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朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


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第20話 街の声を集める

 朝の屋台に並べた紙片は、最初、鍋敷きよりも頼りなかった。

 カリネは夜明け匙の台の端に、小さな木箱を置いた。箱の中には、薄い貝紙が百枚ほど入っている。海底都市メルティカでよく使われる、光にかざすと貝殻の筋が見える紙だった。湿気に強く、けれど水滴を落とすとすぐ丸まる。だから、湯気のそばには置けない。

 屋台の火は、いつもより弱くしてある。炉心母炉の音がまだ不規則だからだ。鍋底を焦がさないよう、カリネは匙をゆっくり回した。豆と貝柱の粥が白くとろみ、焼きパンの籠からは、マリヤムが早朝に持ってきた長いパンの香りがした。

 「で、その紙に何を書けばいいんだ」

 一番乗りの老人が、粥の器を両手で包みながら言った。朝食解説に来てくれている三人のうち、いつも一番声が大きい老人だ。声が大きいわりに、熱いものを飲むときだけ眉間を寄せて慎重になる。

 「博物館で覚えていることを、ひとつだけお願いします」

 「ひとつか」

 「はい。長くても短くても大丈夫です。名前を書きたくなければ、書かなくていいです」

 「わしの記憶は長いぞ」

 「では、パンの長さくらいまででお願いします」

 老人は籠の中の一番長いパンを見て、真剣にうなった。

 「それは難題だな」

 隣にいたマリヤムが、粉のついた手を腰に当てた。

 「パンを基準にするなら、私のパンは伸ばせますよ」

 「やめて。議会の会議より長いパンになったら、箱に入りません」

 「それはそれで売れそう」

 「売らないで」

 笑いが小さく広がった。けれど、屋台の前に立つ人たちの顔には、まだ暗い色が残っている。閉館の噂はもう、朝市の魚売りにも、夜勤明けの水門係にも届いていた。博物館へ行かない人ほど、噂だけを食べている。古い炉が危ない。展示品が欠けた。修繕は止まった。閉めたほうが安全だ。どの言葉も、冷えた粥の膜のように、人の舌に貼りついていた。

 カリネは木箱の横に、一本だけ鉛筆を置いた。

 すると、二人目の老人が眼鏡をずらして紙を取った。

 「わしは、迷子になった」

 「博物館でですか」

 「七歳のときだ。母に叱られるのが嫌で、初期潜航服の裏に隠れた。そしたら解説員に見つかった。叱られると思ったら、その人が言ったんだ。『ここは、迷った人が昔に会う場所です』とな」

 老人は、粥をひと口飲んでから、鉛筆を握った。字は少し震えたが、紙いっぱいにはならなかった。

 ――七歳で迷子。初期潜航服の裏。昔に会う場所と言われた。

 カリネはその紙を受け取り、木箱へ入れる前に、端へ小さく丸印をつけた。

 「丸は何だ」

 「展示室に関係する記憶です。あとで場所ごとに分けます」

 「ふむ。まるで朝食の具を分けるみたいだな」

 「似ています。熱いうちに混ぜるものと、最後にのせるものがありますから」

 老人は満足したように頷き、今度はパンを粥に浸した。

 そのやりとりを、博物館の入口でヴィルモスが見ていた。開館前の制服に袖を通し、手には書き直した解説原稿を持っている。昨日の夜、白紙に書いた最初の一行は、折り目がつくほど読み返されたらしい。紙の角が少し柔らかくなっていた。

 カリネと目が合うと、ヴィルモスは原稿を胸の前で持ち直した。

 声をかける代わりに、カリネは器をひとつ差し出した。塩を控えめにした、疲れた人用の粥だ。

 「朝ごはんです」

 「今日は、朝だな」

 「はい。規定違反ではありません」

 「夜食の件は、まだ規定にない」

 「追加しないでください」

 ヴィルモスは器を受け取り、屋台の端に立った。座らない。けれど、立ち去りもしない。その距離が、カリネには昨日より少し近く見えた。

 「集めた声を、どうするつもりだ」

 「まず、朝食解説の中で読めるものを選びます。展示に関係するもの、炉に関係するもの、無人の寺に関係するもの。それから、議会へ出せる形にまとめます」

 「議会へ」

 「博物館を残したい、だけでは足りないと言われました。だから、ここが何を残してきたかを見せます」

 ヴィルモスは粥の湯気越しに、木箱を見た。

 「記憶は、証拠になるだろうか」

 「ひとつだけなら、たぶん弱いです」

 カリネは、屋台の前で紙を選ぶ人たちを見た。三人目の老人は、妻と初めて手をつないだ場所を、やたら細かく書こうとして、一枚では足りずに二枚目へ移っている。眠そうな子どもは、鉛筆を握ったまま半分寝ていて、母親が代わりに『炉の前で卵菓子を落として泣いた』と書いていた。

