第2話 知らない空と知らない言葉
最初に感じたのは、頬に触れる草の感触だった。
次に、風。
それから、目を開けるのが少し嫌になるくらいの明るさ。
「……ん」
ゆっくりと目を開く。
視界いっぱいに広がっていたのは、青い空だった。
雲が流れている。
どこまでも続いているような、見慣れない青空だ。
しばらく眺めてから、俺はようやく自分が地面に寝転がっていることに気づいた。
「…………」
起き上がる。
背中には土がつき、服には草が絡まっていた。頭が少し重い。身体のあちこちを確かめてみても、大きな怪我はなさそうだった。
右手。左手。足も動く。
首も回る。
「生きてるな……」
ひとまず、それだけは確認できた。
最後に覚えているのは、あの廊下だ。
金色の線が光り、扉が開いて、その向こうに草原が広がっていた。
そして、身体が前に引っ張られた。
そこから先の記憶はない。
試しに頬をつねってみる。
「痛っ」
夢ではないらしい。
できれば夢であってほしかった。
俺はポケットを探った。
スマートフォンは無事だった。画面にもひびは入っていない。
電源を入れると、いつもどおりの待ち受け画面が表示された。バッテリーも残っている。
ただ、画面の隅には圏外の文字があった。
「まあ、そうだよな」
地図アプリを開いてみる。
現在地を取得できません。
知っていた。
俺はスマートフォンをしまい、立ち上がった。
まずは周囲の確認だ。
草原には膝くらいまで伸びた草が広がっている。ところどころに小さな花が咲き、風が吹くたびに一斉に揺れた。
遠くに見える森。
なだらかな丘の向こうには、石造りの城壁がそびえている。その向こうには、屋根の連なる街並みも見えた。
見覚えのあるものは、何ひとつない。
「……どこだ、ここ」
当然の疑問が口から出た。
山間部の観測施設にいたはずだ。
少なくとも、こんな草原の真ん中で昼寝をしていた覚えはない。
海外という可能性も考えられるが、あの観測施設の内部から、これほどの草原に出られるはずがない。
建物の大きさも、外壁の位置も、俺自身が確認している。
ならば、考えられる可能性は。
「……異世界とか?」
口に出してみた。
途端に、馬鹿馬鹿しくなった。
漫画や小説ならともかく、現実でそんなことが起きるわけがない。
ただ、今の状況を説明できる言葉が、それくらいしか思いつかなかった。
異世界。
現実味のない言葉だ。
それでも、目の前の景色は現実味にあふれている。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くの森から鳥の鳴き声が聞こえる。
少なくとも、ここは俺の知っている世界ではなさそうだった。
俺は城壁を目指すことにした。
人が住んでいる場所なら、何かしら情報が得られるはずだ。それに、水も欲しい。
歩き始めて数分。
草原の中に、細い道が通っていることに気づいた。
舗装された道路ではない。土が踏み固められ、ところどころに車輪の跡らしきものが残っている。
誰かが日常的に使っている道なのだろう。
俺はその道に沿って歩き始めた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、家族とのチャット画面を開く。
最後に届いていたのは、妹からのメッセージだった。
『じゃあ無事に帰ってくること』
その下に、俺の『了解』がある。
たったそれだけのやり取りだった。
いつもなら、帰ったあとに妹からお土産がないと文句を言われて、母親からは夕食を食べたか聞かれる。
そんな何でもない日常が、急に遠いものに思えた。
「……帰らないとな」
誰に聞かせるでもなく、つぶやく。
ここがどこであろうと、帰る方法を探す。
それだけは決めておきたかった。
スマートフォンをしまい、再び歩き出す。
そのとき、道の先に何かが見えた。
木製の荷車だった。
大きな車輪が二つついていて、その前には見慣れない動物がつながれている。
