第25話 言えなかった恋文
夜明け前の博物館は、いつもより少しだけ食堂に似ていた。
展示室へ運び込まれた長机には、皿ではなく紙片が並んでいる。街の声を写した紙、修繕申請の控え、無人の寺の古い図、欠けたパズル盤の写し。カリネはそのあいだを小走りで行き来し、湯気の立つ鍋を避けながら、昨夜書いた紙を束のいちばん上へ重ねた。
終わるためではなく、続くために話すこと。
その一文を見るたびに、胸の奥が少しだけ震える。大きな演説など、できる気がしない。けれど、朝食卓で聞いた声なら覚えている。寒い区画で怒っていた男の声。博物館で迷子になった昔を笑った老婆の声。初めて炉の赤を見た子どもが、火って心臓みたいだね、と言った声。
それを並べることなら、カリネにもできる。
「カリネ、これ、古い恋文の仮台紙ってどこへ置くの」
マリヤムが、保存紙を挟む薄い板を抱えて戻ってきた。袖に白い粉がついている。徹夜でパンを焼きながら資料運びまでしているせいで、彼女の髪からは焼き皮の甘い匂いがした。
「第三展示室の右端です。創設者の恋文と、穴文字の拡大写しを並べるところ」
「右端ね。右端って、ヴィルモスさんから見て右? 私から見て右? それとも未来の来館者から見て右?」
「朝から哲学にしないでください」
「だって昨日、シグルギスリさんが『右とは責任の所在である』って言い出したのよ」
「それ、たぶん議事録の頁の話です」
言いながら、カリネは展示準備用の封筒を取った。中には古い恋文の写し、穴文字の転写、パズル盤の写真が入っている。紙の端が少し反っていたので、手のひらでそっと押さえた。
その時、屋台用の木箱の奥から、ひらりと別の紙が落ちた。
「何それ」
マリヤムの声が、一瞬で変わった。
「何でもありません」
「今の速さは、何でもある時の速さよ」
「何でもないです」
「カリネ。あなた、粥が吹きこぼれた時より速く隠したわよ」
カリネは紙を胸に押し当てた。こんな時に限って、折り目が熱を持ったみたいに存在を主張する。何度も書いて、何度も捨てられず、木箱の底へしまった手紙。宛名を書いただけで一日使い果たし、本文の最初の一文だけで鍋を焦がした手紙。
ヴィルモスさんへ。
その文字だけで、もう十分に危険だった。
「見せなさい」
「絶対に嫌です」
「じゃあ恋文ね」
「違います」
「違うなら見せられる」
「違わないかもしれないので見せられません」
「ほら恋文じゃない」
マリヤムの目が、焼きたての丸パンより輝いた。
カリネは後ずさりした。背中が展示台に当たり、台の上の仮台紙がかたんと鳴る。慌てて手を伸ばした拍子に、胸に押し当てていた紙が滑った。
「あっ」
手紙は、創設者の恋文を挟むために開いていた仮台紙の上へ落ちた。
カリネはすぐに拾おうとした。だが、その瞬間、第三展示室の扉が開く。
「カリネ。第八列の声の紙片を確認したい。老人の鼻歌についての記録は――」
ヴィルモスだった。
白い手袋をつけ、記録板を抱え、昨夜より少しだけ目の下に影を作っている。それでも背筋はまっすぐで、解説員の顔をしていた。
カリネは反射で仮台紙を閉じた。
閉じてしまった。
自分の手紙ごと。
「鼻歌の記録は、あちらです!」
声が裏返った。あちら、がどちらなのか、自分でも分からない。
ヴィルモスは一度まばたきをした。
「右か」
「右です」
「私から見て」
「未来の来館者から見てです!」
「……分かった」
分かっていない顔で、彼は別の机へ向かった。
マリヤムが口元を押さえて震えている。
「笑ったら、今朝のパンを全部焦げた豆粥に沈めます」
「笑ってないわ。感動してるだけ」
「どこに感動するところが」
「恋が資料保存基準に巻き込まれたところ」
「巻き込まれていません。今すぐ救出します」
カリネは仮台紙へ手を伸ばした。
その時、廊下からウェンノの悲鳴がした。
「提出印の押し場所が三つあります! 三つもあります! 昨日の私なら明日にしていました!」
「今日のあなたは押して!」
ノイスの声が続き、さらにアンドリュースが工具箱を落とす音が重なった。誰かが瓶を守れと叫び、マリアが「瓶には礼を言ってから運べ!」と返す。
カリネは一瞬だけそちらを見た。
その一瞬が、致命的だった。
「この仮台紙は、第三展示室へ運べばいいのだな」
ヴィルモスの声が近くでした。
振り向くと、彼は白い手袋のまま、まさにその仮台紙を持ち上げていた。
「待ってください!」
「何か不備があるのか」
「不備というか、余白というか、未来の声というか」
