第11話 溺れるくらいの愛を
翌朝の炉心博物館は、いつもより早く甘い匂いで満ちていた。
マリヤムが焼いた薄い貝粉パンに、カリネが海草蜜を薄く塗り、受付前の小さな長机へ並べている。閉館の噂が濃くなるほど、誰かが何かを持ち寄るようになった。菓子、古い入館券、子どものころに描いた炉の絵、よく分からない部品。よく分からない部品については、アンドリュースが三つに一つの割合で「これは危険ではないが、椅子に置くものでもない」と別箱へ移している。
「今日は朗読会だよ、カリネ。顔、ちゃんと普通にして」
マリヤムがパン籠を抱えたまま、じっとカリネを見る。
「普通です」
「普通の人は、展示室の柱に向かって『朝のご飯が朝です』って練習しない」
「聞いてたの」
「柱が困っていたから」
カリネは蜜の匙を落としかけた。昨日の屋上で、ヴィルモスが夜明け匙の湯気を見ていたと知ってから、胸のあたりが妙に忙しい。喜んでいいのか、恥ずかしがるべきなのか、今後は湯気の形にも責任を持つべきなのか、考えが鍋の中の粥みたいに混ざっていた。
朗読会は、炉心博物館の小展示室で開かれることになっていた。題名は「創設期の恋文と海底都市の祈り」。ヴィルモスが解説し、ヴァシリーサが古文書を読む。カリネは朝ごはん係として茶とパンを配るだけのはずだったが、恋文という言葉がつくたびに、なぜか足元の床まで赤く見える。
小展示室には、想像より多くの人が集まった。常連の老人たち、眠そうな子ども、工房帰りの職人、議会の様子を探りに来たらしいシグルギスリまでいる。彼は最前列の端に腰を下ろし、膝の上に分厚い手帳を置いていた。手帳の角から、すでに付箋が三本も飛び出している。
「朗読会の進行に関し、まず確認しておきたい点が七つあります」
「七つは多いです」
受付係が即答した。シグルギスリは眼鏡を直し、少しだけ傷ついた顔をする。
「では、五つに」
「ひとつにしてください」
「……開催中に火器を使わないこと」
「朝ごはんの保温鍋は火器に入りますか」
カリネが小声で聞くと、ヴィルモスが横から真顔で答えた。
「入るが、今日の議題に入れると朗読が来週になる」
カリネは吹き出しそうになり、盆の上の茶碗を慌てて押さえた。
やがて照明が少し落とされ、展示ケースの中の古い恋文へ淡い灯りが当たった。百年以上前の紙は、海底の湿り気を避けるため薄い保護膜に包まれている。文字はところどころ滲み、読めない行もある。それでも、筆跡はどこか急いでいるようで、紙の向こうから誰かの息が聞こえてきそうだった。
ヴィルモスが前へ出る。白い手袋をはめた指が、恋文の横に置かれた解説板を軽く示した。
「本日は、創設者が残したとされる数通の手紙から、保存状態の良い一節を紹介します。従来、この手紙は個人の悲恋を示す資料として扱われてきました。ただし近年、無人の寺、欠けた円形盤、そして呼吸共鳴器との関連が指摘され始めています」
「近年というか、昨日では」
アンドリュースが後ろで呟き、ノイスが袖を引いて黙らせた。
ヴィルモスは聞こえなかったふりをした。聞こえていたと思う。耳の先が少し赤い。
「それでは、ヴァシリーサさん。お願いします」
小劇場の語り部は、待ってましたとばかりに胸へ手を当てた。深い紫のショールがふわりと揺れ、観客の子どもたちが身を乗り出す。
「海の底で会いましょう。灯りが消え、炉が眠り、街が自分の息を忘れた夜にも――」
声が、小展示室の天井へやわらかく上がっていく。いつも冗談まじりに話すヴァシリーサの声が、今日は水の中に沈めた鐘みたいに響いた。カリネは茶を配る手を止め、恋文を見つめた。
「あなたに、溺れるくらいの愛を」
その一節だけ、ヴァシリーサは舞台の上から告白するように読み上げた。
小展示室が一瞬、きれいに沈黙した。
次の瞬間、マリヤムが口元を押さえ、アンドリュースが持っていた工具を床に落とし、シグルギスリが手帳に何かを書こうとして筆先を折った。カリネは盆を抱えたまま固まった。なぜこちらを見るのか。なぜヴィルモスまで、展示棒を握りしめたままこちらを見ないようにしているのか。
