第18話 ヴィルモスの父
収蔵庫の鍵は、朝の鍋よりも重そうな音を立てた。
炉心博物館の奥、一般の客が入らない細い廊下の先に、古い記録を置く部屋がある。扉を開けると、乾いた紙と錆びた留め具の匂いが、冷たい空気と一緒に流れ出した。展示室のように磨かれた光はない。壁際の灯は眠そうに瞬き、棚の上では、誰かに読まれる順番を待ちくたびれた箱が、灰色の肩を並べていた。
カリネは両手で小さな包みを抱えていた。マリヤムから持たされた焼きパンと、冷めにくい豆のスープだ。収蔵庫に食べ物を持ち込んではいけないので、扉の外に置くことになっている。けれど空腹のまま古い事故の記録を読むのは、どう考えても心が負ける気がした。
「ここで待ってます。食べ物は中に入れません。私も、こぼしません」
「君は過去に、鍋を持ったまま三段の階段を滑り、スープを一滴もこぼさなかった人だ」
ヴィルモスは棚札を見上げたまま言った。
「信用されてるんですか、それとも変な記録として残ってるんですか」
「両方だ」
「そこは片方でいいです」
カリネは少し笑った。笑い声は収蔵庫の壁に吸われ、すぐに薄くなった。今日のヴィルモスは、いつもの台本を持っていない。手には白い手袋だけ。背中はまっすぐなのに、足先が棚の前で何度も止まる。
その棚には、赤い札がついていた。
旧炉心母炉改修関連記録。閲覧注意。
ヴィルモスは札の文字を見つめていた。まるで、その赤い札が棚ではなく胸に貼られているかのように。
「無理なら、今日はやめても」
カリネが言いかけると、彼は首を横に振った。
「昨日、探すと言った」
たったそれだけの返事だった。けれど彼は、自分の言葉に引っぱられるように棚へ手を伸ばした。
箱は重かった。アンドリュースが慌てて駆け寄り、下から支える。
「解説員さん、腰をやります。古い記録より新しい腰のほうが大事です」
「腰の展示予定はない」
「展示しなくていいです。修理も担当外です」
アンドリュースが真顔で言い返し、カリネは扉の外で吹き出しそうになった。ヴィルモスも、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
箱の中には、束ねられた紙と、割れた金属札、焼け焦げた布片が入っていた。表紙には二十年前の日付がある。炉心母炉の展示改修中、共鳴安全装置が誤作動し、作業員数名が負傷。見学通路の一部閉鎖。改修計画の凍結。
カリネは文字を追い、喉の奥が乾くのを感じた。事故という言葉は、説明会で聞くと遠い。けれど焦げた布片を前にすると、そこに立っていた誰かの袖や手の熱が急に近くなる。
ヴィルモスは一枚の報告書を取り出した。指が紙の端で止まる。
責任者欄に、彼と同じ姓が書かれていた。
「……父だ」
声は、収蔵庫の床に落ちるほど低かった。
アンドリュースは口を開きかけて、閉じた。カリネも何も言わなかった。言葉を急がせたら、薄い紙まで破れてしまいそうだった。
報告書の続きには、当時の改修内容が書かれていた。展示室の順路を変え、来館者に炉の響きを体感させるため、古い共鳴管を短時間だけ開く。寺へ続く旧通路の管も検査対象に含まれる。だが、最後の確認欄に黒い線が引かれ、いくつかの文字が読めなくなっていた。
「なぜ消されているんですか」
アンドリュースが眉を寄せる。
「事故後の整理で、公開しない部分にされたのだろう。父は、説明不足だったと責められた。安全確認が甘かったとも」
ヴィルモスは淡々と言った。淡々としすぎていて、カリネは胸が痛くなった。
「でも、ここに寺の通路ってあります。今までの展示説明には、無人の寺と炉がつながる話はありませんでした」
「ない」
「消したのは、お父さんなんですか」
尋ねてから、カリネは息を止めた。踏み込みすぎたかもしれない。けれどヴィルモスは紙から目をそらさなかった。
「分からない。父が消したのか、父を責めた誰かが消したのか。あるいは、事故の後で皆が触れないことに決めたのか」