 「でも、たくさん集まれば、街の呼吸みたいになります」

 「呼吸」

 「はい。誰か一人の大声ではなくて、いろんな人の息です」

 ヴィルモスの指が、器の縁で止まった。

 あの人の息。息をしまう瓶ではない。ひとりの息ではない。昨日の夜、書き直した言葉が、彼の中で何かと重なったのだろう。けれど彼はすぐには言わなかった。粥をひと口食べ、眉を少しだけ下げた。

 「薄い」

 「疲れた人用です」

 「朝も同じ分類なのか」

 「朝は少しだけ元気を足してあります」

 「どこに」

 「豆の数です」

 ヴィルモスは器の中を見た。真顔で豆を数え始めたので、カリネは慌てて匙を向けた。

 「数えなくていいです」

 「君が言った」

 「言いましたけど、今のはそういう意味では」

 「記録の正確性は大事だ」

 そこへマリヤムが、長いパンを一本、ヴィルモスの器の上へ橋のように渡した。

 「はい、元気追加」

 「これは食べにくい」

 「橋です。気持ちの橋」

 「粥に架ける必要はあるのか」

 「ある。ね、カリネ」

 カリネは笑いをこらえきれず、鍋のふちを布で拭いた。ヴィルモスは困った顔をしながらも、橋の真ん中を折って食べた。

 その朝、紙片は思ったより早く減った。

 最初は博物館へ来たことがある人だけが書いていた。けれど、朝市の魚売りが「うちの祖父が炉の火で魚を乾かして怒られた話でもいいか」と言い、織物屋の娘が「博物館の前でふられた話は展示に向かないですよね」と頬を赤くし、夜勤明けの水門係が「無人の寺なら、古い水路図で見たことがある」と書き込んだ。

 カリネは、話を遮らなかった。

 ただ、紙の端に小さな印を増やしていった。展示室、炉、寺、恋、事故、朝食。丸、三角、線、点。誰にも見せるためではない。あとで、声を迷子にしないための印だった。

 ノイスは、屋台の横に腰を下ろした子どもの袖口を直していた。子どもは紙に何を書けばいいか分からず、鉛筆の先を噛もうとして母親に止められている。

 「絵でもいいのよ」

 ノイスが言うと、子どもはぱっと顔を上げた。

 「絵でいいの」

 「覚えている形が、言葉より先に出る日もあるから」

 子どもは、丸い炉と、横に小さな人を描いた。人の頭の上には、湯気のような線が三本ある。

 「これは?」

 カリネが膝を折って聞くと、子どもは眠そうな目で答えた。

 「おばあちゃん。あったかいって言ってた」

 母親が、唇を押さえた。何も言わない。ノイスはその袖口を、そっと直した。

 カリネは絵の端に丸印と、点を三つつけた。炉。家族。朝。

 昼前には、木箱がいっぱいになった。

 マリヤムは追加の箱を持ってきた。ヴァシリーサは小劇場の客席で使う投票箱を運んできた。箱の側面には、派手な金文字で『本日の名台詞』と書かれている。

 「目立ちすぎませんか」

 「声を入れる箱が地味でどうするの」

 ヴァシリーサは胸を張り、屋台の横に箱を置いた。

 「さあ、街のみなさん。悲しい話、恥ずかしい話、言いそびれたありがとう、炉の前で転んだ話まで、なんでもどうぞ。博物館の壁に染みついたあなたの声を、朝ごはんの湯気に混ぜてお預かりいたします」

 「劇場になってる」

 カリネが小声で言うと、ヴィルモスも小さく頷いた。

 「しかし、人は集まる」

 その通りだった。ヴァシリーサの声に釣られて、朝市の人波が屋台の前で止まる。紙を取る人、話だけしていく人、書いたあと急に恥ずかしくなって箱の前で固まる人。ノイスはそういう人の隣に座り、マリヤムは焼きパンを半分に割って手渡した。

