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朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


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第12話 パズル職人アロイジア

 炉心博物館の作業室は、朝ごはんの匂いと古い紙の匂いが、どうにかして同じ部屋に住もうとしている場所だった。

 机の上には、恋文の写し、円形パズル盤の拓本、欠けた外周を写した透明板、そしてマリヤムが置いていった焼きパンが並んでいる。焼きパンだけが、明らかに仲間外れだった。けれど、それを一番気にしていないのは、食べるべき本人であるアロイジアだった。

 「右に三度。いや、違う。欠けを上にした場合、穴は文字ではなく拍子になる。では、左に一度戻して……」

 彼女は椅子に座っているはずなのに、上半身だけが別の生き物のように机へ乗り出していた。前髪が透明板に触れ、息で曇り、その曇りを袖で拭い、また覗き込む。カリネはその横で茶を注ぎながら、焼きパンの皿を少しずつ近づけた。

 「アロイジアさん、パンが冷めます」

 「冷めたパンは後で温められます。でも、今ずれた線は今しか見えません」

 「線は逃げますか」

 「逃げます。職人の目から。あと、私の集中から」

 真剣な声だったので、カリネはそれ以上押せなかった。代わりに、パンを小さくちぎって、アロイジアの手元へ置いた。すると彼女は、透明板を動かす手と反対の手で無意識につまみ、目は図面に向けたまま口に入れた。

 マリヤムが作業室の入口で腕を組み、満足そうにうなずく。

 「勝ったわ」

 「何に?」

 「職人の集中に」

 ヴィルモスは壁際の資料棚から展示目録を取り出していた。目録の革表紙は角が白くなり、背には何度も貼り直された分類札が並んでいる。彼は一冊ずつ机へ運び、恋文の写しに触れない位置へ正確に置いた。几帳面というより、触れたものが崩れないよう、呼吸まで測っているようだった。

 「アロイジア。円形盤の実物は展示室から移せない。ここでは拓本と計測値だけになる」

 「十分です。実物が来たら、たぶん私が展示室に住みます」

 「許可しない」

 「では、寝袋だけ置かせてください」

 「許可しない」

 「では、まばたきだけ減らします」

 「それは医務室に怒られる」

 淡々としたやり取りなのに、作業室の空気が少し軽くなった。カリネは茶を配りながら、昨日の朗読会を思い返す。恋文の一節に全員が赤くなり、笑って、そのあと穴文字の存在に息を呑んだ。恥ずかしい言葉の下に、街を動かすかもしれない仕組みが隠れている。そう考えると、胸のざわめきも少しだけ形を変えた。

 ただ恥ずかしいだけではない。誰かが未来へ渡そうとしたものを、今、みんなで拾っている。

 アロイジアは透明板を一枚増やした。小さな穴が点々と並ぶ写しの上に、円形盤の外周を重ねる。穴の列は、最初はばらばらに見えた。けれど欠けた部分を北ではなく南に置くと、いくつかの穴が円周の印とぴたりと重なった。

 「……見えた」

 その声が低かったので、全員が自然に黙った。

 「これは文章ではありません。文字に置き換えられなくはないけれど、先に読むべきなのは間隔です。長い、短い、短い、長い。休み。短い、長い、休み。ほら」

 アロイジアは机を指先で叩いた。

 とん、たた、とん。間を置いて、たん、とん。

 カリネの背中を、夜明け前の冷たい空気が撫でた気がした。

 「それ……」

 自分の声が、思ったより早く出た。

 「炉の音に似ています」

 アンドリュースが工具箱を抱えたまま、入口から飛び込んできた。髪にはまた金属粉がついていて、肩で息をしている。

 「呼ばれた気がした」

 「呼んでません」

 「炉の音と言っただろう。炉の音はだいたい私を呼んでいる」

 彼は机の上を見るなり、工具箱を床に置き、指で同じ拍子を叩いた。とん、たた、とん。間を置いて、たん、とん。顔つきが変わる。

 「空気弁の古い起動拍子だ。いや、起動ではないな。同期の合図に近い。複数の弁を同じ呼吸にするための……でも、今の制御盤にはこんな入力欄はない」

 「入力欄?」

 「機械に合図を入れる場所だ。昔は音で合わせていたのかもしれない。今は数値で管理する。数字は便利だが、古い炉はときどき数字を嫌う」

 「炉にも好き嫌いがあるんですか」

 「ある。少なくとも、私より頑固だ」

 ヴィルモスが目録を開く手を止めた。

 「この拍子は、展示説明にも技術記録にもない」

 「欠けているんです」

 カリネは、言ってから少し驚いた。欠けた展示品。欠けた目録。欠けた説明。閉館の噂が出てから、何度も聞いた言葉だ。けれど、今はただの不足ではなく、誰かがそこへ耳を当てるのを待っている隙間に思えた。