彼は次の紙をめくった。そこには、子どもの字のように曲がった鉛筆の線で、丸いパズル盤の写しが描かれていた。欠けた一片の位置に、小さく「寺下」とある。
カリネの胸で、昨日の通路の暗がりがよみがえった。
「これ、展示室の円形盤です」
「原図だ。展示品は、この原図を元に作られた。だが欠けた一片の意味は、展示説明から抜けている」
「抜けたんじゃなくて、抜いたんでしょうか」
ヴィルモスは答えなかった。代わりに、箱の底に手を伸ばした。そこには封筒が一通入っていた。封は切られている。宛名は博物館長。差出人は、ヴィルモスの父。
彼の指が止まった。
「読まなくてもいいです」
カリネは反射的に言った。
「読まなければ、ここまで来た意味がない」
そう返す声は固い。けれど封筒を持つ手は、古い灯の下で小さく震えていた。
手紙には、事故の責任を認める言葉が並んでいた。負傷者への謝罪。改修凍結の受け入れ。博物館を混乱させたことへの悔い。そして最後に、震える筆跡でこう書かれていた。
寺下の共鳴管は、閉じたままにしてはいけない。だが、今の私の言葉では誰も聞かないだろう。いつか、炉の音を聞ける者が現れたら、欠けた説明を戻してほしい。
カリネは、扉の外に置いたスープの匂いを思い出した。冷めないように布で包んだ、朝の匂い。彼女が毎朝聞いてきた炉の音。とん、たた、とん。老人の鼻歌。穴文字。鐘の内側の文字。
炉の音を聞ける者。
ヴィルモスは手紙を見たまま、動かなかった。
「父は、逃げたのではなかったのかもしれない」
小さな声だった。
「でも、私は逃げた。父の棚を見れば、父が間違えたのか、間違えたことにされたのか、知ることになってしまう。知ったら、展示を変えなければならない。変えれば、また誰かを傷つけるかもしれない」
カリネは扉の枠に手を置いた。今すぐ中へ入って、背中を叩きたいわけではない。励ましの言葉を並べたいわけでもない。ただ、彼の声が落ちる場所に、何か温かいものを置いておきたかった。
「スープ、外にあります」
ヴィルモスが、ゆっくり顔を上げた。
「今、その話か」
「今です。冷めると、豆が底に沈みます。沈んだ豆をすくうには、匙を奥まで入れないといけません」
アンドリュースが変な顔をした。
「それ、比喩ですか。朝ごはんの注意ですか」
「両方です」
カリネが答えると、ヴィルモスの口元がわずかに揺れた。笑いにはならなかった。けれど、紙を握りつぶすほど固かった手から、少し力が抜けた。
彼は手紙を丁寧に戻さず、机の上に置いた。もう箱の底へ隠さないというように。
「この記録は、整理し直す。だが、今日これ以上は話せない」
「はい」
カリネはすぐに頷いた。
「聞かないのか」
「聞きます。解説員さんが話せるところまで。話せないところは、スープを温め直して待ちます」
ヴィルモスは目を伏せた。白い手袋の指先が、父の手紙の端にそっと触れる。
「君は、聞かないことまで記録するつもりか」
「聞こえたものだけです。でも、黙った時間があったことは覚えています」
収蔵庫の奥で、古い灯が短く鳴った。アンドリュースが箱の中の金属札を見つけ、小さく声を上げる。
「これ、共鳴管の鍵番号です。寺側の管に対応しているかもしれません」
ヴィルモスは振り向いた。顔色はまだ悪い。けれど目は、棚から逃げていなかった。
「写しを取る。原本は戻さない。公開前に、館長へ確認する」
「公開、するんですね」
カリネが言うと、彼は少しだけ苦い顔をした。
「まだ、怖い」
正直な言葉だった。カリネは、それだけで十分だと思った。怖いと言いながら、彼は紙を閉じなかった。
扉の外で、布包みの中のスープが湯気を失いかけている。カリネは鍋を温め直すため、そっと廊下を戻った。背後では、紙をめくる音が続いていた。急がない音。けれど、止まらない音。
炉心博物館の収蔵庫で、二十年前に閉じられた箱が、ようやく朝の空気を吸い込んでいた。




