第15話 朝食解説の初日
博物館の入口の外側に置いた小さな卓は、朝のうちだけ食堂になり、昼になる前に展示準備台へ戻ることになった。
カリネは夜明け前から、屋台の片隅で椀を磨いていた。いつもの粥より少しだけ汁気を多くし、歯の弱い老人にも、眠そうな子どもにも食べやすいように豆をつぶす。銅鍋の底を匙がなぞる音に合わせて、炉心母炉が床下で低く鳴った。とん、たた、とん。昨日よりは細いが、まだ消えていない音だった。
「看板、これでいい?」
マリヤムが焼きたての細長いパンを抱え、片足で屋台の箱を押さえながら紙札を掲げた。
そこには、太い字でこう書かれている。
朝ごはんを食べながら、博物館の話を聞く朝。
「まっすぐです」
「本当に?」
「気持ちは、まっすぐです」
「それは曲がってる時の言い方だね」
マリヤムは紙札を少し直し、端をパン籠に挟んだ。香ばしい匂いが広がる。閉館の噂で重くなっていた入口の空気が、ほんの少しだけ膨らんだ。
博物館の扉が内側から開いた。ヴィルモスが現れる。濃紺の制服はいつも通り皺ひとつない。だが、胸ポケットから解説台本が三冊も見えていた。規定書も一冊。さらに、来館者用の注意札まで抱えている。
「念のため確認する。飲食物は展示室に持ち込まない。椀は入口外側の卓まで。解説は開館前の試験実施として扱う。参加者が展示物に触れた場合、私は止める。粥をこぼした場合、君が拭く。パン屑が入り込んだ場合、マリヤムが責任を持って拾う」
「パン屑だけ名指しなの、ひどくない?」
マリヤムが頬をふくらませる。
「過去三日で、君は入口前に計二十七粒落としている」
「数えたの?」
「数えたくて数えたわけではない。見えた」
カリネは椀を三つ、さらに小さな木椀を一つ並べた。申し込みは少ない。というより、申し込みという言葉を使うほど人は来なかった。朝市で声をかけた老人三人と、母親に手を引かれてきた眠そうな子ども一人。それだけである。
それでも、空席だらけの卓を見て、カリネの胸は不思議と沈まなかった。昨日までの入口は、誰も来ない理由を数える場所だった。今日は、四人が来てくれた理由を聞く場所になる。
「おはようございます」
カリネが言うと、三人の老人はそれぞれ違う速さで頷いた。
一人目は、杖の先で床を二度叩く白髭の男性。いつも豆を残すのに、今日は先に豆を探している。
二人目は、真珠色のショールを首に巻いた女性。椀の湯気を手で包みながら、展示室より先に天井の炉管を見た。
三人目は、耳の後ろに古い耳当てをかけた小柄な男性。座るなり、パンを半分に割って隣の子どもへ差し出した。
子どもは、片目だけ開けてパンを受け取り、また半分眠った。
「第一回朝食解説を始めます」
ヴィルモスが台本を開く。声は整っていた。整いすぎていて、朝の粥より少し固い。
「本日扱う展示は、炉心博物館第三展示室の呼吸保存瓶、通称『あの人の息』です。創設者エルディアが、失われた恋人の息を――」
「違うよ」
白髭の男性が、粥を吹きながら言った。
ヴィルモスの指が台本の端で止まる。
「失礼。どの部分が」
「その名前だ。呼吸保存瓶なんて呼んだことはない。少なくとも、わしの祖母はそう呼ばなかった」
真珠色のショールの女性も、椀を置いた。
「うちでは『息合わせの笛』だったわ。瓶じゃなくて、笛。子どもが泣きやまない時、祖母がその話をしてくれたの。みんなで息を合わせると、炉が機嫌を直すって」
「息合わせの……笛」
ヴィルモスは台本を閉じなかった。ただ、目だけを動かして余白を探した。そこに書く場所がないことに気づいたように、唇を結ぶ。
カリネは青糸で束ねた紙片を広げ、新しい紙を一枚置いた。
