第4話 見えているもの
異世界に来てから、初めての食事は思っていたよりも質素だった。
木製の皿に盛られたパンと、野菜の入ったスープ。
パンは少し硬く、スープには見たことのない香草が使われている。味は悪くない。少なくとも、空腹を満たすには十分だった。
「ごちそうさまでした」
食べ終えた皿を机の端へ寄せる。
詰所の門番は、向かい側で書類を整理していた。
「口に合ったか?」
「はい。おいしかったです」
「それならよかった」
短い会話だった。
食事を用意してもらえたことには感謝しているが、知らない場所で出された食べ物を、何の警戒もなく口にするほど図太くはない。
とはいえ、出されたものを疑い続けていても仕方がない。
今のところ、身体に異常はなさそうだった。
「担当者というのは、まだ来ないんですか?」
「使いを出してから、それほど時間は経っていない。もう少し待ってくれ」
「分かりました」
俺は椅子の背にもたれた。
窓の外からは、人の話し声が聞こえてくる。
城門を行き交う人々。
荷車の車輪が石畳を踏む音。
兵士同士の短いやり取り。
どれも、俺にとっては見慣れないものばかりだ。
それでも、人間の生活という意味では、そこまで違いがあるわけでもなさそうだった。
朝になれば働き、食事をして、誰かと話す。
文明の形は違っても、暮らしそのものは続いている。
そんなことを考えていたときだった。
詰所の扉が開いた。
「失礼します。渡来者の確認を引き継ぎに来ました」
聞き慣れない女性の声だった。
俺は扉の方へ目を向けた。
入ってきたのは、ひとりの若い女性だった。
年齢は俺とそれほど変わらないように見える。
銀灰色の長い髪を後ろで低くまとめ、青みがかった灰色の瞳をしている。整った顔立ちだが、表情にはあまり隙がない。
濃紺の上着には銀色の留め具があり、腰には小さな道具袋を下げていた。細身の体つきで、姿勢がよく、歩き方にも無駄がない。
装飾よりも実用性を優先した服装だったが、それがかえって彼女の落ち着いた雰囲気によく合っていた。
「こちらが例の男性ですか?」
「ああ。成瀬透というらしい。出身地はニホン。自分の話では、別の世界から来た可能性があるそうだ」
「分かりました」
女性は俺の方を向いた。
「初めまして。私はエレナ・ヴァルディス。異遺物管理局の調査部門に所属しています」
「成瀬透です」
「詳しい話を聞く前に、いくつか確認させてください。体調に問題はありませんか?」
「今のところは大丈夫です」
「怪我や痛みは?」
「少し頭が重かったくらいです。今はほとんど問題ありません」
「そうですか。では、こちらへ来るまでの経緯について、もう一度お話を伺っても?」
「さっき門番の方に話した内容と同じでいいですか?」
「はい。記録を取る必要がありますので」
「分かりました」
俺はもう一度、観測施設で起きたことを説明した。
図面に存在しない廊下。
壁や床に浮かび上がった金色の線。
その先に現れた扉。
そして、意識を失うまでのこと。
エレナは途中で口を挟むことなく、手元の紙に内容を書き留めていた。
話し終えると、彼女は少しだけ考えるように視線を落とした。
「その廊下に入る前、何か異常はありませんでしたか?」
「特にありません。最初は、図面にない通路を見つけたと思ったくらいです」
「扉に触れたときは?」
「普通に開きました。錆びてはいましたけど」
「金色の線が現れたのは、扉が開く前ですか?」
「いえ。廊下の奥まで進んでからです」
「その線は、どこに現れました?」
「壁と床、それから天井にも。廊下全体に広がっていく感じでした」
「なるほど……」
エレナは紙に何かを書き足した。
「何か分かったんですか?」
「まだ何とも言えません。あなたの話だけで現象を特定することはできませんから」
「そうですよね」
「ただ、渡来現象に関係している可能性はあります」
また、その言葉だった。
渡来者。
渡来現象。
この世界には、俺の知らない言葉がいくつもあるらしい。
「渡来現象というのは、どういうものなんですか?」
「異なる世界の境界に関係して起きる、特殊な現象の総称です。詳しい仕組みについては、研究部門の領分になります」
「エレナさんは研究者ではないんですか?」
「私は調査部門です。現場で起きたことを確認し、必要な対応を行うのが仕事です」
「なるほど」
異遺物管理局。
名前だけでは何をしている組織なのか、まだよく分からない。