馬に似ているが、首が少し太く、額には短い角のようなものが生えていた。
「……馬じゃないよな」
動物は荷車を引きながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
荷車の上には二人の人間が乗っていた。
一人は中年の男性。日に焼けた顔に短く刈った濃い茶色の髪、口元には短いひげがある。肩幅が広く、厚手の上着の上からでも体格のよさが分かった。
もう一人は、二十歳前後に見える女性だった。栗色の髪を後ろでひとつにまとめ、茶色の瞳でこちらを見ている。動きやすそうな服に短い外套を羽織り、腰には小さな道具袋を下げていた。
二人とも、こちらに気づいたようだった。
荷車が少し速度を落とす。
「おい、あんた。そんなところで何をしている?」
男性が声をかけてきた。
「……え?」
俺は思わず立ち止まった。
聞こえてきた言葉は、明らかに日本語ではなかった。
少なくとも、俺が知っているどの言語とも違う音の並びだ。
なのに。
意味が分かった。
何をしているのか、と聞かれた。
頭の中で翻訳したわけではない。聞き取れないはずの音が、意味を伴って理解できてしまった。
「どうした? 怪我でもしたのか?」
男性がもう一度尋ねる。
やはり分かる。
俺は自分の耳を疑った。
「すみません。今の言葉って、日本語じゃないですよね?」
「ニホンゴ?」
男性が眉を寄せる。
知らない単語らしい。
それでも、俺の言葉自体は相手に通じているようだった。
試しに、もう一度口を開く。
「俺の言葉も、そちらには通じているんですか?」
「何を言っているんだ。こうして話ができているだろう」
「……それは、そうですね」
そういう問題なのだろうか。
いや、会話が成立している時点で十分おかしいのだが。
男性の隣にいた女性が、少し身を乗り出した。
「あなた、自分の言葉が通じていることに驚いているの?」
「ええ。というか、そちらの言葉も理解できています。初めて聞く言葉なのに」
「変な人ね」
「自覚はあります。ただ、今の状況だと、どちらかというと周囲の方が変だと思います」
女性は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「それはそうかもしれないわね」
どうやら、話は通じるらしい。
ただし、通じている理由は分からない。
「どこから来たんだ?」
男性が尋ねた。
「日本です」
「ニホン?」
「東京のある国なんですけど」
「トウキョウという土地は聞いたことがないな」
男性は隣の女性と顔を見合わせた。
当然だ。
俺だって、この世界の地名をひとつも知らない。
「君、ひとりか?」
女性が荷車から降りてきた。
近くで見ると、彼女の服は実用性を重視したものだった。革製の靴は土で汚れ、腰の道具袋には使い込まれた跡がある。
「はい。気がついたら、あそこにいて」
「ここまで歩いてきたの?」
「ええ。街が見えたので」
「この辺りでひとりでいるのは危ないわ。森の近くでは魔物が出ることもあるから」
「魔物……」
「見たことがないの?」
「幸い、今のところは。できれば一生見ないままでいたいですね」
「それがいいと思うわ」
女性は真面目な顔で頷いた。
冗談が通じたのか、通じていないのか。
おそらく、どちらでもない。
ただ、魔物という単語は聞き捨てならなかった。
俺は森の方へ目を向けた。
遠くに見える、木々の濃い影。
さっきまで何とも思っていなかった景色が、急に不穏なものに見えてくる。
「……ちなみに、魔物というのは野生動物みたいなものですか?」
「似ているものもいるけれど、普通の獣とは違うわ。危険なものも多いから、近づかない方がいい」
「分かりました。今後の人生で参考にします」
「今後の人生?」
「いえ、こっちの話です」
そもそも、その今後の人生がどこにあるのかも分からない。
女性は俺の服装に目を向けた。
「それにしても、変わった格好をしているのね」
そこで初めて、自分の服装を意識した。
