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朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


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13/41

第13話 解説員さんの嘘

 朝の博物館は、まだ客の足音よりも古い配管の軋みのほうが大きかった。

 カリネは屋台の火を弱め、薄い陶杯に香草茶を注いだ。鍋の中では豆と根菜のスープが静かに回っている。昨日の作業室で聞いた炉の拍子が、眠りの中にも入り込んでいたせいで、いつもより早く目が覚めた。早く起きたのに、胸の奥だけが少し遅れている。

 とん、たた、とん。

 匙が鍋肌に当たるたび、あの拍子に似てしまう。

 「カリネ、匙で暗号を打つのやめて。パンが不安になる」

 マリヤムが焼き上がった細長いパンを布に包みながら、片眉を上げた。

 「パンは不安にならないよ」

 「なるわよ。少なくとも、今日のパンは『自分も欠けたパズルの一片なのでは』って顔をしている」

 「それは焼き色が少し足りないだけじゃない?」

 「うちの子に足りないところなんかありません」

 マリヤムはパンを抱きしめるようにして胸元へ寄せた。カリネは笑いかけて、すぐに視線を博物館の正面扉へ移した。まだ開館前だというのに、ヴィルモスが扉の内側に立っていた。いつものように窓を拭いているのではない。書庫へ続く廊下を見て、引き返し、また同じ場所へ戻る。その動きが、展示室の模型人形より硬かった。

 「解説員さん、朝ごはんの順路を間違えたのかな」

 マリヤムが小声で言う。

 カリネは返事をしなかった。昨日、アロイジアが恋文と円形盤を重ね、欠けた一片が無人の寺の方角を向くと示した。そのあと、ヴィルモスは古い目録を抱えて作業室を出た。彼は何かを調べると言ったが、どの棚を見るのかまでは言わなかった。

 彼が今、避けている廊下。その先には、一般客が入れない古資料書庫がある。

 カリネは陶杯を一つ取り、茶を注いだ。

 「持っていくの?」

 「うん」

 「質問しに?」

 「……お茶を」

 マリヤムは布包みの上からパンをぽんと叩いた。

 「じゃあ、これは口を塞ぐ用」

 「何の?」

 「カリネが変なこと言いそうになった時」

 「私、そんなに変なこと言わないよ」

 「『朝のご飯が朝です』」

 「忘れて」

 カリネは熱くなった頬を茶の湯気で隠し、博物館へ向かった。

 正面扉の隙間から入ると、炉心母炉の低い響きが床を通して伝わってきた。昨日よりも少し細い。博物館の展示物は薄明かりの中で、まだ眠っているように見える。初期潜航服の硝子にはカリネの影が映り、円形パズル盤の展示ケースには、欠けた部分だけが朝の青を深く溜めていた。

 ヴィルモスは書庫前の柱のそばにいた。手には鍵束がある。だが、鍵は扉に差し込まれていない。

 「おはようございます」

 カリネが声をかけると、彼の肩がほんの少し跳ねた。

 「おはよう。開館まで、まだ時間がある」

 「はい。だから、お茶です」

 彼女は陶杯を差し出した。ヴィルモスは受け取るまでに、一拍置いた。その一拍が、妙に長く感じられた。

 「ありがとう」

 「熱いので、台本みたいに一気に読まないでください」

 「台本は一気に読まない」

 「でも、昨日の目録は一気に読んでいました」

 「目録は途中で止めると、欄を見失う」

 いつもの返しだった。けれど声の端が乾いている。カリネは扉を見た。古資料書庫の扉には、古い事故記録を含む修繕関係資料の札が掛かっている。紙札は何度も付け替えられたのか、端が丸くなっていた。

 「昨日、調べるって言っていたのは、ここですか」

 ヴィルモスは茶を口元へ運びかけ、止めた。

 「ここには、関係の薄い資料も多い」

 「そうなんですね」

 「円形盤の別名は、別の台帳から確認できる。無人の寺に関する資料も、劇場組合の記録と照合したほうが早い」

 「はい」

 「だから、ここを今すぐ開ける必要はない」

 「はい」

 カリネは頷いた。頷くだけにした。問い返す言葉はいくつも浮かんだ。必要がないなら、どうして鍵を持っているのか。関係が薄いなら、どうして朝からここに立っているのか。けれど、口に出せば、彼は正しい形の説明を探してしまう気がした。