「……解説員さん」
「今の一節は、保存資料の引用だ」
「分かっています」
「私が書いたものではない」
「それも分かっています」
「だが、朗読の角度が強かった」
「角度」
ヴィルモスは展示棒を持ち直そうとして、つるりと床へ落とした。乾いた音がやけに大きく響く。最前列の子どもが、真剣な顔で手を挙げた。
「先生、溺れるくらいって、危ないです」
「非常に危ない。愛情表現としても、安全管理上も推奨しない」
ヴィルモスが即答したせいで、ついに会場から笑いが漏れた。カリネも、顔を熱くしたまま少し笑った。笑いがあると、言葉は深く沈みすぎない。水面へ戻ってこられる。
ヴァシリーサは悪びれず、もう一度紙面へ目を落とした。
「続きがあります。……けれど、ここから先は、どうも文字が飛んでいるわね。点みたいな穴が多い」
その言葉に、アロイジアが椅子からほとんど跳ね上がった。盤面細工師は、今日も朝食を半分残したまま、展示ケースの前へ駆け寄る。
「穴? 文字が欠けているのではなく、穴が開いているんですか」
「ええ。古い虫食いかと思ったけれど、ずいぶん整っているわ」
ヴィルモスが展示ケースの鍵を確認するより早く、アロイジアはケースに鼻がつくほど近づいた。マリヤムが後ろからパンを差し出す。
「アロイジア、近い。あと食べて」
「今、パンの形をしている場合ではありません」
「パンはいつでもパンの形よ」
アロイジアは返事もせず、鞄から細い透明板を取り出した。小さな方眼が刻まれた道具だ。彼女はそれをケースの外側から恋文に重ね、何度か角度を変える。目が、炉の火より速く動いていた。
「この穴、円形盤の縁と同じ間隔です。欠けたパズルの外周にある点列と、たぶん噛み合う」
場の笑いが、少しずつ別の緊張へ変わった。
ヴィルモスは落とした展示棒を拾い、今度はしっかり握った。
「穴文字、ということか」
「ええ。ただ紙だけでは読めません。パズル盤に重ねて、欠けた位置を基準にしないと意味が出ないはずです。恋文の本文は、見せるための言葉。穴は、隠すための言葉」
カリネは、恋文の一節をもう一度見た。
海の底で会いましょう。
溺れるくらいの愛を。
胸を騒がせる言葉の下に、別の言葉が眠っている。誰かが誰かを想って書いた手紙でありながら、同時に、未来へ何かを渡すための地図かもしれない。
「あの」
カリネは盆を持ったまま、一歩前へ出た。
「今朝、炉の音が、少しだけ変でした。昨日の鐘の内側の文字と、恋文の穴と、同じ拍子かもしれません」
全員の目が向く。以前なら、そこで声が小さくなっていた。けれど、昨日屋上でヴィルモスが言った「今日、役に立った」という言葉が、胸の奥に残っていた。
「老人のお客さんが歌っていた鼻歌とも似ています。たぶん、昔は誰かが覚えていた拍子です。紙に残らなかっただけで」
ヴィルモスは、カリネを見た。今度は目をそらさなかった。
「聞いたものを、あとで教えてほしい」
「はい」
「展示記録として、私が書く」
その言い方が、少しだけ変わっていた。これまでの記録を守るためではなく、いま聞いた声を加えるための言葉だった。
シグルギスリが手帳を閉じる音がした。
「朗読会の予定時間は、すでに三十二分超過しています」
全員がそちらを見た。彼は咳払いをし、折れた筆先をしまう。
「ですが、財政資料よりは、市民の関心が高いようです。続行を妨げる理由は、今のところ一つしかありません」
「何ですか」
マリヤムが警戒して聞く。
「パンが足りない」
小展示室に、今度は大きな笑いが起きた。
カリネは盆を抱え直した。笑い声の向こうで、展示ケースの中の恋文が、海中灯を受けて薄く光っている。その穴の一つ一つが、こちらを待っている小さな窓に見えた。
溺れるくらいの愛を。
その大げさな一節は、まだ恥ずかしい。けれど、息を止めて沈むための言葉ではないのかもしれない。
誰かと同じ朝へ浮かび上がるために、百年以上も前から、ここに置かれていたのかもしれない。