ただ、渡来者に関する調査も担当しているらしい。
「それで、俺はこれからどうなるんでしょう?」
「まずは王国の保護下に入ってもらいます。住居や食事についてはこちらで手配します。生活に必要なものも、順番に用意する予定です」
「ずいぶん手厚いですね」
「渡来者への対応は、王国の決まりで定められています。本人の意思を確認せずに行動を制限することはありません」
「それは助かります」
「ただし、身元の確認や状況の調査には協力していただきます」
「もちろんです。俺も知りたいことがたくさんありますから」
特に、帰る方法について。
そこだけは、はっきりと伝えておいた。
「元の世界に帰る方法を探したいんです」
「……そうですか」
エレナは一瞬だけ視線を落とした。
「帰還については、私から確約できることはありません。ただ、過去の渡来者に関する記録は残っています。調査を進めれば、何か分かる可能性はあります」
「分かりました。それだけでも十分です」
「では、ひとまず管理局で保護の手続きを進めましょう。ここからは私が案内します」
そう言って、エレナは扉の方へ向かった。
俺も立ち上がる。
「門番さん、ありがとうございました」
「ああ。何かあれば、また来るといい」
「お世話になりました」
詰所を出ると、城門の内側にある通路へ案内された。
石造りの壁には、一定の間隔で小さな灯りが設置されている。
炎が揺れているわけではない。
透明な結晶のようなものが、淡い白色の光を放っていた。
「これは?」
俺は近くの灯りを見た。
「魔導灯です。魔晶石に蓄えた魔力を使って光らせています」
「電気みたいなものですか?」
「電気?」
「俺の世界にある、光を生み出す仕組みに近いのかなと思って」
「仕組みは違いますが、用途は似ているかもしれません」
エレナは淡々と答えた。
「この国では一般的なものです。街灯や屋内の照明にも使われています」
「へえ……」
魔法がある世界の照明。
仕組みは気になるが、今は聞いても理解できないだろう。
そう思って、俺は通路を進んだ。
そのときだった。
壁に取り付けられた魔導灯が、一瞬だけ明滅した。
気のせいかと思った。
しかし、もう一度。
今度は少し長く、光が揺れる。
「この灯り、調子が悪いんですか?」
俺が尋ねると、エレナは振り返った。
「よく気づきましたね。少し前から軽い明滅が起きています。点検は予定されていますが、現時点では危険な兆候は確認されていません」
「そうなんですか」
「ただ、念のため近づかないでください。こちらで確認します」
エレナは俺を魔導灯から数歩離れた場所に立たせ、自分も距離を取った。
腰の道具袋から、小さな金属製の器具を取り出す。先端には透明な結晶がはめ込まれている。
「魔力の状態を確認します。少し待っていてください」
「分かりました」
俺は邪魔にならないよう、少し離れた位置から魔導灯を眺めた。
透明な石の表面には、目立った傷もひびもない。
金属の枠にも、特に異常は見当たらなかった。
それなのに、何かが気になった。
建物の図面を見ているときに、寸法が合わない部分を見つけたときのような感覚。
全体の形は整っている。
けれど、どこかに小さな違和感がある。
俺は無意識に、魔導灯の細部へと視線を向けていた。
結晶の輪郭。
金属の枠。
壁への固定部分。
それらの位置関係を頭の中で組み立てる。
その瞬間だった。
結晶の表面に、細い線が浮かび上がった。
「……あれ?」
目を細める。
線は一本ではなかった。
淡い金色の線が、結晶の表面を走っている。
そこから、結晶を支える金属の枠の一部へと伸びていた。
実際に傷があるわけではない。
指で触れられそうな凹凸もない。
それでも、そこに線があるように見える。
俺は視線を外せなかった。
線の一部が、奇妙な形をしていた。
途中で折れ曲がり、別の線と交わっている。そこから先は、流れが乱れているようにも見えた。
まるで、立体パズルの部品が正しい位置に収まっていないような。
そう感じた途端、頭の中で魔導灯の構造が組み上がっていく。
ただし、何が原因なのかは分からない。
見えている線が、何を意味しているのかも分からなかった。
「成瀬さん?」
エレナの声がした。
「何か見えましたか?」
「この結晶の表面に、線が見えるんです」
「線?」
「細い金色の線です。枠の方にも続いていて……この辺りで、少し乱れているように見えます」
