第13話 解説員さんの嘘
朝の博物館は、まだ客の足音よりも古い配管の軋みのほうが大きかった。
カリネは屋台の火を弱め、薄い陶杯に香草茶を注いだ。鍋の中では豆と根菜のスープが静かに回っている。昨日の作業室で聞いた炉の拍子が、眠りの中にも入り込んでいたせいで、いつもより早く目が覚めた。早く起きたのに、胸の奥だけが少し遅れている。
とん、たた、とん。
匙が鍋肌に当たるたび、あの拍子に似てしまう。
「カリネ、匙で暗号を打つのやめて。パンが不安になる」
マリヤムが焼き上がった細長いパンを布に包みながら、片眉を上げた。
「パンは不安にならないよ」
「なるわよ。少なくとも、今日のパンは『自分も欠けたパズルの一片なのでは』って顔をしている」
「それは焼き色が少し足りないだけじゃない?」
「うちの子に足りないところなんかありません」
マリヤムはパンを抱きしめるようにして胸元へ寄せた。カリネは笑いかけて、すぐに視線を博物館の正面扉へ移した。まだ開館前だというのに、ヴィルモスが扉の内側に立っていた。いつものように窓を拭いているのではない。書庫へ続く廊下を見て、引き返し、また同じ場所へ戻る。その動きが、展示室の模型人形より硬かった。
「解説員さん、朝ごはんの順路を間違えたのかな」
マリヤムが小声で言う。
カリネは返事をしなかった。昨日、アロイジアが恋文と円形盤を重ね、欠けた一片が無人の寺の方角を向くと示した。そのあと、ヴィルモスは古い目録を抱えて作業室を出た。彼は何かを調べると言ったが、どの棚を見るのかまでは言わなかった。
彼が今、避けている廊下。その先には、一般客が入れない古資料書庫がある。
カリネは陶杯を一つ取り、茶を注いだ。
「持っていくの?」
「うん」
「質問しに?」
「……お茶を」
マリヤムは布包みの上からパンをぽんと叩いた。
「じゃあ、これは口を塞ぐ用」
「何の?」
「カリネが変なこと言いそうになった時」
「私、そんなに変なこと言わないよ」
「『朝のご飯が朝です』」
「忘れて」
カリネは熱くなった頬を茶の湯気で隠し、博物館へ向かった。
正面扉の隙間から入ると、炉心母炉の低い響きが床を通して伝わってきた。昨日よりも少し細い。博物館の展示物は薄明かりの中で、まだ眠っているように見える。初期潜航服の硝子にはカリネの影が映り、円形パズル盤の展示ケースには、欠けた部分だけが朝の青を深く溜めていた。
ヴィルモスは書庫前の柱のそばにいた。手には鍵束がある。だが、鍵は扉に差し込まれていない。
「おはようございます」
カリネが声をかけると、彼の肩がほんの少し跳ねた。
「おはよう。開館まで、まだ時間がある」
「はい。だから、お茶です」
彼女は陶杯を差し出した。ヴィルモスは受け取るまでに、一拍置いた。その一拍が、妙に長く感じられた。
「ありがとう」
「熱いので、台本みたいに一気に読まないでください」
「台本は一気に読まない」
「でも、昨日の目録は一気に読んでいました」
「目録は途中で止めると、欄を見失う」
いつもの返しだった。けれど声の端が乾いている。カリネは扉を見た。古資料書庫の扉には、古い事故記録を含む修繕関係資料の札が掛かっている。紙札は何度も付け替えられたのか、端が丸くなっていた。
「昨日、調べるって言っていたのは、ここですか」
ヴィルモスは茶を口元へ運びかけ、止めた。
「ここには、関係の薄い資料も多い」
「そうなんですね」
「円形盤の別名は、別の台帳から確認できる。無人の寺に関する資料も、劇場組合の記録と照合したほうが早い」
「はい」
「だから、ここを今すぐ開ける必要はない」
「はい」
カリネは頷いた。頷くだけにした。問い返す言葉はいくつも浮かんだ。必要がないなら、どうして鍵を持っているのか。関係が薄いなら、どうして朝からここに立っているのか。けれど、口に出せば、彼は正しい形の説明を探してしまう気がした。