「その呼び方、書いてもいいですか」
「書くほどのものかい?」
白髭の男性は照れたように杖を動かす。
「はい。忘れたら、また欠けます」
その言葉に、三人の老人は互いの顔を見た。眠そうな子どもだけが、パンを握ったまま小さくあくびをした。
「わたしが聞いたのはね」
耳当ての男性が、ゆっくり話し出す。
「昔、炉が弱ると、大人が広場で笛の真似をしたそうだ。ひゅう、と吹くんじゃない。ふう、と息を置く。順番を間違えると炉が怒る、なんて脅かされた。わしは怖くて、祖母の袖を噛んだ」
「袖を?」
カリネが聞き返すと、彼は苦い顔をした。
「噛んだ。だから祖母に、袖は保存食ではないと言われた」
マリヤムが吹き出し、子どもがやっと両目を開けた。
「そで、たべられないの?」
「普通は食べません」
ヴィルモスが真顔で答える。
「でも、パンの端なら食べられるよ」
マリヤムがすかさず差し出す。子どもはまじめに頷いて、パンの端をかじった。
笑いが入口の卓を一周した。博物館の壁に貼られた閉館説明の紙まで、少しだけ遠く見えた。
ヴィルモスは台本を左手に持ち替え、右手で小さな鉛筆を取り出した。彼が展示解説中に台本へ書き込みをするのを、カリネは初めて見た。
「息合わせの笛、という呼称は、公式目録にはありません」
彼はそこまで言って、わずかに息を吸った。
「ですが、来館者記憶として記録します。出典は、本日朝食解説参加者三名の証言。内容は、炉心母炉の安定と住民の呼吸の関係を示す民間伝承」
「長いわねえ」
真珠色のショールの女性が笑う。
「もっと短くならない?」
ヴィルモスは本気で考え込んだ。
「……朝の卓で聞いた、炉をなだめる息の話」
「それなら食べながら聞けるわ」
カリネは紙にそのまま書いた。字の横へ、湯気で少し滲んだ丸ができる。欠けたパズルの空白とは違う、温かい滲みだった。
朝食解説は、予定の倍の時間がかかった。白髭の男性は、昔の博物館には鐘の模型があったと言い、真珠色のショールの女性は、展示室で初めて夫と喧嘩した話をした。耳当ての男性は、祖母の袖を噛んだ話を三度繰り返し、そのたびに子どもが笑った。
ヴィルモスは途中から台本をほとんど見なくなった。代わりに、来館者の言葉を聞き、時々、展示棚の方へ視線を向けた。まるで古い瓶が、これまで黙っていたことを今さら言い出したように。
最後の椀を下げる時、子どもがカリネの袖をつまんだ。
「あの瓶、笛なら、音が出るの?」
「どうでしょう。私はまだ聞いたことがありません」
「じゃあ、聞いて」
子どもは眠気の残る顔で言った。
「お姉さん、聞くの上手でしょ」
カリネは椀を持ったまま、少しだけ動けなくなった。
博物館の中から、炉心母炉の音が返ってくる。とん、たた、とん。昨日より細く、けれど、さっきより近い。
ヴィルモスが入口の内側で立ち止まっていた。彼の手には、台本ではなく、カリネの書いた紙片がある。
「カリネ」
名前を呼ばれ、胸の奥で匙が小さく鳴った。
「明日の朝も、試験実施にしよう。規定に触れない範囲で」
「範囲が狭かったら?」
「広げる理由を、私が探す」
その言葉は、解説ではなかった。約束に近かった。
マリヤムが空のパン籠を肩にかけ、にやにやと二人を見比べる。カリネは気づかないふりをして、紙片の束に新しい一枚を足した。
『あの人の息』の別名。
『息合わせの笛』。
『朝の卓で聞いた、炉をなだめる息の話』。
欠けた説明の端に、今日の朝が結ばれた。
博物館の扉はまだ古く、閉館の紙もまだ剥がされていない。けれど入口の外側には、四つの椀の跡が残っていた。そこだけは確かに、人が座った場所だった。




