第1話 図面にない廊下
その廊下は、建物の中に存在するはずがなかった。
図面に記載はない。
外から確認しても、そこに空間があるはずはない。
それなのに、俺の目の前には古びた扉があり、その向こうには一本の廊下が伸びていた。
最初に考えたのは、図面の方が間違っているという可能性だった。
建物の構造が間違っているなんてことは、普通ない。
少なくとも、建築を学んでいる大学生としては、そう考えるのが自然だった。
「……さて」
俺は手元の図面を広げ、建物の外観を見上げた。
場所は、山間部に建てられた旧天文観測施設。
十数年前に閉鎖され、現在は自治体が管理している。今回ここを訪れたのは、大学のゼミで行う実測調査のためだった。
古い建築物の寸法を測り、図面と実際の構造を照らし合わせる。建物がどのように使われ、どこに手が加えられたのかを確認する課題だ。
調査自体は、特別珍しいものではない。
ただ、俺はこういう作業が嫌いではなかった。
建物の図面を見るのも、実際にその中を歩き回るのも好きだ。趣味で立体パズルを買ったり、脱出ゲームに参加したりすることもある。
旅行先でも、観光名所より妙な構造の建築物に目が向いてしまうことがあるくらいだ。
友人には、もう少し普通の趣味を持てと言われた。
余計なお世話である。
玄関脇の窓ガラスに、自分の姿が薄く映っていた。
短めの暗い茶色の髪は、朝に整えたはずなのに、山道を歩いてきたせいか少しだけ乱れている。前髪を指で直すと、灰色がかった茶色の目と目が合った。
無地のシャツに薄手のジャケット。動きやすさを優先しつつ、最低限の身だしなみには気を使っている。
特別目立つ格好ではないが、かといって自分の見た目をどうでもいいと思っているわけでもない。
まあ、大学生として普通に整えているつもりだ。
ポケットのスマートフォンが震えた。
画面を見ると、家族のグループチャットにメッセージが届いていた。
『帰り遅くなる? 暗くなる前に気をつけてね』
母からだった。
続けて、妹からもメッセージが届く。
『お土産よろしく』
調査に来ているのは廃観測施設であって、観光地ではない。
『何も買う場所ないと思う』
そう返すと、すぐに返信があった。
『じゃあ無事に帰ってくること』
注文が急に現実的になった。
『了解』
短く返してスマートフォンをしまう。
帰りの時間を考えると、そろそろ調査を切り上げるべきだろう。
そう思ったところで、背後から声がした。
「透、そろそろ戻るぞ」
振り返ると、同じゼミの友人がカメラを肩にかけて立っていた。
「もうそんな時間か」
「もうそんな時間だよ。お前、さっきからずっと同じところにいるだろ」
「いや、ちょっと気になるところがあって」
「気になるところ?」
「保管庫の北側。壁の厚みが図面と合わないんだよ」
「古い建物なんだから、そんなもんじゃないのか?」
「まあ、普通はそうなんだけどな」
俺は施設の北側を指した。
「管理の人には確認したのか?」
「さっき聞いた。この先にある区画も調べていいかって」
「で?」
「立ち入り禁止の設備がなければ構わないってさ。ただ、奥に何があるかまでは把握してないらしい」
「ずいぶん大雑把だな」
「古い施設だからな。使われてない場所も多いんだろ」
「じゃあ、俺は先に管理棟に戻ってるぞ。先生たちもそっちにいるから」
「分かった。あんまり遅くならないようにする」
「その台詞、信用していいのか?」
「もちろん。俺を誰だと思ってる」
「時間の感覚がちょっと壊れた建築オタク」
「正確な評価をありがとう」
友人は笑いながら建物を出ていった。
俺はもう一度、図面を確認する。
やはり、北側の壁には扉の記載がない。
もっとも、古い建物だ。図面に残されていない改修や、後から設置された設備があってもおかしくない。
それならそれで、調査の収穫にはなる。
俺は保管庫へ向かった。
そこには、使われなくなった観測機材や古い備品がまとめて置かれている。埃の匂いが強く、窓から差し込む午後の光が、床に細長い影を落としていた。
その奥。
壁際に積まれた機材の陰に、古い扉があった。
塗装は剥がれ、金属の取っ手には錆が浮いている。
この場所は保管庫の北側だ。
手元の図面によれば、この先は外壁になっている。
「……こんなところに扉があったのか」
俺は図面と扉を見比べた。