 その賑わいの向こうから、硬い靴音が近づいた。

 シグルギスリだった。

 議会書記官の服は、朝市の湿った空気の中でも折り目を崩さない。手には書類板を持ち、眉間には、いつもより深いしわがある。

 「無許可掲示、無許可収集、無許可演説に該当する可能性がある」

 ヴァシリーサがすぐに両手を広げた。

 「演説ではありません。朝ごはん前口上です」

 「前口上は分類上、演説の近縁にある」

 「分類細かいですね」

 マリヤムがパンを差し出した。

 「食べます?」

 「食べるかどうかは本件と無関係だ」

 「じゃあ食べながら関係を探してください」

 シグルギスリはパンを見た。拒むかと思ったが、受け取った。受け取ったものの、口へ運ぶ前にまた書類板を見る。

 「カリネ。これは何のためだ」

 カリネは、木箱の前へ立った。怒られる時のように背を縮めそうになり、途中でやめた。昨日の夜、ヴィルモスが白紙の前に座った姿を思い出した。怖くても、最初の一行を書くことはできる。

 「博物館が、街に何を残してきたかを集めています」

 「情緒的資料は、財政資料の代替にならない」

 「はい」

 シグルギスリの眉が動いた。反論を予想していたのだろう。

 「安全性の問題も残っている」

 「はい」

 「炉の不調も解決していない」

 「はい」

 「では、なぜ集める」

 カリネは、箱の中の紙片を一枚取った。子どもの絵ではなく、七歳で迷子になった老人の紙でもなく、何も書かれていない紙を一枚。

 「閉じるか残すかを決める時、ここに何があったのかを知らないまま決めたくないからです」

 朝市の音が少し下がった。

 「財政も、安全も、必要です。けれど、必要なものだけで街を数えたら、朝ごはんも、初めて手をつないだ場所も、迷子を見つけてくれた言葉も、どこにも入りません。入らないまま削ったら、あとで何が欠けたのか分からなくなります」

 シグルギスリはパンを持ったまま、黙った。

 カリネは白紙を箱に戻した。

 「だから、先に聞きます。聞いて、分けて、読める形にします。そのうえで、議会に出します」

 「形式は」

 「まだ、決まっていません」

 「未完成か」

 「はい。でも、今日の夕方までに一度整理します」

 シグルギスリは、長い息を吐いた。説教が始まるかと思い、周りの人たちが身構える。けれど彼は、手にしたパンをひと口食べた。

 「長い」

 マリヤムがにやりとした。

 「よく噛めるでしょう」

 「パンの感想ではない。道のりが長いと言った」

 「じゃあ、もうひと口どうぞ」

 「なぜだ」

 「長い道にはパンです」

 シグルギスリは何か言いかけたが、結局もうひと口食べた。そして書類板の端に、短く何かを書いた。

 「無許可掲示については、現時点では警告に留める。箱は通行の邪魔にならない位置へ移動。収集目的を明記。個人名を公開しない確認をつけろ」

 「ありがとうございます」

 「礼を言われる筋合いはない。手続きを遅らせないための注意だ」

 彼はそう言って背を向けかけたが、二歩で止まった。

 「紙を一枚」

 カリネは貝紙を差し出した。

 シグルギスリは受け取り、何も書かずに懐へ入れた。

 「あとで提出する。議会書記官としてではなく、昔の来館者としてだ」

 今度こそ彼は歩いていった。

 朝市のざわめきが戻る。ヴァシリーサが大げさに拍手しようとしたので、ノイスがその手首にそっと布をかけて止めた。カリネは笑いながら、箱の位置を少し横へずらした。

 ヴィルモスが隣に立った。

 「君は、議会でもあの調子で話すのか」

 「震えると思います」

 「今も震えていた」

 「見えてましたか」

 「匙が鳴っていた」

 カリネは手元を見た。確かに、持っていた匙が器の縁に触れて、小さく音を立てていた。

 「でも、最後まで言えた」

 ヴィルモスが言った。

 カリネは、木箱に目を落とした。紙片はもう、鍋敷きより頼りないものではなかった。人の手で温まり、文字や絵や言いそびれた声を含んで、箱の底で重なっている。

 炉心母炉の音が遠くで揺れる。

 まだ正しくはない。まだ、欠けている。けれど、カリネにはその揺れが、今朝集まった紙片のざわめきに似て聞こえた。

 聞くことは、ただ立ち止まることではない。

 聞いた声を迷わせないように、印をつけ、箱へ入れ、必要な場所へ運ぶことだ。

 カリネは新しい紙束を木箱へ補充した。

 「次の方、どうぞ。博物館で覚えていることを、ひとつだけ聞かせてください」

 朝市の人波から、またひとり、前へ出た。



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