表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝ごはんを一緒に、海の底で会いましょう  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/41

第15話 朝食解説の初日

 博物館の入口の外側に置いた小さな卓は、朝のうちだけ食堂になり、昼になる前に展示準備台へ戻ることになった。

 カリネは夜明け前から、屋台の片隅で椀を磨いていた。いつもの粥より少しだけ汁気を多くし、歯の弱い老人にも、眠そうな子どもにも食べやすいように豆をつぶす。銅鍋の底を匙がなぞる音に合わせて、炉心母炉が床下で低く鳴った。とん、たた、とん。昨日よりは細いが、まだ消えていない音だった。

 「看板、これでいい?」

 マリヤムが焼きたての細長いパンを抱え、片足で屋台の箱を押さえながら紙札を掲げた。

 そこには、太い字でこう書かれている。

 朝ごはんを食べながら、博物館の話を聞く朝。

 「まっすぐです」

 「本当に?」

 「気持ちは、まっすぐです」

 「それは曲がってる時の言い方だね」

 マリヤムは紙札を少し直し、端をパン籠に挟んだ。香ばしい匂いが広がる。閉館の噂で重くなっていた入口の空気が、ほんの少しだけ膨らんだ。

 博物館の扉が内側から開いた。ヴィルモスが現れる。濃紺の制服はいつも通り皺ひとつない。だが、胸ポケットから解説台本が三冊も見えていた。規定書も一冊。さらに、来館者用の注意札まで抱えている。

 「念のため確認する。飲食物は展示室に持ち込まない。椀は入口外側の卓まで。解説は開館前の試験実施として扱う。参加者が展示物に触れた場合、私は止める。粥をこぼした場合、君が拭く。パン屑が入り込んだ場合、マリヤムが責任を持って拾う」

 「パン屑だけ名指しなの、ひどくない?」

 マリヤムが頬をふくらませる。

 「過去三日で、君は入口前に計二十七粒落としている」

 「数えたの?」

 「数えたくて数えたわけではない。見えた」

 カリネは椀を三つ、さらに小さな木椀を一つ並べた。申し込みは少ない。というより、申し込みという言葉を使うほど人は来なかった。朝市で声をかけた老人三人と、母親に手を引かれてきた眠そうな子ども一人。それだけである。

 それでも、空席だらけの卓を見て、カリネの胸は不思議と沈まなかった。昨日までの入口は、誰も来ない理由を数える場所だった。今日は、四人が来てくれた理由を聞く場所になる。