やはり記載はない。
管理担当者からは、この区画の確認について許可を得ている。扉の存在自体は把握されていなかったが、危険な設備がなければ調査して構わないとのことだった。
さすがに、何も考えずに開けるつもりはない。
扉の周囲を確認し、異常がないことを確かめてから取っ手に手をかける。
ぎい、と錆びた金属が音を立てる。
扉は、思ったよりも簡単に開いた。
その先には、廊下があった。
幅は一・五メートルほど。壁はくすんだ白色で、床には薄く埃が積もっている。
天井には古い照明器具が並んでいたが、電源が生きている様子はない。
奥は暗く、突き当たりが見えなかった。
扉の向こうに部屋があるなら、まだ分かる。
だが、そこにあるのは廊下だった。
しかも、この建物の内部に収まるはずのない方向へ伸びている。
俺は一度、廊下の入口から顔を出し、壁の厚みを確認した。
外壁にしては薄い。
かといって、単なる間仕切り壁にしては妙な位置だ。
増築か、あるいは古い設備用の通路か。
いくつか可能性を考えながら、レーザー距離計を取り出した。
まずは廊下の幅。
一・四八メートル。
次に入口から突き当たりまで。
測定エラー。
角度を変える。
測定エラー。
「機械の方が先に帰りたがってるな」
軽く息を吐く。
距離計を疑って、手前の壁を測ってみた。こちらは問題なく数値が表示される。
故障ではないらしい。
俺は廊下の中へ足を踏み入れた。
一歩。
二歩。
床が軋むこともない。
壁に目立った損傷もなく、長い間閉ざされていた場所にしては妙に状態がいい。
十歩ほど進んだところで、振り返ってみる。
入口は、まだ見えている。
そのままさらに進む。
二十歩。
三十歩。
「……長いな」
足を止めた。
図面上では、この廊下があったとしても四メートル程度しか収まらない。
だが、今歩いた距離は明らかにそれを超えている。
俺はスマートフォンを取り出し、建物の平面図を拡大した。
保管庫の位置。
北側の外壁。
建物の外周寸法。
頭の中で、それぞれの位置関係を組み立てる。
こういう作業は昔から好きだった。
立体パズルの部品を頭の中で回転させるように、建物を少しずつ組み立てていく。
この壁の向こうには何があるのか。
天井の高さは。
床の位置は。
壁の厚みは。
ひとつずつ条件を当てはめていけば、普通はどこかで答えが出る。
ところが、今回はどうやっても答えが合わなかった。
廊下の先に空間があるとすれば、建物の外壁を突き抜けている。
外壁があるとすれば、この廊下は途中で行き止まりになっているはずだ。
どちらかがおかしい。
ただ、目の前の廊下は確かに続いていた。
「……一回、外から確認するか」
俺はそうつぶやいて、来た道を戻った。
保管庫を出て建物の北側へ回る。
そこには、傾斜のついた地面と、古いコンクリートの外壁があるだけだった。
扉のある場所を外側から確認する。
何もない。
少なくとも、扉や窓らしきものは見当たらなかった。
壁の位置を目測し、先ほどの図面と照らし合わせる。
やはり、廊下があるはずの場所には外壁がある。
俺はしばらくその場に立ち尽くした。
「……どういうことだ?」
増築ではない。
隠し部屋でもない。
単純な図面の間違いにしては、建物の外観と内部の寸法が一致しすぎている。
では、この廊下は何なのか。
考えても答えは出ない。
けれど、こういうときに考えるのをやめるのは、あまり性に合わなかった。
俺は保管庫へ戻った。
扉は、さっきと同じように開いていた。
廊下も変わっていない。
変わっているとすれば、少しだけ奥が明るく見えることくらいだ。
俺は再び中へ入った。
今度は壁や床の様子を注意深く観察する。
特別な装飾はない。
古い建物にありがちな、簡素な内装だ。
ただ、廊下の奥に近づくにつれて、壁の表面に奇妙なものが見えてきた。
細い線だった。
最初は、ひび割れだと思った。
しかし、違う。
線は壁の表面を不規則に走っているようでいて、よく見ると一定の規則に従っている。
縦に伸びた線が、途中で折れ曲がる。
そこから別の線が分岐し、床へと続いていく。
まるで、複雑な立体図形を平面に展開したような模様だった。
「……誰がこんなの描いたんだ」
指先で触れてみる。
何もない。
凹凸も、塗料の盛り上がりも感じられなかった。
