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第二話 見ている先祖

 人間は、視線に意味を見出す。


 ただの線で描かれた瞳であっても、そこに向きがあれば、意図があると解釈する。そしてその意図は、多くの場合、こちらに向けられているものとして受け取られる。


 見られている、という感覚は、視覚の問題ではない。

 認知(バイアス)の問題である。

 

 夜の屋敷は、昼間とはまったく別の構造を持つ。

 光量が落ち、色彩が削がれ、距離感が曖昧になる。 郭は柔らかく崩れ、陰影は過剰に強調される。

 その結果、人間の脳は情報を補完しようとする。

 不足した情報は、経験で埋められる。


 そして経験は、必ずしも正確ではない。

 

 化野は、夜の伯爵邸の、広い廊下に立っていた。

 昼間に見たはずの同じ場所が、まるで別の場所のように感じられる。

 木材の色は沈み、壁面のわずかな(ひず)みは影に溶け込み、奥行きの感覚は不安定に揺れている。


 空気は、昼よりも重い。

 湿気が増しているのが、肌でわかる。袖口がわずかに張り付き、呼吸のたびに、湿った木の匂いが肺の奥へと流れ込んでくる。

 

 その中央に、肖像画はあった。

 

 昼間と同じ位置にあるように見える。だが、それは〝同じ〟に見えるだけであり、厳密に同一かどうかは、夜の視覚では判断できない。


 化野は足を止めず、一定の速度で歩き続けた。


 視線が、追ってくる。


 左から見ても、右から見ても、正面から見ても。

 瞳は、常にこちらを向いている。


(構図としては、よく出来ている)


 画家が意図的にそうなるように描いているのだ。

 どこから見ても視線が合うように、顔の向きと瞳の配置を調整する。

 それは肖像画としては自然な技法であり、特別なものではない。


 ただし。


 それを「夜」に置いたとき、意味が変わる。


 昼間であれば、ただの技巧(テクニック)で済む。だが夜間では、視覚情報が減少し、脳は輪郭と位置関係だけで対象を認識するようになる。

 結果として、常に見ているもの、として知覚される。


 そこへ、もうひとつの要素が加わる。


 額縁の位置の変化。


 たとえそれが数ミリ単位であったとしても、「昨日と違う」という認識が生じた時点で、それは変化として確定する。


 変化は、理由を要求する。


 そして理由が不明であるとき、人間はそれを「意思」として補完する。


 見ている。

 近づいている。

 なにかを伝えようとしている。


 すべては、自然な認知の流れだった。


 化野は肖像画の前で立ち止まり、ゆっくりと手を伸ばした。


 触れない。

 その一寸(ちょっと)手前で、手を止める。


 触覚は、確定を生む。

 確定は、観察を鈍らせる。


 今はまだ、その段階ではない。


 ――とん。


 ピアノの音が、届く。


 昼間よりも明確に。夜の静けさの中では、わずかな振動すらも際立って伝わる。


 ピアノの規則的な打鍵。

 強くはない。だが、一定のリズムを保ち続けている。


 音は空気だけでなく、構造体に伝わってゆく。

 床。柱。壁。

 それらは完全に分離されているわけではなく、連続している。


 つまり──


(音の振動は、ここまで届いているのだ)


 化野は、床板にゆっくりと視線を落とした。

 古いが、歪みは少ない。しかし継ぎ目には微細な隙間があり、そこに湿気が入り込んでいるのが見て取れる。


 さらに壁へと視線を向ける。

 昼間に確認した通り、完全な平面ではない。目視ではわからない程度の歪みが、確かに存在している。

 

 そして、本命の額縁。

 一本の釘。

 支持点はひとつ。回転の自由度は高い。


(条件は十二分に揃っている、と来た)


 湿度。

 歪み。

 振動。

 だが、それでもなお、断定はしない。


 現象は単一の要因で発生するとは限らない。むしろ複数の条件が重なったときにのみ現れるものの方が多い。


 化野はふと、視線を上げた。

 肖像画の瞳と、再び視線が合う。


「……見ている、か」


 小さく、そう呟く。

 その言葉には、肯定も否定も含まれていない。

 ただ、その解釈がどこから生まれたのかを、なぞるような響きだった。


 背後で、気配が揺れる。

 振り返らずとも、わかる。

 誰かが、立っている。


「……あの」


 控えめな声。

 日中案内をしてくれた女中(メイド)だろう。


「本当に……動いているのでしょうか」


 その問いは、確認ではない。

 救いを求めている者のそれだ。


 化野は、少しだけ首を傾けた。


「動いているよ」


 あっさりと、そう答える。


「ただし」


 間を置く。


「君が思っている意味ではないだろうね」


 振り返る。

 女中の顔は、青ざめている。だが、その中には僅かな好奇心も混じっている。


 恐怖と興味は、同時に成立する。


「怖いと思うこと自体は、自然なことだ」


 化野は、穏やかでも冷淡でもない、曖昧な温度で言葉を置く。


「夜は昼よりもずっと情報が減るものだ。その減った分を、人間の頭っていうのは、勝手に補ってしまう」


 一歩、女中に近づく。


「そして補うとき、人間は自分にとって都合のいい物語を選ばない」


 視線が合う。


「むしろ、いちばん怖いと思う物語を選ぶのさ」


 女中は、息を呑んだ。


 化野は、それ以上は何も言わない。


 説明をするには、まだ尚早。

 現象を見せる前に、結論を与えるべきではない。


 再び、ピアノが鳴る。


 ――とん。

 ――とん。

 ──とん。


 その音に合わせるように、ほんのわずかに──


 額縁が、揺れた。


 それは、見逃してもおかしくない程度の変化だった。


 だが、一度認識してしまえば、もう無視はできない。

 確かに動いている。

 だが、そこに〝意思〟など存在しない。


 化野は、その事実を理解している。

 そして同時に、この屋敷の人間たちが、その事実に気づけない理由も理解している。


(さて、と。問題なのは、ここからだね)


 現象の解体は、難しくない。

 だが、それを「怪異(オカルト)ではない」と納得させることは、別の問題だった。

 化野は、静かに息を吐く。


「今夜は、いい夜になりそうだ」


 それは皮肉でも感想でもなく、単なる事実の確認だった。


 日ごろ怠慢してばかりの民俗学者の観察行為は、まだ、始まったばかりだった。

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