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第五話 見ていたもの

 人間は、物が壊れることよりも、意味が崩れることを恐れる。


 柱が歪む。

 釘が緩む。

 壁が湿気を吸い、乾き、また膨らむ。

 それらは建物であれば当然に起きる変化であり、時間が流れている以上、避けられない現象である。


 けれど、人間はそこに別のものを重ねてしまう。

 家が傾く。

 血筋が衰える。

 先祖が見ている。

 過去が、今を責めている。

 そう考えた瞬間、ただの修繕箇所は、急に〝家の不吉〟へと姿を変える。


 化野幽は、必ずしもそういう人間の面倒臭さを嫌ってはいない。

 むしろ、そこにこそ、民俗学者としての(たの)しみがあると考えている節があった。


 現象そのものは、実のところ、たいして珍しくない。珍しいのは、現象に貼りつけられた意味の方である。

 そして意味というものは、剥がしたあとにも、薄い糊のように残るものだ。

 

 翌朝、伯爵邸の廊下には、前夜とは違う明るさが満ちていた。

 夜のあいだ湿気を含んで重く沈んでいた木の匂いは、朝の空気に少しだけ薄められている。窓から差し込む光は壁面の歪みを隠さず、むしろ淡く浮かび上がらせていた。


 肖像画は、一旦、壁から外されていた。

 外された初代当主は、廊下の壁ではなく、布を敷いた台の上に横たえられている。そうなると、昨夜まであれほど人間を見ていたはずの瞳も、妙に無防備に見えた。

 縦に掛けられていたものが横になるだけで、威厳というものは案外簡単に薄れる。


(この肖像と人間は、似たようなものだな)


 化野はそんなことを考えながら、台の上の額縁を覗き込んだ。

 額の裏は、見た目以上に傷んでいた。表側の装飾は立派だが、裏の留め具は古く、釘を受けていた部分には細かな摩耗がある。


 壁の釘穴も、同じだった。

 ひとつの場所に力がかかり続けた結果、穴はわずかに広がり、夜ごとの湿気と振動に従って、額縁を少しずつ逃がしていたのだろう。


「まったく。ひどい有様だな」


 伯爵が低く言った。

 昨夜よりも、声に力が戻っている。

 ただし、その力は怒りではない。諦めでもない。ようやく現物を見た人間の、少し苦い納得だった。


「まあ、四十年以上働かされた釘にしては、充分に働いた方じゃないですかねえ」


 化野は、しゃがみ込んだまま答えた。

 そして、続ける。


「フム。人間なら、そろそろ文句を言って寝込んでもおかしくない年頃……」

「釘と人間を同列に語るのか」

「支える役目を押しつけられて、壊れるまで気づかれないところなんかは、似たようなものでしょう」


 伯爵は黙った。

 それは冗談として受け流してもよい言葉だったが、どうやら、うまく流せなかったらしい。


 化野は、わざとそれ以上は続けなかった。

 踏み込むべき場所と、踏み込まない方が面白い場所がある。今は後者だった。


 廊下の端では、年配の執事が職人と話している。壁の補修、額縁の固定方法、湿気対策。そんな実務的な言葉が交わされている。

 昨夜まで「先祖が見ている」と囁かれていた場所で、今は「固定点を増やす」「壁裏を確認する」「湿気を逃がす」という言葉が使われている。


 怪異(オカルト)の解体とは、こういうことだ。

 恐ろしい名前を、扱える言葉に置き換える。


 幽霊、祟り、先祖の怒り──

 そう呼ばれていたものを、釘、壁、湿度、振動へ戻してやる。

 ただ、それだけである。


 それだけのことが、人間にとっては案外難しい。


「化野先生」


 声をかけてきたのは、知子だった。

 昨夜の夜着ではなく、きちんとした洋装に着替えている。髪も整えられ、伯爵令嬢としての姿に戻っていたが、目元にはまだ少し眠気が残っていた。


「先生、は余計です。学者というのは、先生なんて呼ばれた途端、急に偉そうになる人種ですから」

「では、化野様」

「それも少し仰々しいですねえ」

「……化野さん」

「ええ、ええ。それくらいが丁度いい」


 知子は困ったように瞬きをして、それから小さく笑った。

 昨夜、ピアノのせいではないと即答されたときから、彼女の中で何かがほどけたのだろう。笑みはまだ控えめだったが、少なくとも、自分が先祖の肖像を動かしてしまった罪人である、という顔ではなかった。