ただの模様にしては妙だ。
俺は少し離れて、廊下全体を眺めた。
その瞬間、妙な感覚がした。
この線は、装飾ではない。
何かの構造を示している。
理由は分からない。
けれど、そう考えた途端、頭の中で廊下の形が組み替わり始めた。
壁と床。
天井と、その奥にあるはずの空間。
それらを別々のものとして見るのではなく、ひとつの構造として捉える。
線が何を示しているのか、無意識に考えていた。
これは建物の図面ではない。
もっと大きな何かの一部だ。
そう思ったときだった。
廊下の線が、淡く光った。
「……え?」
細い線の一本一本が、壁の表面から浮き上がるように輝いている。
白ではない。
青でもない。
淡い金色だった。
同時に、耳の奥で低い音が響いた。
地鳴りに似ている。
だが、建物が揺れているわけではない。
音だけが、頭の内側に直接響いてくるようだった。
「いや、ちょっと待て」
俺は一歩下がった。
線は増えていた。
壁だけではない。床にも、天井にも、同じような幾何学模様が広がっている。
それらが互いにつながり、廊下全体を覆っていく。
その様子を見ているうちに、妙なことに気づいた。
線の配置が、少しずつ変化している。
いや、変化しているというより、組み上がっている。
ばらばらだった部品が、正しい位置を探すように動いていく。
まるで、巨大な立体パズルを誰かが解いているみたいだった。
俺の頭の中でも、同じように構造が組み上がっていく。
これは何なのか。
何をつなごうとしているのか。
そして、この廊下はどこにつながっているのか。
答えが形になりかけた、そのとき。
廊下の突き当たりに、扉が現れた。
最初からそこにあったのかもしれない。
だが、さっきまでは壁にしか見えなかった場所だった。
扉の周囲を金色の線が囲んでいる。
その隙間から、光が漏れていた。
俺は息を呑んだ。
扉の向こうから、風が吹いてくる。
古い建物の埃っぽい空気とは違う、草の匂いがした。
この先に何があるのか。
確かめたい。
そう思う自分がいた。
同時に、これ以上近づいてはいけないと警告する自分もいた。
好奇心と危機感。
どちらを優先するべきかは、考えるまでもない。
「……帰ろう」
俺は踵を返そうとした。
その瞬間、扉が音もなく開いた。
向こう側に広がっていたのは、部屋ではなかった。
どこまでも続く草原。
遠くには石造りの城壁がそびえ、その向こうに見慣れない建物の屋根が並んでいる。
風に揺れる草。
空を流れる雲。
そして、地平線の近くを横切る大きな影。
俺は立ち尽くした。
景色そのものが、現実だった。
映像のような平坦さはない。
風が吹いている。草が揺れている。
こちらまで、土と草の匂いが届いている。
俺は建築を学んでいる。
空間の広がりや距離感については、それなりに勉強してきたつもりだ。
だからこそ、目の前にある光景がどれほど異常なのか、嫌というほど理解できた。
ここは建物の中だ。
外から見た建物の大きさも知っている。
この先に、こんな景色が広がる空間は存在しない。
「……いや、待て」
言葉がうまく出てこなかった。
夢か。
幻覚か。
何かの仕掛けか。
頭の中にいくつもの可能性が浮かんでは消えていく。
どれも、目の前の景色を説明できない。
そして、ようやくひとつの考えに行き着いた。
――ここは、別の場所なのではないか。
あまりにも突飛な考えだった。
けれど、そう考える以外に説明がつかない。
そのとき、床に広がっていた金色の線が、一斉に明るさを増した。
「っ!」
低い音が大きくなる。
廊下全体が震えた。
足元の感覚が揺らぎ、目の前の景色が歪んでいく。
俺はとっさに壁へ手を伸ばした。
しかし、指先が触れる寸前、壁は水面のように揺らいだ。
そこにあるはずの硬さがない。
床も、天井も、すべてが曖昧になっていく。
「嘘だろ……!」
身体が前へ引っ張られた。
踏ん張ろうとする。
だが、足が床を捉えない。
扉の向こうの草原が、急速に近づいてくる。
いや、違う。
俺の方が、向こうへ引き寄せられている。
「待っ――」
声は最後まで出なかった。
視界が白く染まる。
上下も、前後も分からない。
自分がどこにいるのかさえ、曖昧になっていく。
最後に見えたのは、見知らぬ草原と、その向こうに広がる青い空だった。
そして、俺の意識は途切れた。