 ヴィルモスは、説明が上手い。だからこそ、説明できないものに触れると、少しだけ遠くなる。

 カリネは廊下脇の細い棚に陶杯の予備を置き、持ってきたパンを開いた。

 「朝ごはん、食べますか」

 「今は」

 「順路のどこですか」

 「……入口の前だ」

 思わず返したらしく、ヴィルモスは自分で少し困った顔をした。カリネはパンを半分に割り、片方を差し出した。彼は数秒見つめてから受け取った。

 廊下に、焼きパンの温かな匂いが広がる。古い紙の匂いと混ざって、閉じた箱に窓が開いたようだった。

 「昨日の拍子、夜にも鳴りました」

 カリネはパンを小さくちぎりながら言った。

 「屋台を片づけている時です。とん、たた、とん。間を置いて、たん、とん。朝だけじゃありませんでした」

 「炉の不調が進んでいるのかもしれない」

 「アンドリュースさんに伝えます」

 「ああ」

 会話はそこで途切れた。ヴィルモスはパンを食べているのに、味を感じていない顔をしていた。目は書庫の扉から離れない。

 カリネは、問い詰めないと決めたはずの自分の胸が、少しだけ揺れるのを感じた。聞くことは、黙って待つことだけではない。けれど、相手がまだ言葉にできないものを、こちらの都合で引きずり出すことでもない。

 彼女は陶杯をもう一つ用意し、自分も茶を飲んだ。香草の苦みが舌に残る。

 「解説員さん」

 「何だろう」

 「ここ、寒いですね」

 ヴィルモスは予想外の言葉を受けたように瞬きをした。

 「炉に近い廊下だが」

 「でも、寒いです」

 カリネは足元を見た。床石の継ぎ目から細い冷気が上がっている。昨日の作業室では気づかなかった。炉の響きが低くなったぶん、空気の温かさも少し欠けているのかもしれない。

 ヴィルモスも床へ視線を落とした。解説用の声ではなく、素の声で呟く。

 「二十年前も、最初はここが冷えたと記録にある」

 言ってから、彼は唇を閉じた。

 カリネは茶の杯を両手で包んだまま、顔を上げないでいた。

 「二十年前」

 それだけを繰り返す。

 「……展示改修中の事故だ」

 ヴィルモスの声は、扉の向こうの紙に触れるみたいに薄かった。

 「安全装置の誤作動。負傷者が出た。大きな火災にはならなかったが、当時の記録は分散している。公式説明では、配管の老朽化と作業手順の不備になっている」

 「公式説明では」

 カリネは同じ言葉を、そっと受けた。

 ヴィルモスはパンの残りを見つめた。指先に小さなパンくずがついている。彼はそれを払わず、ただ息を吐いた。

 「記録にないものもある」

 「昨日、ないって言いました」

 「ああ」

 「本当に、ないんですか」

 カリネの声は自分でも驚くほど静かだった。

 ヴィルモスはすぐには答えなかった。炉の低音が、二人の間をゆっくり通っていく。遠くで、開館準備のために誰かが椅子を動かす音がした。

 「あるかもしれない場所を、私は知っている」

 彼はそう言った。

 カリネは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。嘘だ、と責める言葉が頭のどこかで立ち上がる。けれど、彼はカリネをだまそうとして笑っていたわけではない。むしろ、自分の影に見つからないように、ずっと息を小さくしていたように見えた。

 「どうして、見なかったんですか」

 ヴィルモスは目を閉じた。

 「見れば、展示説明を変えなければならない」

 「変えたくないからですか」

 「変えた結果、また誰かが傷つくかもしれない」

 言葉の最後だけ、少しだけ強くなった。

 「私の父は、展示を変えようとした。古い安全装置を、来館者にも分かるように公開展示へ組み込もうとした。結果、事故が起きた。父は責任を負って職を去った。私はそのあと、この博物館に残った。残ったなら、少なくともこれ以上、余計なことをしないほうがいいと思った」