「昨夜のことですが」

「はい」

「私は、これからもピアノを弾いてよいのでしょうか」


 化野は、少しだけ首を傾けた。


「伯爵家の規則としてどうか、という話なら、私が決めることではありません」

「いえ、そうではなく」


 知子は言葉を探すように、台の上の肖像画を見た。


「私が弾くことで、また何かが起きるのではないかと」

「起きるでしょうね」


 化野はあっさり言った。知子の顔が強張る。

 横で聞いていた伯爵も、わずかに視線を動かした。

 化野は、そこで口元だけを緩める。


「音を出せば、空気は震えます。床も壁も、わずかに震える。だから、何かは必ず起きる。ただし、それが悪いこととは限らない」

「悪いこととは、限らない……」

「ええ。楽器というのは、そもそも振動で人間の感情を動かす道具でしょう。なら、家を少し震わせたところで、なんの問題がございましょうか」


 知子はしばらく化野を見ていた。

 その言葉が慰めなのか、からかいなのか、判断しかねているようだった。

 おそらく、どちらでもある。

 そして、どちらでもない。


「ただし」


 化野は台の上の額縁を指した。


「物は、手入れしないと壊れます。音が悪いのではなく、受ける側が弱っていた。それだけです」

「受ける側が」

「ええ。だから、弾くなら弾く。直すところは直す。それでいいと思うんですよ、私は」


 知子は、ゆっくりと頷いた。

 若い人間は、ときに物事をまっすぐ受け取りすぎる。だから、条件と罪を混同する。

 自分がそこにいたから。

 自分が音を出したから。

 自分が何かをしたから。


 けれど、世界はそこまで単純ではない。

 人ひとりの行動が、すべての原因になることなど、そう多くはない。たいていは、もっと複数の条件が重なって、ようやく何かが起きる。


 だからこそ、分けなければならない。

 罪と条件。恐怖と怪異。変化と凶兆。

 家の古さと、家の終わりを。


 化野は、そこまで考えてから、伯爵を見た。

 伯爵は台の上の肖像画を見下ろしている。

 昨夜からずっと、彼はこの絵を「先祖」として見ていた。だが、今の目は少し違う。

 古い絵。傷んだ額。修繕が必要な家財。

 そういう、扱うべき現実として見始めている。


「伯爵」


 化野が声をかける。


「なんだ」

「この肖像画、直した方がいいですよ」

「それは今、職人に話している」

「額縁だけではなく、飾る場所も」


 伯爵の視線が、化野へ向く。

 化野は立ち上がり、昨夜まで肖像画が掛けられていた壁を指した。


「ここは廊下の中央で、人の目につきやすい。加えて、夜は光量が落ちる。視線が合いやすい構図の絵を、薄暗い場所に、単独で掛けておく。しかも古い家で、音が通る。これでは、噂が育つには条件が良すぎる」