無地のシャツに薄手のジャケット。普通のスニーカー。
この二人の服装と比べると、確かに浮いている。
「旅人、というわけでもなさそうだな」
荷車の上から男性が言った。
「ええと、説明が難しいんです」
「難しいというのは?」
「どこから来たのか、自分でもうまく説明できないというか……」
「それはずいぶんと困った話だな」
「俺もそう思います」
男性は俺を眺めた。
その視線には、警戒が混じっている。
無理もない。
見知らぬ場所で、見知らぬ格好をした男が、どこから来たのかも分からないと言っている。
俺が反対の立場でも警戒する。
「このまま街道を歩かせるわけにもいかないわね」
女性が父親らしき男性に声をかけた。
「そうだな。街まで乗せていこう」
「いいんですか?」
俺が尋ねると、男性は少しだけ眉を上げた。
「このまま放っておくわけにもいかないだろう。ただし、門では事情を話してもらうぞ」
「もちろんです。ありがとうございます」
「俺はダリオだ。こっちは娘のリーナ」
「リーナです。よろしくね」
「成瀬透です。よろしくお願いします」
「ナルセ・トオルか。変わった名前だな」
「よく言われます」
少なくとも、この世界ではそうだろう。
リーナは父親の隣に戻り、荷車の席に腰を下ろした。俺も荷車の後ろに乗り込む。
木の板は少し硬く、座り心地は決してよくない。
それでも、歩くよりはずっとありがたい。
荷車が動き出す。
車輪が土の道を踏み、ゆっくりと城壁へ近づいていく。
「ところで、あの動物は馬ですか?」
俺は荷車の前につながれた動物を指した。
「ロークだ。馬とは違う」
「ローク……」
「荷を運ぶのによく使われる。大人しいからな」
ロークは、俺の視線に気づいたのか、首を少しだけ動かした。
額の短い角が目に入る。
「大人しいんですね」
「そうだ。よほどのことがなければ暴れたりはしない」
「よかった。さっきから、いつ頭突きされるかと身構えていました」
「ロークにそんなことをする理由がないだろう」
「動物の考えていることは分かりませんから」
「それは人間も同じだと思うけど」
リーナが口を挟んだ。
「……確かに」
妙に納得してしまった。
ダリオは前を向いたまま、小さく笑った。
荷車は草原を進んでいく。
改めて街を眺める。
高い城壁。石造りの塔。屋根の色も形も、見慣れた日本の建物とはまるで違う。
電線はない。
道路標識もない。
遠くに見える建物の屋根からは、細い煙が上がっていた。
中世ヨーロッパを舞台にした映画の中に入り込んだような光景だ。
ただ、映画と違うのは、そこに人の暮らしがあることだった。
誰かが火を起こし、誰かが荷物を運び、誰かが生活している。
それが、今の俺には何よりも不思議だった。
「そういえば、あなたはどこへ行くつもりだったの?」
リーナが尋ねた。
「とりあえず、街に行こうと思っていました」
「街に着いたらどうするの?」
「それを今から考えるところです」
「ずいぶん行き当たりばったりね」
「計画を立てられるほど、情報がありませんから」
「それもそうね」
リーナは少し考えてから、俺を見た。
「家族や知り合いは?」
その質問に、俺は一瞬だけ言葉を止めた。
「……います。日本に」
「ニホンに?」
「はい。両親と妹が」
「そう。なら、心配しているでしょうね」
「たぶん」
スマートフォンの画面に残っていた、妹のメッセージを思い出す。
母親からの連絡も、友人との会話も、今となっては遠い。
無事に帰る。
そう決めたばかりなのに、具体的に何をすればいいのかは分からない。
「帰りたい?」
リーナが、少し声を落として尋ねた。
「帰りたいですよ」
考えるまでもなかった。
「まあ、そうよね」
彼女はそれ以上、踏み込んでこなかった。
その気遣いはありがたかった。
俺は視線を前に戻す。
城壁が、少しずつ近づいてくる。
門の前には、荷車や馬に乗った人たちが並んでいた。武器を携えた兵士らしき人影も見える。
街に入るには、何かしら手続きが必要なのだろう。
