け止めることはできる。
海の底の朝は、また少し欠けた。
だからこそ、誰かの椀に湯気を足す。
カリネは一杯目の空いた椀を受け取り、次の人へ向き直った。




