第14話 欠けた自信
閉館の噂は、海底都市メルティカの水路より速く広がった。
朝の薄青い光がドームの外を満たすころ、博物館前の石畳には、いつもなら湯気に誘われて足を止める人影がいくつもあった。けれどその朝、カリネの屋台「夜明け匙」の前に並んでいたのは、眠そうな配達員と、常連の老人と、パン籠を抱えたマリヤムだけだった。
銅の鍋は今日も正しく温まっている。焼き豆入りの粥も、貝殻皿にのせた薄焼きパンも、少し焦げた端まで香ばしい。だが、湯気は人の話し声を連れてこなかった。
「お客さん、少ないね」
マリヤムはそう言いながら、余ったパンを布で包み直した。軽い口調だったが、指先はいつもより急いでいた。
カリネは匙で鍋底を静かになでた。
「みんな、怖いんだと思う。博物館が閉まるって聞いたら、ここで食べてもいいのかなって」
「食べてもいいに決まってるよ。お腹は議会の許可を待たないんだから」
マリヤムは胸を張って言ったが、すぐに博物館の扉を見た。
扉の向こうでは、古資料書庫から見つかった事故図面の整理が続いているはずだった。ヴィルモスは朝早くから中に入り、まだ出てきていない。昨日までなら、カリネは湯気の立つ椀を一つ取り分けて、展示室の窓辺へ運んでいた。今日は手が動かなかった。
あの扉の奥にあるものが、彼にどれほど重いのかを知ってしまったからだ。
老人が粥を食べ終え、椀を両手で包んだまま、ぽつりと言った。
「ここも、なくなるのかね」
カリネは顔を上げた。
「まだ、決まっていません」
「そうか。決まっていないうちが、一番寂しいな」
老人は笑った。笑ったのに、目元のしわが沈んで見えた。
「決まれば、怒れる。決まらなければ、何に腹を立てていいか分からん」
カリネは返事を探した。けれど、匙を握る手の中に言葉はなかった。彼女は老人の椀へ、鍋に残っていた最後の粥を少し足した。
「熱いので、ゆっくり食べてください」
できたのは、それだけだった。
老人が帰ると、屋台の前に静けさが残った。遠くで炉心母炉の音が低く鳴っている。とん、たた、とん。昨日までは何かを知らせる合図のように聞こえた音が、今日は自分を急かす足音のように響いた。
カリネは片づけ用の布を取り、空いた皿を拭き始めた。皿の縁には小さな欠けがある。昔、屋台を始めたばかりのころ、慌てて落とした皿だ。捨てようとしたら、マリヤムが「貝殻だって最初からきれいな形じゃない」と言って、磨いて戻してくれた。
その皿は、今も朝ごはんをのせている。
けれど、自分はどうだろう。
皿なら布で拭けば使える。鍋なら磨けば光る。書類なら探せば出てくる。パズルなら、欠けた場所を見つければ戻せるかもしれない。
でも、自信はどこに落ちているのだろう。
「カリネ」
名前を呼ばれ、彼女は顔を上げた。
ノイスが糸箱を抱えて立っていた。薄い上着の袖から、色とりどりの飾り糸がのぞいている。彼女は屋台の前に座ると、注文もせずにカリネの袖口をじっと見た。
「ほつれてる」
「え?」
「右袖。鍋の取っ手に引っかけたでしょう」
ノイスは当然のように糸箱を開けた。カリネが何か言う前に、細い針へ糸を通し、彼女の袖口をそっと持ち上げる。
「今、直します」
「お客さんに縫い物をさせるわけには」
「これは朝ごはん代の前払いです。あとで粥をください」
ノイスは視線を落としたまま言った。針が布をくぐるたび、ほつれた糸が静かに整っていく。
カリネはしばらく、その手元を見ていた。ノイスは急がない。絡まった糸を無理に引かず、指先でほどき、足りない部分に別の糸を添える。袖口には、元の布とは少し違う色が混じっていった。
「同じ色じゃないんですね」
「同じ色だけで直すと、そこだけ弱いままです。違う糸を入れたほうが、次に引っかかったとき耐えます」
「目立ちませんか」
「目立ちます」
ノイスはきっぱり言った。
「でも、直したことが見えます。隠すより、私はそのほうが好きです」
カリネは胸の奥が少し痛むのを感じた。
「欠けたものも、そうできますか」
ノイスの針が一瞬だけ止まった。
「パズルの話?」
「それもです。博物館も、街の空気も、ヴィルモスさんの説明も、私の……」
そこで言葉がつかえた。
ノイスは急かさなかった。袖口の最後の結び目を作り、小さな鋏で糸を切る。それから、カリネの手首を軽く返し、縫い目を見せた。
「欠けた布は、欠けたまま着るとそこから裂けます。捨てれば布ではなくなります。けれど、別の布を足せば着られます」