 アロイジアは頷き、パンの欠片をまた一つ食べた。今度は自覚があったらしい。噛みながら、透明板を別の角度へ回す。

 「恋文の穴は、円形盤を鍵にしています。けれど、欠けた一片がないせいで最後の部分は読めません。今分かるのは、無人の寺の鐘、炉の空気弁、そして呼吸共鳴器が、同じ拍子を共有していることだけです」

 「だけ、ではない」

 ヴィルモスが静かに言った。

 皆が彼を見る。彼は目録のページをめくり、古い展示台帳の一行を指した。

 「この欄に、初期の円形盤の別名がある。『息合わせ盤』。ただし、後年の目録では削除されている。理由は書かれていない」

 カリネはその文字を見た。息合わせ盤。展示室で見た円形パズルは、ずっと欠けた飾りのように扱われていた。けれど名前が変わるだけで、物の顔つきまで変わって見える。

 「息を合わせるための盤なら、あの人の息ともつながりますね」

 ノイスが作業室の隅で、ほつれた布袋を直しながら言った。彼女はいつの間にか来ていたらしい。針を動かす手元だけが淡々としていて、声は湯気のように柔らかい。

 「息をしまう瓶じゃなくて、息を合わせるもの。欠けた布に別の布を足すみたいに」

 その言葉に、カリネは第十四ではなく、まだ来ていない未来の自分が励まされるような感じがした。今はまだ、何が足りないのかを探している途中だ。それでも、足りないと分かれば、誰かが何かを持って来られる。

 そのとき、作業室の外で小さな警鐘が鳴った。全員が顔を上げる。博物館の火災鐘ではない。炉の監視室から鳴る、短い確認音だった。

 アンドリュースが真っ先に扉へ向かった。

 「空気弁だ。今の拍子のあとに、炉が返事をした」

 「返事?」

 「そう聞こえた。機械の言葉としては非常に厄介だが、今はそう言うしかない」

 カリネも後を追った。廊下へ出ると、炉心母炉の低い響きが床から伝わってくる。いつもの深い息の中に、ほんのわずか、跳ねるような乱れが混じっていた。

 とん、たた、とん。間を置いて、たん、とん。

 今朝、まだ誰も来ていない屋台で聞いた音。老人の鼻歌。鐘の内側の文字。恋文の穴。円形盤の欠け。

 ばらばらだったものが、カリネの中で一列に並び始めた。

 「私、聞きました」

 彼女は炉の方角を見たまま言った。

 「何度も。朝の準備をしているときに。この拍子だけ、ほかの音より先に鳴るんです。まるで、誰かを起こそうとしているみたいに」

 ヴィルモスが隣に立った。さっきまで目録を持っていた手には、今は何もない。空いた手が、少しだけ迷って、胸元の名札を押さえた。

 「では、記録しよう。君が聞いた順番で」

 「私の聞き間違いかもしれません」

 「聞き間違いなら、それも記録する。後で比べられる」

 それは、カリネにとって思いがけない言葉だった。正しいことだけを並べるのが記録だと思っていた。けれど、聞き間違いかもしれないものまで置いていいのなら、自分の耳も、少しは役に立つ場所がある。

 作業室へ戻ると、アロイジアが焼きパンの皿を空にしていた。本人は気づいていない顔で、透明板に新しい印をつけている。

 「欠けた一片が必要です。たぶん、それがなければ無人の寺のどこへ向かえばいいのかも、最後にどう息を合わせるのかも分かりません」

 「その一片は、どこにある」

 ヴィルモスの問いに、アロイジアは恋文の穴列の端を示した。

 「まだ読めません。ただ、方向だけは出ています。円形盤をこの角度に置くと、欠けた部分は博物館の外を向く。炉でも、水門でもなく……」

 彼女は少しだけ言葉を止めた。

 「無人の寺の方角です」

 カリネの胸の奥で、朝の鍋が静かに鳴った気がした。

 寺の鐘は、息を合わせよと言っていた。恋文は、海の底で会いましょうと言っていた。そして炉は、夜明け前から誰かを起こすように拍子を鳴らしている。

 まだ、答えは遠い。けれど、その遠さは怖さだけではなかった。

 カリネは机の上に残ったパンくずを見て、そっと笑った。アロイジアが食事を忘れなかった。それだけでも、今日の解読は一歩進んだ気がする。

 その笑みに気づいたマリヤムが、小声で言った。

 「次は、解説員さんにも食べさせなきゃね」

 「えっ」

 カリネが振り向くより早く、ヴィルモスが目録の陰で咳払いをした。

 「私は食べる時間を、展示順に従って確保している」

 「展示順に朝ごはんを食べる人、初めて見ました」

 「混乱を避けるためだ」

 「パンにも順路があるんですか」

 マリヤムが聞くと、アンドリュースが真顔でパン皿を見た。

 「入口は左端だな」

 作業室に笑いが広がる。炉の音はまだ少し乱れていたが、その笑いの下で、たしかに同じ拍子が小さく続いていた。

 とん、たた、とん。

 カリネは耳を澄ませた。

 欠けたものが、こちらへ呼びかけている。聞こえたからには、もう聞かなかったことにはできなかった。



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