「そういえば、ここは何という街なんですか?」
「王都アステリアだ」
ダリオが答えた。
「アステリア……」
「ヴァルネリア王国の中心だ。ここまで来れば、ひとまず困ることはないだろう」
王都。
王国。
聞き慣れた言葉のはずなのに、どこか現実感がない。
少なくとも、観光地の案内を聞いているわけではないのは確かだった。
「透さんは、文字も読めるの?」
リーナが尋ねた。
「日本語なら読めます」
「ニホンゴ?」
「俺の国で使われている言葉です」
「へえ。じゃあ、この国の文字は?」
「……まだ見ていませんね」
そう答えた直後、街道脇に立てられた木製の看板が目に入った。
黒い文字のようなものが、いくつも並んでいる。
形は見たことがない。
しかし、言葉を理解できるのなら、文字も読めるのだろうか。
俺は看板を見つめた。
読めない。
何度見ても、見慣れない記号の並びにしか見えなかった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「いや、何でもありません」
耳から入る言葉は分かる。
けれど、目で見た文字は理解できない。
この違いは何なのだろう。
言語が通じることそのものも不可解だが、どうやら何でも都合よく解決してくれるわけではないらしい。
「文字は読めないみたいですね」
「まだ習っていないのなら当然だろう」
ダリオが言った。
「そういうものですかね」
「違うのか?」
「いえ、たぶん合っています」
説明するのが面倒になった。
俺は看板から目を離し、城門へ視線を戻した。
門は想像していたよりも大きかった。
左右には石造りの塔があり、入口の両側には槍を持った兵士が立っている。
荷車の列は少しずつ進み、やがて俺たちの番が回ってきた。
「ダリオ。次はあんたたちか」
門番の一人が声をかける。
「ああ。荷を運んできた。それと、少し事情のある客もな」
「事情のある客?」
門番の視線が、荷車の後ろにいる俺へ向いた。
俺は軽く頭を下げる。
「こんにちは」
門番は俺の服装を見て、眉をひそめた。
「……その男は何者だ?」
ダリオが説明する。
「草原の街道で見かけた。ひとりで歩いていてな。話を聞いてみたが、どうにも出身地が分からん」
「出身地が分からない?」
「本人はニホンという国から来たと言っている」
「ニホン?」
門番は聞き慣れない地名に首を傾げた。
それから、俺をじっと見た。
「身分を証明できるものはあるか?」
「ありません」
「通行証も?」
「持っていません」
「では、名前と出身地を聞こう」
俺は一度息を吸った。
ここで適当なことを言っても、後から困るだけだ。
「成瀬透です。日本から来ました」
門番は俺の言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「……日本という国は、どこにある?」
「この国から見てどこにあるのか、と聞かれると……俺にも分かりません」
門番の表情が変わった。
隣にいたもう一人の兵士も、こちらへ視線を向ける。
何かまずいことを言っただろうか。
ただ、質問に正直に答えただけなのだが。
門番は俺の服装と顔を見比べ、それからダリオに視線を移した。
「ダリオ。この男をどこで見つけた?」
「さっきも言っただろう。街道の途中だ」
「そうか……」
門番は隣の兵士に目配せした。
兵士は小さく頷くと、詰所の方へ歩いていく。
その様子を見て、俺はようやく自分が簡単には街へ入れない状況になったことを理解した。
「何か問題でも?」
俺が尋ねると、門番はすぐには答えなかった。
「確認したいことがある。少し詰所まで来てもらおう」
どうやら、街に入る前に面接が始まったらしい。
しかも、履歴書はない。
「……分かりました」
俺は荷車から降りた。
青空の下、目の前には大きな城門がある。
帰る方法を探すためにも、まずはこの世界のことを知らなければならない。
どうやら、その第一歩は思っていたよりも面倒なものになりそうだった。




