第21話 議論好きの弱点
議会庁舎の朝は、鍋ではなく紙の音で始まる。
カリネはそう思いながら、石灰色の廊下を歩いた。壁には歴代議長の肖像画が並び、どの顔も、朝ごはんを食べる前に難しい決定をしてしまいそうな目をしていた。手には、昨日の夕方までに整理した紙束を抱えている。博物館で迷子になった話、初めて舞台衣装を着た話、喧嘩のあと仲直りした話、祖母と一緒に炉の前で手を温めた話。どれも財政表には載らない。
だが、いまから向き合う相手は、財政表を読む声が誰より長い男だった。
「遅刻三分前だ」
会議室の扉の前で、シグルギスリが待っていた。
「三分前なら、遅刻ではありません」
「遅刻の可能性を含む状態だ」
彼はそう言いながら扉を開けた。中には議員たちが数人、机を挟んで座っている。ウェンノも末席にいた。自分の膝の上に書類鞄を抱え、鞄の留め具を開けたり閉めたりしている。
「閉めたままだと、中身は出ませんよ」
カリネが小声で言うと、ウェンノはびくっとして鞄を開けた。中から、紙束がひと山崩れた。
「出すぎた」
誰かが小さく笑い、硬かった部屋の空気が少しだけ揺れた。
シグルギスリは席に着くと、長い指で机を一度叩いた。
「本日の聞き取りは、炉心博物館の閉館判断に関わる補助資料の提出者、カリネに対して行う。なお、感傷的発言は記録上、価値判断資料としては扱いにくい」
「はい」
「ただし、扱いにくいからといって、存在しないものとして切り捨てるとは限らない」
カリネは少し顔を上げた。
シグルギスリは視線を逸らし、すぐに紙へ目を落とした。
「まず第一に、博物館の年間維持費について。第二に、来館者数の減少について。第三に、炉心母炉の安全責任について。第四に、展示品の管理不備について。第五に、朝食解説なる未承認の催しについて。第六に——」
そこから、議論好きの声が流れ始めた。
長かった。
朝粥を煮込みすぎると米粒が形をなくすが、彼の質問は煮込んでも形を失わない。むしろ次々と固くなっていく。カリネは途中で、質問を耳だけで受け止めるのをやめた。胸の内に、屋台の献立板を思い浮かべる。
まずは塩気の強いもの。財政。
次に冷めやすいもの。安全。
焦げつきやすいもの。責任。
温め直しが必要なもの。住民の記憶。
そう分けると、シグルギスリの長い声は、朝市の注文に似てきた。
「以上を踏まえ、あなたは何を提出するつもりか」
ようやく質問が止まった時、窓の外の海中灯はすっかり明るくなっていた。ウェンノは途中で三度、目を閉じかけ、そのたびに自分の鞄の角へ額をぶつけて起きていた。
カリネは紙束を机に置いた。
「四つに分けました」
シグルギスリの眉が動く。
「四つ」
「はい。一つ目は、博物館で実際に起きた思い出です。これは保存したい理由です。二つ目は、今のままだと危ない部分です。これは直すべき理由です。三つ目は、朝ごはんと解説を合わせた時に来た人の数です。これは続けられる形を探すためです。四つ目は、まだ分からないことです」
「まだ分からないことを資料に入れるのか」
「入れます。分からないことを隠すと、あとで欠けた場所が分からなくなるので」
部屋の奥にいた議員が、紙束へ手を伸ばした。
「読んでも?」
「どうぞ。ただ、名前は伏せています。書いた人が望んだものだけ、年代と場所を残しました」
シグルギスリが紙を一枚取った。目を通す間、唇がわずかに動く。彼は声に出して読まなかった。だが、読み終えた紙を、雑に置かなかった。机の端をそろえて、次の紙へ進む。
「あなたは、博物館を無料の食堂にしたいのか」
「いいえ」
「では、思い出の集会所にしたいのか」
「それだけでもありません」
「ならば何だ」
カリネは、昨日の木箱を思い出した。紙片の重み、匙の震え、ヴィルモスの「最後まで言えた」という声。答えはまだ完成していない。それでも、言わなければまた誰かが代わりに決めてしまう。
「朝、来る理由がある博物館にしたいです」
シグルギスリのペンが止まった。