「噂が、育つだと?」

怪異(オカルト)っていうのは、放っておいて勝手に生えてくるものじゃありません。育ちやすい場所があるんです」


 伯爵は眉を寄せた。


「では、場所を変えろと」

「変えるか、灯りを増やすか、はたまた説明を後世に残すか。方法はいくらでもあります。先祖を敬うことと、先祖を薄暗い廊下で人間を睨ませ続けることは、別でしょう」


 少し、言い方が強かった。

 伯爵の顔が硬くなる。知子が息を呑む。

 執事も、職人との会話を止めてこちらを見た。

 化野は、まったく悪びれない。


「失敬。選んだ結果が、これでして」

「……君は本当に」


 伯爵は言いかけて、そこで言葉を切った。

 怒ることもできただろう。家の扱いに口を出すなと、退けることもできただろう。

 だが、伯爵はそうしなかった。


 長い沈黙のあと、彼は壁を見た。

 そこには、肖像画を外した後の痕が残っている。

 白く抜けた四角い跡。緩んだ釘穴。長い間、同じものを同じ場所に置き続けた証拠。


「……私は」


 伯爵が、低く言った。


「この絵を、ここから動かしてはならないと思っていたのだ」


 化野は黙って聞いていた。


「父も、祖父も、そうしていた。初代はこの家を興した人間だ。あの絵がここにあることが、この家の形だと思っていた」

「なるほど」

「だから、位置がずれていると聞いたとき、不快だった」


 伯爵は、そこで一度息を吐いた。


「怖かったのではない、と言えば嘘になる。だが、それ以上に……この家の形が、どこか、崩れているように感じた」


 化野は、ゆるく目を細める。

 ようやく、最後の意味が出てきた。

 この屋敷の者たちは、肖像画が動くことを恐れた。  見られていることを恐れた。先祖の意思を恐れた。


 だが伯爵だけは、少し違った。

 彼が恐れていたのは、家の形が変わることだったのだ。


「変えないことと、守ることは違いますよ」


 化野は言った。

 伯爵は、彼を見る。


「変えずに置いて、壊れるまで見ないふりをするのは、守っているとは言わない。少なくとも、私はそう思いますねえ」

「民俗学者としての意見か」

「怠慢な民俗学者の、かなり偏った意見です」

「偏っている自覚はあるのだな」

「ありますとも。だから本にもします」


 伯爵は呆れたように目を細めた。

 だが、怒ってはいなかった。


「本にするのか」

「名前は伏せますよ。伯爵家の肖像が、湿気とピアノでこそこそ動いていた、なんて書いたら角が立つでしょう」

「充分に角が立つな」

「では、もう少し柔らかくします。〝古い屋敷における動く肖像の民俗的成立条件〟くらいで」

「柔らかいのか、それは」

「学者にしては」


 知子が、そこで小さく笑った。昨夜の女中(メイド)の笑いよりも、少しだけ明るい。

 伯爵はその笑みを見て、ほんのわずかに表情を緩めた。

 それから職人へ向き直る。


「額縁は補強しろ。壁も見てくれ。それから、飾る場所は……少し考える」

「かしこまりました」


 執事が深く頭を下げる。


「廊下の灯りも増やす。夜に暗すぎるのはよくない」

「はい」

「知子」

「はい、お父様」

「ピアノは続けなさい。ただし、夜遅くは控えめに」


 知子の目が、わずかに開かれる。

 それから、嬉しそうに伏せられた。


「はい」


 その一言で、廊下の空気が変わった。

 大きな変化ではない。だが、昨日までとは違う。


 誰も肖像画から目を逸らしていない。

 誰も声を潜めすぎていない。

 動く肖像は、もう、怪異(オカルト)などではなくなっていた。


 それでも、絵そのものが消えたわけではない。

 初代当主の視線は、今後も誰かを見るだろう。夜になれば、やはり少し怖く見えるかもしれない。


 だが、その怖さは、もう名前を変えている。

 得体の知れない〝怪異(オカルト)〟ではなく、よく出来た肖像と、古い屋敷と、人間の認知が作る、説明可能な不気味さ。

 それならば、人間にも扱える。

 扱えるものは、必要以上に人間を縛らない。

 

