第四話 動いたのは肖像ではなく
人間は、説明されたからといって、すぐに納得できる生き物ではない。
理屈が通っていることと、胸の奥に根を張った不安が抜けることは、まったく別の話である。むしろ、人間というものは厄介なもので、理屈によって逃げ道を塞がれたときほど、最後の抵抗として感情を握りしめることがある。
怖かったのだ。
気味が悪かったのだ。
あれは本当に、こちらを見ていたのだ。
そう思った時間そのものを、なかったことにはできない。
だから化野は、説明だけで済ませる気はなかった。
説明は、言葉である。
再現は、経験である。
そして人間は、自分の目で見たものには、存外弱い。
「では、皆を呼びましょう」
伯爵はそう言った。
声は落ち着いていたが、指先は硬く握られている。
年経た華族の男として、使用人たちの前で取り乱すことはしない。けれど、あの肖像画を前にしたときだけ、わずかに呼吸が浅くなる。
化野はそれを見て、口元だけで笑った。
「伯爵がそう仰るなら。怪異の終わりっていうのは、当事者が見届けた方がいいですからねえ」
「終わるのか」
「終わらせたいんでしょう?」
軽い調子だった。
だが、その言葉を受けた伯爵の目が、ほんの一瞬だけ変わる。
──終わらせる。
それは、化野が現象に向けて言った言葉ではない。
この屋敷に広がった噂と、恐怖と、代々の当主の肖像に押しつけられた意味を、いまの家長である伯爵自身が終わらせる、という意味だった。
伯爵はしばらく黙り、それから女中へ視線を向けた。
「皆を呼びなさい。知子もだ」
「お嬢様も、でございますか」
「ピアノを弾いている本人がいなければ、話にならん」
女中は小さく頭を下げ、足音を忍ばせて廊下を離れた。その背を見送りながら、化野は袖の内側から小さな手帳を取り出した。
紙の端は湿気を吸って、わずかに反っている。こういう夜は、紙も木も布も、素直に空気の影響を受ける。
それなのに、人間だけが、自分は空気や湿度と無関係に生きているような顔をしたがる。
(そこが面白いところなんだが……と)
化野は手帳に短く書きつけた。
《伯爵邸にて。築年数は四十年を超えるも、骨組みは当時のまま。
湿度の上昇、壁面の歪み、単一釘による額縁支持。
令嬢の夜間のピアノ練習。
使用人間では肖像が「見ている」「近づいている」と解釈。》
書き終えたころ、廊下の向こうから人の気配が近づいてきた。
女中が数人。年配の執事。
そして、白い夜着の上に薄いショールを羽織った少女。
彼女がご令嬢である、知子なのだろう。
年は十五、六ほど。
背筋は伸びているが、目元には眠気よりも緊張が強く出ていた。伯爵家の令嬢として躾けられた所作は崩れていないものの、視線は何度も肖像画へ吸い寄せられている。
「お父様」
知子は伯爵の隣で足を止めた。
「私のピアノが、なにか」
「この方が確かめたいそうだ」
伯爵は短く答えた。
知子の視線が、化野へ向く。
月下美人の描かれた派手な着物。どこかだらしなく見える立ち姿。けれど、目だけは笑っていない。
そのちぐはぐさに、知子は少し戸惑ったようだった。
「化野幽です。民俗学者で、作家で、たまに新聞記者もやっています。どれも真面目にやっているかと問われてしまえば、いやはや、返答に困るところなのですが」
「……学者先生、なのですか」
「一応は」
「一応」
知子が小さく繰り返す。
その反応が気に入ったのか、化野は少しだけ口角を上げた。
「肩書きは、あまり信用しない方がいいですよ。人間は肩書きがつくと、急に中身まで立派になったような顔をしますからねえ」
「化野君」
伯爵の声が少し低くなる。
「ああ。いや、失礼しました」
化野はまったく反省していない顔で、軽く頭を下げた。それにより、場の空気が、わずかに緩む。
それは、いまこの場に必要な緩みであった。
恐怖で固まった場所では、まず人間の呼吸を戻さなければならない。
呼吸が戻れば、目が動く。
目が動けば、観察ができる。
化野は肖像画の前に立った。
「さて。先に言っておきますが、この肖像画は確かに動いています」
女中たちの間に、細いざわめきが走る。
伯爵は眉を動かさない。
知子は唇を結ぶ。