俺は線のある場所を指した。
エレナはそこを確認する。
「……何もありませんが」
「え?」
「結晶に傷はありません。枠にも歪みは見当たりません」
彼女は手元の器具に視線を落とした。
先端の結晶が淡く光っている。
「ですが、魔力の流れは確かに偏っています」
「分かるんですか?」
「ええ。こちらの器具で確認できます。ただ、どこに原因があるのかまでは分かりません」
エレナは器具の反応を確かめながら、魔導灯との距離を保っていた。
俺はもう一度、結晶に目を向ける。
金色の線は、まだ見えている。
観測施設で見たものと似ていた。
あのときも、線の配置が少しずつ変わっていった。
そして、廊下全体を覆うように広がっていった。
「……これ、さっきより線が増えている気がします」
「線?」
「はい。最初よりも、少し複雑になっているような……」
エレナが顔を上げた。
「成瀬さん。念のため、もう少し離れてください」
「分かりました」
俺は言われたとおり、さらに数歩後ろへ下がった。
エレナは器具をしまい、片手を魔導灯へ向ける。
その直後だった。
魔導灯が大きく明滅した。
ぱち、と小さな音が響く。
透明な結晶の表面に、白い光が走った。
「下がって!」
エレナの声が飛んだ。
彼女が片手を前に出す。
薄い光の膜が、魔導灯と俺たちの間に広がった。
次の瞬間、結晶の内部で光が弾けた。
乾いた音とともに、灯りが消える。
破片が飛び散ったが、光の膜にぶつかり、乾いた音を立てて床に落ちた。
エレナは手を下ろし、すぐに周囲を確認した。
「怪我はありませんか?」
「はい。大丈夫です」
「よかった」
彼女は俺の無事を確認してから、慎重に魔導灯へ近づいた。
透明な結晶は、内部から細かく砕けていた。
その表面には、先ほど俺が見ていた線の形に沿うような細い亀裂が残っている。
「やはり、魔力の偏りが限界に達していたようですね」
「さっきの線と関係があるんでしょうか」
「あなたが指摘した場所と、破損した位置は近いです」
エレナは砕けた結晶を見つめていた。
それから、ゆっくりと俺の方を向いた。
「成瀬さん」
「はい」
「あなたには、何が見えていたんですか?」
答えようとした。
だが、言葉が出てこなかった。
さっきまで見えていた金色の線は、もうどこにもない。
視界に映るのは、壊れた魔導灯と、石造りの壁だけだ。
目をこすってみる。
何も変わらない。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい。傷があるように見えたわけでも、光が反射していたわけでもありません。ただ、そこに線が見えたんです」
「それは、いつからですか?」
「ここに来てから……いえ」
俺は少し考えた。
あの観測施設。
廊下の壁に浮かび上がった金色の線。
そして、今の魔導灯。
「日本にいたときにも、似たようなものを見たことがあります」
「どんなものを?」
「建物の中にあった、妙な模様です。最初はただの線だと思っていました。でも、あれも何かの構造を示しているように感じたんです」
エレナは俺をじっと見つめていた。
警戒しているというより、何かを確かめようとしているようだった。
「少し、確認したいことができました」
「確認?」
「あなたの目に何が起きているのか、もう少し詳しく調べる必要があります。あなたの意思を確認したうえで、必要な検査を進めたいと考えています。協力していただけますか?」
「もちろんです。俺も、何が起きているのか知りたいので」
「ありがとうございます」
エレナはそう言って、砕けた魔晶石を布に包んだ。
俺は、もう一度その場所を見た。
何も見えない。
さっきまで確かに存在していた、あの金色の線。
あれは一体、何だったのだろう。
建物の構造を頭の中で組み立てることは、昔から得意だった。
けれど、あんなものが見えたことは一度もない。
少なくとも、俺の知る限りでは。
「成瀬さん。こちらです」
エレナが歩き出す。
「はい」
俺はその後を追った。
異世界に来たこと。
言葉が通じること。
そして、今まで見えなかったものが見え始めていること。
帰る方法を探すためにも、まずは自分の身に何が起きているのかを知らなければならない。
俺の目にだけ見えていた、あの金色の線。
それが何を意味しているのか。
その答えは、まだどこにもなかった。