 昼前、化野は伯爵邸を出た。

 門の外には、朝の光が白く広がっている。湿り気を帯びた空気はまだ重いが、夜の屋敷にあった沈んだ匂いとは違っていた。


 見送りに出た伯爵は、昨夜よりも少しだけ疲れた顔をしていた。

 だが、襟元の硬さはわずかに緩んでいるように見える。


「世話になった」

「いえいえ。こちらこそ、よい材料をいただきました」

「材料」

「本の、です」

「……やはり書くのか」

「民俗学者で、作家で……時折、新聞記者なもので」


 伯爵は渋い顔をした。

 だが、最後には小さく笑った。


「家名は伏せろ」

「もちろん。私はそこまでの無作法者ではありません」

「充分に無作法だったが」

「それは、必要経費ということで」


 伯爵は返答に困ったように目を伏せ、それから門の内側を振り返った。

 屋敷は静かに立っている。

 昨夜と同じ屋敷。だが、まったく同じではない。

 肖像画は外され、壁は修繕される。灯りは増え、知子のピアノは続く。使用人たちは、もう少し自然な足音で廊下を歩くだろう。


 それだけのことだった。

 それだけのことが、家の空気を変える。


「化野君」

「はい」

「あれは、本当に見ていなかったのだな」


 伯爵の声は、昨夜よりもずっと静かだった。

 化野は少し考えた。

 そして、軽く笑う。


「絵は見ていませんよ」

「では、何が見ていた」

「さあ」


 化野は、わざと曖昧にした。

 伯爵が眉を寄せる。

 化野は門の外へ一歩出てから、振り返った。


「ただ、人間は見ます。過去も、家も、先祖も、自分の失敗も。見ているつもりで、見られている気にもなる。そういうものです」

「……答えになっているのか」

「民俗学者の答えなんて、大抵こんなものですよ」


 そう言って、化野は袖を揺らした。

 月下美人の柄が、朝の光の中で少しだけ白く浮く。


「では、伯爵。次に肖像が動いたら、まず釘を疑うことです」

「先祖ではなく?」

「この世に居ない先祖よりも壁に刺さった釘の方が、よほどよく働きますからねえ」


 伯爵は、今度こそ声を漏らして笑った。

 それで、この屋敷の怪異(オカルト)事件は終わりを迎えた。

 少なくとも、今回のところは。

 

 帰り道、化野は手帳を開いた。

 歩きながら書く字は少し乱れる。だが、それで構わない。

 整いすぎた記録は、後から読んだときに面白くない。


 《動く肖像。

 原因は、湿度、歪み、釘、振動。

 ただし、怪異の成立条件は物理だけにあらず。

 古い屋敷に先祖の肖像。 家名を守る者の不安。

 使用人たちの囁き。夜間の認知の揺らぎ。

 ――動いていたのは肖像ではなく、家そのものの意味であった。》


 そこまで書いて、化野は一度手を止めた。

 題をどうするか。

 学術的に書くなら、いくらでも堅い名前はつけられる。


 一、古屋敷における肖像移動譚の発生要因。

 二、華族邸宅内における視線恐怖の認知的成立。

 三、湿度および振動による額縁変位と怪異伝承化。


 そのどれもが正しい。

 正しいが、いまひとつ、面白くはない。


 化野は、しばらく考えたあと、手帳の端に小さく書いた。


 《動く肖像はだれを見ているのか?》


 悪くない。

 少なくとも、暇つぶしに読むには充分だ。


 化野は手帳を閉じ、湿った朝の道を歩いていく。背後で、伯爵邸は静かに佇んでいた。


 もう、肖像画はあの広い廊下にはない。

 けれど、あの家はきっと、これからも少しずつ動いていく。

 柱が軋み、壁が歪み、人間が年を取り、子どもがピアノを弾き、家の決まりが少しずつ変わる。

 それを恐れる者もいるだろう。

 それを崩壊と呼ぶ者もいるだろう。

 けれど、変化しない家など存在しない。

 動かないものなど、本当はどこにもない。

 ただ人間が、動いていないことにしたいだけなのだ。


 怠慢民俗学者は、そういう人間の都合を、少しばかり意地悪く、そして少しばかり(たの)しげに、今日もまた記録する。


 怪異(オカルト)とは、必ずしも現象の分類(ラベル)とは限らない。


 人間が、まだ扱える言葉を持っていないものにつける、仮の名である。

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