 カリネは、彼の手を見た。パンくずのついた指が、鍵束を握りしめている。深い洞察力のある人が、すべてを見ているとは限らない。見えているからこそ、見ない場所を決めてしまうこともある。

 「余計なことって、何ですか」

 「展示順を変えること。説明文を改訂すること。収蔵品を動かすこと。閉じた記録を開くこと」

 「朝ごはんを食べながら解説することも?」

 「……最初は、そう思った」

 ヴィルモスはようやく茶を飲んだ。少し熱かったのか、眉が動く。

 「でも、あの朝から来館者の声が記録に加わった。老人の記憶、子どもの疑問、君が聞いた炉の拍子。変えたことで、失われていたものが戻り始めている」

 カリネは黙って聞いた。

 「だから怖い」

 その一言が、どんな長い解説よりも本当のものに聞こえた。

 カリネは扉の前に立ち、鍵穴を見た。冷たい金属が朝の青を吸っている。開ければ、何かが分かる。けれど、その何かはヴィルモスの古傷に触れる。彼の父が残したものにも、博物館が避けてきたものにも。

 彼女は鍵を奪わなかった。代わりに、空になりかけた陶杯を受け取り、棚の上へ置いた。

 「今、開けなくてもいいです」

 ヴィルモスが彼女を見る。

 「でも、開けない理由も、記録してください」

 「開けない理由を?」

 「はい。怖かった、とか。まだ準備ができていない、とか。そういうのも、後で比べられます」

 昨日、彼が言った言葉を返しただけだった。聞き間違いでも記録する。なら、見ない理由も残していいはずだ。

 ヴィルモスはしばらく動かなかった。やがて、胸元の手帳を取り出した。解説用の細かな字ではなく、少し乱れた字で一行を書く。

 『古資料書庫前。開けるべき扉を、まだ開けられない。理由、父の事故記録に触れるため』

 彼はそこで止まった。息を吸い、もう一行足す。

 『カリネが茶を持ってきた。責めなかった』

 「そこは記録しなくていいです」

 「必要な状況説明だ」

 「展示されませんよね」

 「されない」

 「本当に?」

 「本人の許可なく展示しない」

 その返事があまりにも真面目だったので、カリネは少し笑ってしまった。笑い声は小さかったが、廊下の寒さを少しだけほどいた。

 その時、背後から軽い足音が近づいた。アンドリュースだった。工具箱を抱え、寝癖を直す暇もなかったような頭で駆け込んでくる。

 「ヴィルモス、炉の返事が変わった。昨日の拍子のあと、冷気が書庫側へ抜けている。古い空気弁がこの奥に連動している可能性がある」

 彼は書庫の札を見て、言葉を切った。

 「……ここか」

 ヴィルモスは鍵束を握り直した。カリネは何も言わなかった。今度は、彼が自分で鍵を選ぶ番だった。

 数秒後、ヴィルモスは一番古い真鍮の鍵を鍵穴へ差し込んだ。回す音は、思っていたより小さかった。だが、その小さな音に合わせるように、床下の炉が低く鳴った。

 扉が少し開く。

 中から、古い紙と冷たい鉄の匂いが流れ出した。

 ヴィルモスの顔色はまだ悪かった。けれど、彼は後ろへ下がらなかった。カリネは持っていた布で陶杯を包み、空いた手を自分の胸元に置いた。背中を押す代わりに、隣にいることを選ぶ。

 棚の奥、革紐で縛られた箱に、薄く読める札があった。

 『改修事故関連。非公開。無人の寺鐘管調査を含む』

 アンドリュースが息を呑む。

 「寺の鐘管……」

 ヴィルモスは箱へ手を伸ばした。指が震える。カリネは、問い詰めなかった。励ましもしなかった。ただ、彼が箱に触れるまで、同じ呼吸で待った。

 やがて革紐がほどけ、古い紙束の一番上が現れた。

 そこには、二十年前の事故図面と、円形パズル盤に似た欠けた図が描かれていた。

 カリネは小さく息を吸った。

 解説員さんの嘘は、誰かを傷つけるためではなかった。けれど、嘘の下に隠れたものは、街を傷つけるほど長く眠っていたのかもしれない。

 炉の音がまた鳴った。

 とん、たた、とん。

 今度は、扉の奥から返ってくるように聞こえた。



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