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朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


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第19話 聞くことしかできない夜

 博物館の夜は、客の足音が消えると、金属の眠りに似た音だけになる。

 炉心母炉の奥で火が低く鳴り、展示室のガラス棚が小さく震える。昼間に子どもが笑った場所も、議会書記官が長い資料を広げた場所も、今は青い非常灯に沈んでいた。カリネは屋台から持ってきた銅鍋を、展示準備室の流しに置いた。

 鍋底には、朝から使い続けた粥の焦げが薄く残っている。

 水を張ると、焦げはすぐには浮かなかった。匙でこすれば金属が鳴り、その音が廊下に伸びる。カリネは音を小さくするため、布を丸めて鍋の下に敷いた。

 収蔵庫の扉は、半分だけ開いている。

 その向こうに、ヴィルモスがいた。

 彼は二十年前の事故記録を机に置いたまま、椅子に座っている。いつもの白い手袋は外され、机の端に揃えられていた。手袋をしていない指先は、思ったより細く、紙の角に触れたまま動かない。

 カリネは声をかけようとして、口を閉じた。

 慰めの言葉を探すほど、どれも湯気の消えたスープみたいに薄くなった。大丈夫です、と言えば嘘になる。あなたのせいではありません、と言えば、彼が今抱えている痛みの場所を勝手に決めてしまう。お父さんは悪くなかった、とも言えない。記録の中には、負傷者の名前も、止まった炉の時刻も、避難した子どもの人数も残っていた。

 だからカリネは、鍋を磨いた。

 くるくると円を描くように、焦げを少しずつ落とす。布が茶色くなったら水で洗い、また同じ場所へ戻す。急げば傷がつく。止めれば焦げが残る。台所で覚えたやり方は、古い記録にも似ている気がした。

 やがて、収蔵庫から椅子のきしむ音がした。

 「……帰らないのか」

 ヴィルモスの声は、展示室で聞く声より低かった。

 「鍋が汚れています」

 「それは、明日でもいいだろう」

 「明日も使うので、今のうちに落とします」

 返事のあと、紙をめくる音はしなかった。カリネは鍋の縁を洗い、乾いた布で拭いた。銅色が少し戻る。完璧ではない。けれど、朝に粥を煮るには十分だ。

 「君は、何か言いに来たのではないのか」

 カリネは水を止めた。

 蛇口から落ちた最後の一滴が、流しの底で小さく跳ねる。

 「言おうと思ったことは、たくさんありました」

 「では」

 「でも、言う前に、違う気がしました」

 収蔵庫の扉の向こうで、ヴィルモスが息を吐いた。笑ったのか、あきれたのか、泣くのを押し戻したのか、遠くて分からない。

 「君は時々、返答に困ることを言う」

 「すみません」

 「謝られると、もっと困る」

 カリネは小さく頷いた。相手に見えていないと分かっていても、頷いた。

 展示準備室の棚には、明日の朝食解説で使う貝殻皿が並んでいる。三枚は欠けていた。けれど、欠けた縁を奥へ向ければ、手を切らずに使える。ノイスが言っていた。布も、器も、欠けたところを見つけたら、隠すだけではだめだ。そこに触れる人の手を考えるのだ、と。

 「父は、展示を変えようとした」

 収蔵庫から声がした。

 カリネは鍋を拭く手を止めなかった。

 「はい」

 「悲恋の展示を、共同作業の記録に変えようとしていたらしい。あの人の息を、ひとりの息ではなく、街の息として説明し直そうとしていた。事故記録の添付紙に、そう書いてあった」

 「……はい」

 「私は、父が余計な改修をして事故を起こしたのだと思っていた。いや、そう思うことにしていた。展示を変えなければ、誰も傷つかない。説明を変えなければ、過去も荒れない。棚の位置を変えなければ、また誰かが責任を取らずに済む」

 カリネは布を絞った。水が白い指を伝って落ちる。

 「でも、それは守っていたのではないな」

 ヴィルモスは続けた。

 「触れない場所を増やしていただけだ。父の失敗にも、父が変えようとした理由にも、負傷した人たちにも。私は展示の前で毎日話していたのに、一番大事な紙の前だけ、通り過ぎていた」