 「おはようございます」

 カリネが言うと、三人の老人はそれぞれ違う速さで頷いた。

 一人目は、杖の先で床を二度叩く白髭の男性。いつも豆を残すのに、今日は先に豆を探している。

 二人目は、真珠色のショールを首に巻いた女性。椀の湯気を手で包みながら、展示室より先に天井の炉管を見た。

 三人目は、耳の後ろに古い耳当てをかけた小柄な男性。座るなり、パンを半分に割って隣の子どもへ差し出した。

 子どもは、片目だけ開けてパンを受け取り、また半分眠った。

 「第一回朝食解説を始めます」

 ヴィルモスが台本を開く。声は整っていた。整いすぎていて、朝の粥より少し固い。

 「本日扱う展示は、炉心博物館第三展示室の呼吸保存瓶、通称『あの人の息』です。創設者エルディアが、失われた恋人の息を――」

 「違うよ」

 白髭の男性が、粥を吹きながら言った。

 ヴィルモスの指が台本の端で止まる。

 「失礼。どの部分が」

 「その名前だ。呼吸保存瓶なんて呼んだことはない。少なくとも、わしの祖母はそう呼ばなかった」

 真珠色のショールの女性も、椀を置いた。

 「うちでは『息合わせの笛』だったわ。瓶じゃなくて、笛。子どもが泣きやまない時、祖母がその話をしてくれたの。みんなで息を合わせると、炉が機嫌を直すって」

 「息合わせの……笛」

 ヴィルモスは台本を閉じなかった。ただ、目だけを動かして余白を探した。そこに書く場所がないことに気づいたように、唇を結ぶ。

 カリネは青糸で束ねた紙片を広げ、新しい紙を一枚置いた。

 「その呼び方、書いてもいいですか」

 「書くほどのものかい?」

 白髭の男性は照れたように杖を動かす。

 「はい。忘れたら、また欠けます」

 その言葉に、三人の老人は互いの顔を見た。眠そうな子どもだけが、パンを握ったまま小さくあくびをした。

 「わたしが聞いたのはね」

 耳当ての男性が、ゆっくり話し出す。

 「昔、炉が弱ると、大人が広場で笛の真似をしたそうだ。ひゅう、と吹くんじゃない。ふう、と息を置く。順番を間違えると炉が怒る、なんて脅かされた。わしは怖くて、祖母の袖を噛んだ」

 「袖を?」

 カリネが聞き返すと、彼は苦い顔をした。

 「噛んだ。だから祖母に、袖は保存食ではないと言われた」

 マリヤムが吹き出し、子どもがやっと両目を開けた。

 「そで、たべられないの?」

 「普通は食べません」

 ヴィルモスが真顔で答える。

 「でも、パンの端なら食べられるよ」

 マリヤムがすかさず差し出す。子どもはまじめに頷いて、パンの端をかじった。

 笑いが入口の卓を一周した。博物館の壁に貼られた閉館説明の紙まで、少しだけ遠く見えた。

 ヴィルモスは台本を左手に持ち替え、右手で小さな鉛筆を取り出した。彼が展示解説中に台本へ書き込みをするのを、カリネは初めて見た。

 「息合わせの笛、という呼称は、公式目録にはありません」

 彼はそこまで言って、わずかに息を吸った。

 「ですが、来館者記憶として記録します。出典は、本日朝食解説参加者三名の証言。内容は、炉心母炉の安定と住民の呼吸の関係を示す民間伝承」

 「長いわねえ」

 真珠色のショールの女性が笑う。

 「もっと短くならない?」

 ヴィルモスは本気で考え込んだ。

 「……朝の卓で聞いた、炉をなだめる息の話」

 「それなら食べながら聞けるわ」

 カリネは紙にそのまま書いた。字の横へ、湯気で少し滲んだ丸ができる。欠けたパズルの空白とは違う、温かい滲みだった。

 朝食解説は、予定の倍の時間がかかった。白髭の男性は、昔の博物館には鐘の模型があったと言い、真珠色のショールの女性は、展示室で初めて夫と喧嘩した話をした。耳当ての男性は、祖母の袖を噛んだ話を三度繰り返し、そのたびに子どもが笑った。

 ヴィルモスは途中から台本をほとんど見なくなった。代わりに、来館者の言葉を聞き、時々、展示棚の方へ視線を向けた。まるで古い瓶が、これまで黙っていたことを今さら言い出したように。

 最後の椀を下げる時、子どもがカリネの袖をつまんだ。

 「あの瓶、笛なら、音が出るの?」

 「どうでしょう。私はまだ聞いたことがありません」

 「じゃあ、聞いて」

 子どもは眠気の残る顔で言った。

 「お姉さん、聞くの上手でしょ」

 カリネは椀を持ったまま、少しだけ動けなくなった。

 博物館の中から、炉心母炉の音が返ってくる。とん、たた、とん。昨日より細く、けれど、さっきより近い。

 ヴィルモスが入口の内側で立ち止まっていた。彼の手には、台本ではなく、カリネの書いた紙片がある。

 「カリネ」

 名前を呼ばれ、胸の奥で匙が小さく鳴った。

 「明日の朝も、試験実施にしよう。規定に触れない範囲で」

 「範囲が狭かったら?」

 「広げる理由を、私が探す」

 その言葉は、解説ではなかった。約束に近かった。

 マリヤムが空のパン籠を肩にかけ、にやにやと二人を見比べる。カリネは気づかないふりをして、紙片の束に新しい一枚を足した。

 『あの人の息』の別名。

 『息合わせの笛』。

 『朝の卓で聞いた、炉をなだめる息の話』。

 欠けた説明の端に、今日の朝が結ばれた。

 博物館の扉はまだ古く、閉館の紙もまだ剥がされていない。けれど入口の外側には、四つの椀の跡が残っていた。そこだけは確かに、人が座った場所だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