「ただし、皆さんが思っているような意味ではありません。初代当主がなにかに怒っているわけでも、夜ごとに見回りなんかをしているわけでもない」
化野は額縁を指差した。
「原因は、この家そのものにあります」
その言葉に、伯爵の表情がわずかに硬くなる。
家そのもの。
華族の男にとって、それは単なる建物を指す言葉ではない。血筋であり、財産であり、体面であり、守るべきものの総称だった。
化野は、その反応を見逃さなかった。
だが、踏み込みすぎない。
今はまだ、怪異の皮を剥がす段階である。
「まず、こちらをご覧ください」
化野は額縁の下部に指を添えた。
「この肖像画は、一本の釘で吊られています。額縁は重い。にもかかわらず、支える点はひとつです。つまり、わかりやすく言いますとね、左右へ揺れやすいんですよ」
指先で額縁を軽く押すと、肖像画が揺れる。
女中のひとりが、小さく息を呑んだ。
「次に壁です。見た目には整っていますが、完全な平面ではありません。長い年月で、木材は湿気を吸い、乾き、また吸う。そうして少しずつ歪みが出る」
壁を指先でなぞる。
「そして今夜のような湿った夜には、木材も釘も、昼間とは少し違う状態になります」
「それで、動くのですか」
知子が問う。
声は震えていない。
怖がってはいるが、問いを立てる力は残っている。
化野は知子へ視線を向けた。
「それだけでは、まだ足りません」
「足りない?」
「ええ。そこで、知子さんのピアノの音です」
知子の顔が、はっきりと強張った。
「私のせい、なのですか」
「いいえ」
化野は即答した。
そこは濁さない。
「あなたのせいではない。あなたのピアノは、ただの条件のひとつです。罪と条件は、言葉の意味も性質も、まったくの別物ですからね」
知子は、しばらく化野を見つめた。
伯爵もまた、わずかに視線を動かす。
女中たちのざわめきが、少しだけ沈む。
「音は、空気だけを伝わるわけではありません。床、柱、壁。屋敷の構造そのものを、ほんのわずかに震わせます」
化野は床を軽く踏んだ。
「人間には感じ取れないほど小さな振動でも、不安定に吊られた額縁には影響する。まして、同じ時間に、同じような打鍵が毎晩続けば、位置は少しずつ変わる」
「では……私が弾かなければ」
「今度は別の何かで動くかもしれませんよ」
化野は肩をすくめた。
「風。人の足音。扉の開閉。荷物を運ぶ振動。古い家は、人間が思っているよりずっと敏感です」
そこで、伯爵が口を開いた。
「ならば、なぜ今になって騒ぎになった」
その問いは、責めではなかった。
むしろ、彼自身が納得へ近づくための最後の足場を探しているようだった。
化野は、ゆっくりと肖像画を見上げる。
「たぶん、誰かが最初に気づいたんでしょうね」
「気づいた?」
「ええ。昨日と位置が違う、と」
化野は廊下を見回した。
「一度そう認識すると、人間は次から確認するようになります。確認すれば、差異を探す。差異を探せば、見つけてしま。見つければ、意味を与えてしまう」
静かに言葉を続ける。
「そして、この肖像画は見事に〝見ている〟」
女中たちの視線が、自然と肖像画へ向いた。
初代当主の瞳は、変わらずこちらを向いている。
正面から見ても。
横から見ても。
少し離れても。
その視線は、逃げない。
「肖像画としては、よくできているもんですよ。どこから見ても視線が合うように描かれている。昼間なら技巧で済む。けれど夜になると、それは監視に変わる」
化野は小さく笑った。
「人間の頭の中では、という意味ですがね」
誰も笑わなかった。
だが、誰も否定もしなかった。
それでいい。
「では、再現しましょう」
化野はそう言って、知子へ向き直った。
「ご令嬢。いつも通りに、一曲弾いていただけますか」
「ここで、ですか」
「いえ。普段通りの部屋で。普段通りの強さで。普段通りの時間に近い形で」
知子は伯爵を見る。
伯爵は少し迷った後、頷いた。
「弾きなさい」
「はい」
知子は小さく頭を下げ、女中に伴われて廊下の奥へ向かった。
しばらくして、遠くの部屋からピアノの音が届き始める。
――とん。
――とん。
――とん。
規則的な打鍵。
夜の屋敷は、その音をよく通した。
音そのものは遠い。けれど、床の下、柱の奥、壁の内側で、目に見えない細い震えが続いている。