 カリネは答えを急がなかった。

 鍋を棚に戻し、今度は匙を一本ずつ布で拭く。匙の丸い面に、非常灯の青が映った。そこにカリネの顔も映ったが、輪郭がゆがんでいて、目元までは分からない。

 「私は、聞くことしかできません」

 そう言うと、収蔵庫の椅子が少し動いた。

 「聞くことしか、か」

 「はい。父上のことも、事故に遭った人のことも、ヴィルモスさんが怖いと思ったことも、私が代わりに直せるわけではありません」

 「十分、率直だな」

 「すみません」

 「謝るな」

 「……はい」

 また沈黙が来た。

 けれど今度の沈黙は、扉を閉めるものではなかった。鍋の湯気が消えたあとに、まだ温度だけが残っているような時間だった。

 カリネは、小鍋に水を少し入れ直した。残っていたスープを温める。火を弱くし、焦げないように匙を回す。朝の屋台と違って、展示準備室の小さな火は頼りない。それでも、冷えたものを温め直すには足りた。

 「カリネ」

 名前を呼ばれた。

 博物館の解説員さん、ではなく、ヴィルモスの声で、自分の名前が呼ばれた。カリネは匙を落としそうになり、両手で柄を握り直した。

 「はい」

 「私は、明日の朝食解説で、あの人の息の説明を変えられないかもしれない」

 「はい」

 「まだ、怖い」

 「はい」

 「それでも、変えないままでいいとは、もう言えない」

 小鍋の中で、スープがふつりと鳴った。

 カリネは器を二つ出した。片方には具を多めに入れ、もう片方には塩を控えめにした。ヴィルモスが疲れた夜は、濃い味を残しがちだと、何度か見て知っていた。

 収蔵庫へ入ると、机の上には事故記録が開かれていた。二十年前の日付、負傷者の人数、炉の停止時間、そして、ヴィルモスの父の署名。署名の横には、小さな文字で追記がある。

 ――次代の解説員へ。悲恋だけで終わらせるな。

 カリネはその一文を声に出さなかった。

 ヴィルモスも読んでいる。何度も、何度も読んだあとが、紙の端についた指の跡で分かった。

 彼の前に、温め直したスープを置く。

 「朝ごはんではありませんけど」

 「夜食だな」

 「はい。夜食です」

 「朝ごはん屋台の店主見習いが、夜食を出すのは規定違反では」

 「博物館の規定には、まだ夜食禁止とは書いてありません」

 ヴィルモスは、ほんの少しだけ口元を動かした。笑ったと呼ぶには小さすぎる。けれど、匙は持った。

 ひと口飲んで、彼は目を閉じた。

 「薄い」

 「疲れた人用です」

 「そういう分類があるのか」

 「あります。泣きそうな人用は、もう少し熱いです」

 「泣いていない」

 「はい」

 カリネは頷いた。泣いていない人の前に、布巾は置かない。ただ、机の端に置いたスープ皿の下へ、熱が逃げないよう皿敷きを差し込んだ。

 炉心母炉の音が、遠くでまた揺れた。

 規則正しい呼吸ではない。かすかに詰まり、また戻る。ヴィルモスが顔を上げる。カリネも耳を澄ませた。

 その音は、昨日聞いた老人の鼻歌にも、穴文字の間隔にも、寺の鐘の内側に刻まれた「息を合わせよ」という言葉にも近かった。

 ヴィルモスは事故記録を閉じずに、別の白紙を引き寄せた。

 「明日の解説原稿を、書き直す」

 「今からですか」

 「今からだ。全部は無理でも、最初の一行だけは変える」

 カリネは、匙を握ったまま頷いた。

 「聞きます」

 「意見は」

 「聞いてから、言います」

 ヴィルモスは白紙を見つめた。ペン先が迷い、紙の上で止まる。けれど今度は、棚の奥へ戻らなかった。

 長い夜の中で、最初の一行が書かれる。

 ――これは、ひとりの息を閉じ込めた瓶ではありません。

 カリネはその文字を見ながら、磨いたばかりの鍋のことを思った。焦げはまだ少し残っている。明日の朝、また使えば、新しい焦げもつくだろう。それでも洗い、温め直し、誰かの前に出す。

 聞くことしかできない夜が、いつの間にか、次の朝を用意していた。



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