「それは第八列では」
「第八列ではなく、私の、いえ、私的な、つまり展示に向かない紙が」
説明すればするほど、言葉が絡まる。マリヤムが横で小さく「恋文です」と口だけで言った。カリネはにらんだ。マリヤムは親指を立てた。
ヴィルモスは仮台紙の端を確認した。職業柄、紙の重なりに敏い。古い保存紙と新しい便箋の厚みの違いに、彼の指が止まった。
「一枚、多い」
「多くありません」
「厚みが違う」
「恋文の厚みです。あっ」
言ってから、カリネは両手で口を押さえた。
第三展示室が、急に海の外より遠くなった気がした。
ヴィルモスは、ゆっくり仮台紙を開いた。中から、カリネの折り畳んだ便箋が顔を出す。宛名が見えた。ヴィルモスさんへ。見えた。完全に見えた。
彼の耳が、炉の赤より早く色を変えた。
「これは」
「違います」
「宛名が私だが」
「同姓同名の別のヴィルモスさんです」
「この街にヴィルモスは私だけだ」
「では、未来の来館者です」
「未来の私は、今の私と同一人物では」
「今日だけ別人でお願いします」
マリヤムがとうとう噴き出した。カリネは泣きそうになった。
ヴィルモスは便箋を閉じようとして、けれど閉じる前に、冒頭の一文へ目を落としてしまった。
たった一文。
カリネが何度も書き直し、結局それ以上進められなかった言葉。
――朝ごはんを一緒に食べませんか。
展示室の空気が止まった。
鍋の湯気も、遠くの工具の音も、ウェンノの提出印の叫びも、全部が一枚のガラスの向こうへ行ったみたいに薄くなる。
ヴィルモスは便箋を見ていた。カリネはヴィルモスを見ていた。マリヤムは両手で口を押さえ、今だけは本当に笑わなかった。
「読んだ、のですね」
カリネの声は、粥の底をこすった匙みたいに小さかった。
ヴィルモスはすぐに便箋を閉じた。いつもの彼なら、展示品を扱う時と同じ正確な謝罪をしたはずだ。けれど、今の彼は言葉を選ぶ前に、視線の置き場を失っていた。
「……冒頭だけだ」
「冒頭が全部です」
「全部なのか」
「全部にしないでください」
「では、続きがあるのか」
「ありません。あります。ありませんでした。書けませんでした」
カリネはもう、どれが本当か分からなくなった。
ヴィルモスの手袋の指が、便箋の端を押さえる。展示品を守る時の手つきではない。壊れやすいものを、どう扱えば相手が傷つかないか迷っている手つきだった。
「返す」
彼はそう言って、便箋を差し出した。
カリネは受け取ろうとした。指先が紙に触れる。その瞬間、遠くで鐘が鳴った。
一度ではない。二度、三度。
議会棟の朝鐘だった。票決前の説明時間が近い合図。
同時に、炉心展示室の方からアンドリュースの声が響いた。
「火がまた下がった! 朝の説明、早めた方がいい!」
カリネの手から、便箋が半分だけ離れた。
ヴィルモスはまだ紙を持っている。二人で一枚の手紙を挟んだまま、動けなくなった。
マリヤムが、そっと咳払いした。
「恋文はあと。朝ごはんもあと。まず、続くための説明」
その言葉で、カリネは息を吸った。
そうだ。今は、自分の恥ずかしさより先に、寒い区画の朝がある。閉館票がある。火の細さがある。欠けたパズルがある。
ヴィルモスも同じことを思ったのだろう。便箋を丁寧に折り直し、展示用の封筒ではなく、自分の記録板の内側へ挟んだ。
「なぜ持っていくんですか」
「紛失防止だ」
「私の紛失です」
「今返すと、君は鍋に沈める可能性がある」
「否定できません」
ヴィルモスはほんの少しだけ口元を動かした。笑ったのかもしれない。けれど、すぐに解説員の顔へ戻る。
「カリネ」
名前で呼ばれ、カリネの背筋が伸びた。
「説明が終わったら、返す。その時に、冒頭についても話す」
「話さなくていいです」
「いや、話す」
「では、展示分類に困らない程度でお願いします」
「難しい注文だ」
鐘がまた鳴った。
第三展示室の向こうで、人の足音が増えていく。怒っている声、不安な声、眠そうな子どもの声。廊下には、マリヤムのパンの匂いと、炉の赤が弱まる金属の匂いが混じっていた。
カリネは頬の熱を両手で一度押さえ、鍋の蓋を開けた。
「行きましょう。終わるためではなく、続くために」
ヴィルモスは頷いた。
その記録板の内側に、カリネの言えなかった恋文が挟まれている。恥ずかしくて、逃げ出したくて、でも少しだけ、心臓の近くが温かかった。
海の底の朝が、議会の鐘で始まる。
そして今日は、言えなかった一文まで、展示室の空気を変えようとしていた。




