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第一話 夜ごと傾く肖像

 人間は、意味を与える生き物である。


 ただそこにあるだけのものに、わざわざ理由を求める。理由が見つからなければ、物語を与える。

 そして、その物語は、しばしば恐怖の形を描く。


 たとえば、動かないはずのものが動いたとき。そこにあるはずの位置から、ほんのわずかでもずれていたとき。

 それは〝偶像〟ではなく〝意思〟として解釈される。


 見ている。

 近づいている。

 あるいは――何かを訴えている。


 そうして現象は、怪異(オカルト)へと名前を変える。


 化野(あだしの)(かすか)という人間は、その名前を剥がすことを生業としている。


 肩書きは民俗学者であり、作家でもある。

 ただし本人は、どちらの名乗りにもさほど執着がなかった。加えて、片手間に暇つぶしと称して新聞記者もやっている。


 肩書きなぞに、さして意味はない。

 そう考えているのだった。


 依頼があれば現地へ赴き、聞き取りを行い、観察し、記録する。その結果が論文になることもあれば、随筆になることもあるし、場合によってはただの未整理の記録のまま机の引き出しに収まることもある。


 共通していることは、ひとつだけだった。

 目の前に現れた〝語られてしまった現象〟を、もう一度、条件へと分解すること。


 化野はそれを、面倒とも、退屈とも思っていない。

 むしろ、人間が勝手に積み上げた意味を、一枚一枚剥がしていく作業には、わずかな(たの)しみすら見出している。

 だからこそ、こういう依頼は嫌いではなかった。

 

 伯爵家からの書状は、簡潔だった。

 ――先祖の肖像画が、夜ごとに位置を変える。

 

 それだけの一文に、余計な修飾はなかったが、紙の端に滲んだ筆圧が、その家の落ち着かない空気を十分に伝えていた。

 

「ずいぶんと上等な家が、ずいぶんとマア、素朴なことで困っているものだね」

 

 化野はそう独りごちて、書状を畳む。

 季節は湿り気を帯び始めた頃で、空気は柔らかく重く、紙の繊維すらわずかに膨らんでいるように感じられた。


 こういう時期は、よく物が動く。

 人間がそう思うかどうかとは別のところで、実際、そういう風になっている。

 

 屋敷に到着したのは、日が傾き始めた頃だった。

 門構えは古く、しかし丁寧に手入れがされている。

 長い年月を経た木材特有の、やや沈んだ色合いと、磨かれ続けた光沢が同時に存在していた。


 屋敷の女中(メイド)に案内され、化野は廊下を歩いてゆく。

 足音は柔らかく吸い込まれて、静けさが不自然なほどに保たれている。

 

(妙だな。なにか、静かすぎるような)

 

 それは屋敷の構造というよりも、人間の気配の問題だった。声を潜め、足音を殺し、なにかを避けるように動いている。

 恐怖は音を奪う。

 

「こちらでございます」

 

 案内された先は、やや広めの廊下だった。

 いや、これは最早、小ぶりな広間(ホール)と呼んでもいいかもしれないな。


 壁面の中央に、一枚の肖像画が掛けられている。


 初代当主。

 細かな説明を受けるまでもなく、構図や画面から伝わる威厳性が、この人物の背景を語っていた。

 正面を向いた姿勢。視線はわずかに下ろされ、見る者と自然に合うように調整されている。衣装は簡素だが、威圧ではなく、静かな統制を感じさせる。

 

「昨日は、もう少し左にございました」

 

 背後から、使用人の声がする。

 

「一昨日は、さらにその左で……日ごとに、少しずつ」

 

 声は抑えられているが、抑えきれてはいない。  説明ではなく、確認を求めている声音だった。

 

 化野は返事をせず、ゆっくりと肖像画に近づいた。

 

 額縁は重厚で、装飾も凝っている。ただし、その豪奢さとは裏腹に、固定方法は驚くほど簡素だった。

 

 一本の釘。

 それだけで、支えられている。

 

 指先で、額縁の下部をわずかに押すと、当然、揺れる。

 そしてほんの僅かだが、確かに──

 

(軽い)

 

 重量ではなく、それは、支持の問題だった。

 

 次に、壁へと視線を移す。

 表面は整っているが、わずかに波打っている。長年の湿気と乾燥の繰り返しが、木材の内部構造に歪みを残しているのだろう。

 

 化野は少し距離を取り、全体を眺めた。

 

 中央線。柱との距離。床からの高さ。

 

 すべてが、完璧に整っているわけではない。

 だが、それは〝ずれ〟ではなく〝揺らぎ〟と呼ぶべきものだった。

 

「この屋敷で、夜に音を出す人間はいる?」

 

 不意に、化野が問いを投げる。

 女中は一瞬、言葉に詰まり、それから小さく頷いた。

 

「ご令嬢の知子(ともこ)様が、毎晩ピアノを弾かれておられます」

 

 

 ――とん。



 ちょうどそのとき、遠くから音が届いた。

 

 規則的で、柔らかい打鍵音。 音量は大きくないが、空気を伝って、床を伝って、じわじわと広がっていく。

 

 化野の顔から軽薄な笑みが失せる。

 そして、目が細められる。

 

(……なるほどね)


 だが、まだ断定はしない。


 再び肖像画へと視線を戻す。

 視線が合う。 どこから見ても、合う。

 

(見ている、という解釈は、ここから来る)

 

 人間の目は、正面を向いた顔を「追ってくるもの」として認識する。特に光量の落ちる夜間では、その錯覚は強まる。

 そこへ「位置が変わる」という事実が重なったならば。


 意味は、簡単に付与される。


 見ている。

 近づいている。

 なにかを伝えようとしている。


 化野は、ふっと軽く息を吐いた。

 

「怖い?」


 振り返らずに、女中に問う。


「……はい」


 短い返答。

 嘘ではない。そして、誇張も混じっていない。


「いいよ。それで」


 化野はあっさりと言った。


「怖いと思うのは、極めて自然な感情なんだ」


 そう言ってから、ようやく振り返る。

 その表情には、慰めも、嘲りもない。ただ、観察した結果を述べるときと同じ温度の、平坦な声だった。


「なぜ怖いと思うのか──これから、読み解いていこうか」


 再び、遠くでピアノが鳴る。


 ――とん。

 ――とん。

 ――とん。


 肖像画は、わずかに揺れていた。


 それは、誰の目にも留まらないほど小さな動きだった。

 しかし肖像画は、確かに動いている。

 だが、それは意思ではない。


 化野は、そのことを理解している。


 そして同時に、この屋敷の人間たちが、なぜそれを意思として受け取ったのかも、理解している。


(問題は、現象ではない)


 恐怖は、常に別のところに根を張る。

 化野は派手な着物の袖口を整えて、静かに言った。


「今夜、ここに残ってもいいかな?」


 それは依頼の正式な受諾であり、同時に観察の開始だった。

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