「別の布」
「はい。足すものは、同じでなくていいんです」
ノイスは屋台の向こう、博物館の壁を見た。
「カリネは、解説員ではないでしょう」
「はい」
「技師でも、議員でも、盤面細工師でもない」
「……はい」
「だから足せる糸があるんじゃないですか」
カリネは袖口に触れた。違う色の糸が、小さな波の形を作っている。元の布だけでは塞げなかった場所を、別の糸が支えていた。
自分には、展示の説明を変える権限はない。炉心母炉の弁を直す腕もない。議会の長い議論を一言で止める力もない。
けれど、老人が「決まっていないうちが一番寂しい」と言ったことは覚えている。子どもが「あの人の息」を笛だと思ったことも、ウェンノが書類を怖がっていたことも、ヴィルモスが扉を開ける前に茶を飲みきれなかったことも。
聞いた言葉なら、ある。
拾った声なら、ある。
それは、欠けた場所へ足せる糸になるかもしれない。
カリネは屋台の下から、使い残しの包装紙を取り出した。焼きパンを包むための紙で、端に少し油染みがある。そこへ、老人の言葉を書いた。
『決まっていないうちが、一番寂しい』
次に、子どもの声を書いた。
『瓶じゃなくて、笛みたい』
さらに、マリヤムの言葉も書いた。
『お腹は議会の許可を待たない』
「それ、何に使うの?」
マリヤムがのぞき込む。
「分からない」
カリネは正直に答えた。
「でも、忘れたくないから」
ノイスが小さく頷き、糸箱から細い青糸を一本抜いた。
「紙を束ねるなら、これを使って。ほどきやすい結び方にします。きつく縛ると、後で増やせません」
「増やすんですか」
「増えるでしょう。カリネが聞くなら」
その言い方に、カリネは少しだけ笑った。
博物館の扉が開いたのは、その時だった。ヴィルモスが出てくる。手には古い図面を抱えていた。顔色はまだ白い。けれど、目は昨日より遠くを見ていなかった。
カリネは湯気の残った鍋を見る。二人分には足りない。けれど、椀の底を温めるくらいなら残っている。
「ヴィルモスさん」
彼は足を止めた。カリネが名前で呼ぶと、いつも少しだけまばたきが遅れる。
「粥、少しだけあります」
「少しだけ?」
「はい。今日、少ししか売れなかったので」
言ってから、胸が沈みかけた。だが、ノイスが直してくれた袖口の糸が手首に触れる。
カリネは続けた。
「少ししか売れなかった理由を、聞きました。みんな、決まっていないことが怖いんです。博物館が閉まるかもしれないなら、思い出を置きに来る場所なのか、離れる準備をする場所なのか、分からないんだと思います」
ヴィルモスは図面を抱える手に力を入れた。
「私は、何を説明すればいい」
「今は、全部じゃなくていいです」
カリネは青糸で束ねた紙片を持ち上げた。
「聞いたことを、まず残したいです。欠けたパズルに、同じ形の欠片が戻らないなら、今ある声を仮に置いてみたいんです」
ヴィルモスは紙片を見つめた。解説用の言葉を探している顔ではなかった。まるで、展示棚にないものを初めて展示品として見ようとしている顔だった。
「仮置きの記録か」
「はい。勝手に置いたら怒られますか」
「置く場所による」
「屋台の端なら?」
「屋台なら、君の管轄だ」
「博物館の入口なら?」
ヴィルモスは少し黙った。
「入口の外側なら、まだ博物館の規定に触れにくい」
マリヤムが横から手を叩いた。
「じゃあ入口の外側に、朝ごはんの声置き場を作ろう。パン籠の横なら目立つよ」
「名前が軽すぎませんか」
ヴィルモスが真面目に言う。
「では、仮設来館者記憶収集卓」
「重すぎます」
カリネとマリヤムの声が重なった。
ノイスが笑いながら、紙束の結び目を少し緩めた。
「ほどける名前にしましょう。後で変えられるように」
カリネは博物館の入口を見た。昨日まで、そこは閉まりかけた場所に見えていた。今は、ほんの少しだけ、糸を通せる穴が見える。
欠けた自信は、急に戻らない。けれど、欠けた皿が朝ごはんをのせられるように、ほつれた袖が別の糸で持ちこたえるように、自分も何かを足していけるかもしれない。
カリネは新しい紙片を一枚取り、最初の見出しを書いた。
『博物館で聞いたこと、まだ言えていないこと』
文字は少し震えた。でも、読める。
炉心母炉の音が、床下から低く返ってきた。
とん、たた、とん。
その拍子は、誰かが遠くで頷いたように聞こえた。