「展示を見るだけだと、用事がある人しか来ません。でも、朝ごはんを食べに来た人が展示を聞いて、昔話を置いていって、職人の仕事を見て、子どもがパズルを触るなら、博物館は街の中で息をします。炉も、展示も、人の声も、別々に置かない場所にしたいです」
「美しい言い方だ」
彼の声は冷たくはなかった。ただ、簡単には頷かない重さがあった。
「だが、美しさでは修繕費は出ない。炉心母炉の安全責任を誰が負う。朝食提供で事故が起きた場合の規定はどうする。展示室で食事をすれば湿度管理も変わる。人が増えれば警備も必要だ。財政難は、本物だ」
カリネは頷いた。
「はい」
「はい、だけでは済まない」
「分かっています」
今度は、カリネの声も揺れなかった。
「残したいだけでは足りないことは、分かりました。だから、次は案を作ります。食べる場所、展示に入る時間、職人さんの実演、子ども用の場所、修繕の優先順。私ひとりではできません。けれど、朝ごはんを作れる人、炉を見られる人、布を直せる人、話を届けられる人、書類を……出せるようになりたい人がいます」
ウェンノが肩を跳ねさせた。
「私ですか」
「はい」
「まだ、なりたい段階です」
「知っています」
議員のひとりが吹き出した。ウェンノは赤くなりながら、鞄から修繕関係の書類を一枚出した。
「でも、一枚は出せます。今日、出します。いま出します」
「いま出せるなら昨日出せ」
シグルギスリが即座に言った。
「昨日の私は、今日の私ほど成長していませんでした」
「成長を免罪符にするな」
また小さな笑いが起きた。
カリネは息を吸った。議会の部屋は屋台より冷える。けれど、誰かが笑うと、少しだけ湯気に似たものが見える気がした。
シグルギスリは長い沈黙のあと、紙束を閉じた。
「整理は悪くない」
カリネは思わず目を瞬いた。
「悪くない、ですか」
「褒めてはいない。分類できていると言っただけだ」
「ありがとうございます」
「褒めてはいないと言った」
「でも、分類できているは、朝市ではかなり褒め言葉です」
シグルギスリは返答に詰まった。長い議論が好きな男が、短い言葉に足を取られている。カリネは失礼にならないよう口元を押さえた。
やがて彼は、議事録用紙の端に線を引いた。
「次回、具体案を提出しろ。感傷だけではなく、費用、導線、安全管理、許可の流れを入れること。博物館を救うと言うなら、救った後の朝まで考えろ」
その言葉は、突き放すためではなく、次の扉の場所を示すために置かれたように聞こえた。
カリネは深く頭を下げた。
「考えます。朝まで、だけじゃなくて、その次の朝も」
会議室を出ると、廊下の向こうにヴィルモスが立っていた。開館前の解説員の服のまま、手に小さな紙包みを持っている。
「終わったか」
「終わりました。いいえ、始まりました」
ヴィルモスは少しだけ目を細めた。
「どちらだ」
「たぶん、朝ごはん前の仕込みです」
紙包みの中には、少し冷めた焼きパンが入っていた。マリヤムの店のものだ。端には、ヴィルモスの字で短く書かれている。
食べ忘れるな。
カリネは笑いそうになって、胸の奥が熱くなるのを感じた。会議室の中で何度も強く頷いたせいか、首は少し痛い。けれど、紙束は軽くなっていなかった。むしろ、次に書くべき空白が増えて、重みを増している。
財政難は本物だ。
安全責任も本物だ。
それでも、博物館で誰かが受け取った朝の温度も、本物だった。
カリネは焼きパンをひと口かじった。冷めているのに、噛むほど甘い。
「次は、案を作ります」
ヴィルモスは頷いた。
「なら、展示室の規定を持ってくる。変えないためではなく、変える場所を間違えないために」
カリネは、もう一度パンをかじった。
長い議論のあとに残ったのは、負けた悔しさではなかった。鍋底に残る焦げのように、落とすべきものと、味になるものが混じった手応えだった。
博物館を残したい。
その言葉を、ようやく次の形へ移せる気がした。