ヴィルモスは、説明が上手い。だからこそ、説明できないものに触れると、少しだけ遠くなる。
カリネは廊下脇の細い棚に陶杯の予備を置き、持ってきたパンを開いた。
「朝ごはん、食べますか」
「今は」
「順路のどこですか」
「……入口の前だ」
思わず返したらしく、ヴィルモスは自分で少し困った顔をした。カリネはパンを半分に割り、片方を差し出した。彼は数秒見つめてから受け取った。
廊下に、焼きパンの温かな匂いが広がる。古い紙の匂いと混ざって、閉じた箱に窓が開いたようだった。
「昨日の拍子、夜にも鳴りました」
カリネはパンを小さくちぎりながら言った。
「屋台を片づけている時です。とん、たた、とん。間を置いて、たん、とん。朝だけじゃありませんでした」
「炉の不調が進んでいるのかもしれない」
「アンドリュースさんに伝えます」
「ああ」
会話はそこで途切れた。ヴィルモスはパンを食べているのに、味を感じていない顔をしていた。目は書庫の扉から離れない。
カリネは、問い詰めないと決めたはずの自分の胸が、少しだけ揺れるのを感じた。聞くことは、黙って待つことだけではない。けれど、相手がまだ言葉にできないものを、こちらの都合で引きずり出すことでもない。
彼女は陶杯をもう一つ用意し、自分も茶を飲んだ。香草の苦みが舌に残る。
「解説員さん」
「何だろう」
「ここ、寒いですね」
ヴィルモスは予想外の言葉を受けたように瞬きをした。
「炉に近い廊下だが」
「でも、寒いです」
カリネは足元を見た。床石の継ぎ目から細い冷気が上がっている。昨日の作業室では気づかなかった。炉の響きが低くなったぶん、空気の温かさも少し欠けているのかもしれない。
ヴィルモスも床へ視線を落とした。解説用の声ではなく、素の声で呟く。
「二十年前も、最初はここが冷えたと記録にある」
言ってから、彼は唇を閉じた。
カリネは茶の杯を両手で包んだまま、顔を上げないでいた。
「二十年前」
それだけを繰り返す。
「……展示改修中の事故だ」
ヴィルモスの声は、扉の向こうの紙に触れるみたいに薄かった。
「安全装置の誤作動。負傷者が出た。大きな火災にはならなかったが、当時の記録は分散している。公式説明では、配管の老朽化と作業手順の不備になっている」
「公式説明では」
カリネは同じ言葉を、そっと受けた。
ヴィルモスはパンの残りを見つめた。指先に小さなパンくずがついている。彼はそれを払わず、ただ息を吐いた。
「記録にないものもある」
「昨日、ないって言いました」
「ああ」
「本当に、ないんですか」
カリネの声は自分でも驚くほど静かだった。
ヴィルモスはすぐには答えなかった。炉の低音が、二人の間をゆっくり通っていく。遠くで、開館準備のために誰かが椅子を動かす音がした。
「あるかもしれない場所を、私は知っている」
彼はそう言った。
カリネは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。嘘だ、と責める言葉が頭のどこかで立ち上がる。けれど、彼はカリネをだまそうとして笑っていたわけではない。むしろ、自分の影に見つからないように、ずっと息を小さくしていたように見えた。
「どうして、見なかったんですか」
ヴィルモスは目を閉じた。
「見れば、展示説明を変えなければならない」
「変えたくないからですか」
「変えた結果、また誰かが傷つくかもしれない」
言葉の最後だけ、少しだけ強くなった。
「私の父は、展示を変えようとした。古い安全装置を、来館者にも分かるように公開展示へ組み込もうとした。結果、事故が起きた。父は責任を負って職を去った。私はそのあと、この博物館に残った。残ったなら、少なくともこれ以上、余計なことをしないほうがいいと思った」