化野は額縁の下に、手帳の一頁をちぎって作った細い紙片を差し込んだ。
「これは?」
伯爵が問う。
「位置を見るための目印です。動いたかどうかは、人間の記憶より紙の方が信用できます」
化野はさらりと言った。
しばらく、誰も口を開かなかった。
ピアノだけが鳴る。
廊下は湿気を含み、灯りはわずかに揺れ、初代当主の肖像は相変わらずこちらを見ている。
そして、ほんのわずかに額縁が動いた。
額縁の位置が、ずれる。手帳の頁の切れ端は、床に静かに落ちてゆく。
なんてことはない、小さな出来事。
だが、怪異というものは、たいていそういう小さな変化から育つ。
「……動いた」
女中のひとりが呟いた。
恐怖ではなく、驚きの声だった。
化野は頷く。
「動きましたねえ」
「本当に……音なんかで?」
「音というより、振動です。正確には、湿度で緩みやすくなった支持点に、構造を伝った微振動が重なった」
言葉を切り、伯爵を見る。
「つまり、先祖が動かしているのではありません」
伯爵は肖像画を見ていた。
長い沈黙が落ちる。ピアノは、まだ続いている。
その音の中で、伯爵の表情から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……では、我が家の者たちが、ただ勝手に怯えていただけなのか」
その声には、自嘲が混じっていた。
化野は首を横に振る。
「勝手に、ではありません」
伯爵が化野を見る。
「怖いものを怖いと感じるのは、自然なことです。暗い廊下。見ている肖像。昨日と違う位置。古い屋敷。先祖という名前。条件が揃えば、人間はそう感じる」
化野は、少しだけ声を低くした。
「ただし、怖いと感じることと、怪異であることはまったく別です」
伯爵は黙っていた。
女中たちも、知子のいない廊下で、その言葉を聞いていた。
「この肖像画は、あなた方を見ていたわけではない。ただ、そう見えるように描かれていて、そう感じやすい夜に、そう感じやすいだけ動いた」
化野は額縁から手を離す。
「動いたのは、肖像ではなく、条件です」
ピアノの音が止まった。
不意に、屋敷が静かになる。
さきほどまで重かった沈黙とは、少し違う静けさだった。
恐怖で音を殺していた静けさではない。それぞれが、いま見たものを頭の中で並べ替えている沈黙だった。
伯爵は、長く息を吐いた。
「……修繕が必要だな」
「ええ。まずは釘を替えて、固定点を増やすことです。壁も見てもらった方がいい。貴重な肖像画が落ちてからでは、遅いですからねえ」
「落ちるのか」
「このままなら、いつかは」
化野はなんでもないことのように言う。
「怪異より、額縁の落下の方がずっと危ないってもんです」
その言葉に、女中のひとりが小さく笑った。
すぐに口元を押さえたが、笑いは確かにそこに生まれた。
伯爵もまた、わずかに目を伏せる。
「……そうか。先祖の怒りではなく、我が家の手入れ不足か」
「言い方を選ばなければ、そうなりますねえ」
「君は、少しも言葉を選ばんのだな」
「ああ、すみませんね。選んだ結果が、これでして」
伯爵は一瞬だけ化野を見て、それから低く笑った。
その笑いは小さかったが、廊下の空気を少しだけ軽くした。
遠くから、知子が戻ってくる足音がする。
女中たちは、先ほどよりも自然に動いていた。音を殺しすぎることもなく、肖像画から目を逸らしすぎることもない。
化野はそれを確認して、手帳を閉じた。
(ひとまず、分析はこれで済んだかな)
だが、これで終わりではない。
怪異の正体を暴くことと、その怪異がなぜこの家で育ったのかを見届けることは、別の作業である。
化野は肖像画を見上げた。
初代当主は、相変わらずこちらを見ている。
その視線はもう、幽霊めいてはいなかった。
ただ古い家の壁に掛けられた、よく出来た絵の視線でしかない。
けれど伯爵だけは、まだ少し違う顔でそれを見ていた。
恐怖ではなく、畏れでもない。
もっと古く、もっと重いもの。
家の重さを、ひとりで抱え続けてきた人間の顔だった。
化野はその横顔を見て、ゆるく目を細める。
(さて。動いていたのは、本当に肖像だけだったのかね)
怠慢を自称する民俗学者は、そこでようやく、この家に残った最後の意味へと目を向けた。