カリネは、彼の手を見た。パンくずのついた指が、鍵束を握りしめている。深い洞察力のある人が、すべてを見ているとは限らない。見えているからこそ、見ない場所を決めてしまうこともある。
「余計なことって、何ですか」
「展示順を変えること。説明文を改訂すること。収蔵品を動かすこと。閉じた記録を開くこと」
「朝ごはんを食べながら解説することも?」
「……最初は、そう思った」
ヴィルモスはようやく茶を飲んだ。少し熱かったのか、眉が動く。
「でも、あの朝から来館者の声が記録に加わった。老人の記憶、子どもの疑問、君が聞いた炉の拍子。変えたことで、失われていたものが戻り始めている」
カリネは黙って聞いた。
「だから怖い」
その一言が、どんな長い解説よりも本当のものに聞こえた。
カリネは扉の前に立ち、鍵穴を見た。冷たい金属が朝の青を吸っている。開ければ、何かが分かる。けれど、その何かはヴィルモスの古傷に触れる。彼の父が残したものにも、博物館が避けてきたものにも。
彼女は鍵を奪わなかった。代わりに、空になりかけた陶杯を受け取り、棚の上へ置いた。
「今、開けなくてもいいです」
ヴィルモスが彼女を見る。
「でも、開けない理由も、記録してください」
「開けない理由を?」
「はい。怖かった、とか。まだ準備ができていない、とか。そういうのも、後で比べられます」
昨日、彼が言った言葉を返しただけだった。聞き間違いでも記録する。なら、見ない理由も残していいはずだ。
ヴィルモスはしばらく動かなかった。やがて、胸元の手帳を取り出した。解説用の細かな字ではなく、少し乱れた字で一行を書く。
『古資料書庫前。開けるべき扉を、まだ開けられない。理由、父の事故記録に触れるため』
彼はそこで止まった。息を吸い、もう一行足す。
『カリネが茶を持ってきた。責めなかった』
「そこは記録しなくていいです」
「必要な状況説明だ」
「展示されませんよね」
「されない」
「本当に?」
「本人の許可なく展示しない」
その返事があまりにも真面目だったので、カリネは少し笑ってしまった。笑い声は小さかったが、廊下の寒さを少しだけほどいた。
その時、背後から軽い足音が近づいた。アンドリュースだった。工具箱を抱え、寝癖を直す暇もなかったような頭で駆け込んでくる。
「ヴィルモス、炉の返事が変わった。昨日の拍子のあと、冷気が書庫側へ抜けている。古い空気弁がこの奥に連動している可能性がある」
彼は書庫の札を見て、言葉を切った。
「……ここか」
ヴィルモスは鍵束を握り直した。カリネは何も言わなかった。今度は、彼が自分で鍵を選ぶ番だった。
数秒後、ヴィルモスは一番古い真鍮の鍵を鍵穴へ差し込んだ。回す音は、思っていたより小さかった。だが、その小さな音に合わせるように、床下の炉が低く鳴った。
扉が少し開く。
中から、古い紙と冷たい鉄の匂いが流れ出した。
ヴィルモスの顔色はまだ悪かった。けれど、彼は後ろへ下がらなかった。カリネは持っていた布で陶杯を包み、空いた手を自分の胸元に置いた。背中を押す代わりに、隣にいることを選ぶ。
棚の奥、革紐で縛られた箱に、薄く読める札があった。
『改修事故関連。非公開。無人の寺鐘管調査を含む』
アンドリュースが息を呑む。
「寺の鐘管……」
ヴィルモスは箱へ手を伸ばした。指が震える。カリネは、問い詰めなかった。励ましもしなかった。ただ、彼が箱に触れるまで、同じ呼吸で待った。
やがて革紐がほどけ、古い紙束の一番上が現れた。
そこには、二十年前の事故図面と、円形パズル盤に似た欠けた図が描かれていた。
カリネは小さく息を吸った。
解説員さんの嘘は、誰かを傷つけるためではなかった。けれど、嘘の下に隠れたものは、街を傷つけるほど長く眠っていたのかもしれない。
炉の音がまた鳴った。
とん、たた、とん。
今度は、扉の奥から返ってくるように聞こえた。




