【Episode:K×K】 第六章 歪む均衡
Episode:KING Chess × KING Spade
あの夜、精気を焦らされたペナルティを経て、二人の関係はどこか微細で不可逆な変容を遂げていた。
一方は利用されていると知りながらその甘美な毒を喰み、一方は己が策に溺れ冷徹な仮面を保てずに愛らしい悪魔に魅せられている。
表面上、互いの頭脳には「利用し、利用されている」という冷めた打算の図式が変わらずに居座り続けている。だがその裏で、フレデリックの胸を焦がす熱い独占欲と、リズが寄せる切ないほどの依存は、二人自身の計算を遥かに超えて深く根を張っていた。
あの夜、彼女を手放すまいと感情を剥き出しにしてしまった自分に対する動揺を隠すかのように、フレデリックは再び冷徹なロジックで自らの心を必死に武装していた。
そして密会を重ねるごとに、その冷静な分析眼は、ある一つの「法則」を完璧に捉えるようになっていた。
サキュバスであるリズの瞳――感情の機微によって色を変えるその双眸は、彼女の心模様を隠すことなく雄弁に映し出していたのだ。
美味いものを頬張り、八重歯のような小さな牙を覗かせて喜んでいる時は、陽光を反射した宝石のように鮮やかな明るい赤へ。
フレデリックの冷たい言葉に傷つき、何かに怯えている時は、哀愁を帯びた深い紫へ。
そして、彼から与えられる極上の精気に酔い痴れ、甘く蕩けている夜は、妖しく熱を孕んだ艶やかな深紅へ――。
感情の赴くまま目まぐるしく変化するその双眸は、冷酷なハニートラップの仕掛け人であるフレデリックにとって、本来なら「扱いやすい検体」の証明に過ぎなかったはずだった。
だというのに――その綺麗な赤や紫が自分の一言でいとも容易く揺らぎ、甘い深紅へ染まっていく様を見るたび、冷酷な計算よりも先に、歪んだ支配欲と愛おしさが胸を焦がす。己の打算を上書きしていくその熱に、フレデリックは静かな恐怖すら抱いていた。
(……サキュバスなど、人の欲を喰らい、嘘で男を惑わす悪性魔術の体現者のはずだ。だというのに……)
膝の上で焼き菓子を頬張り、口元に食べ屑をつけたまま警戒心など微塵も見せずに瞳をキラキラと輝かせるリズを見下ろしながら、フレデリックは密かに眉間を寄せる。
イデアル帝国が誇る最高峰の精鋭魔法騎士団の最高戦力『スペードのキング』として恐れられる殺戮の悪魔。
しかしその肩書きの裏側にいたのは、人間の男を誘惑する老練な淫魔などではなく、誰かに必要とされることを心から渇望し、与えられた小さな温もりに全身で報いようとする、あまりにも無垢で愚直な少女だった。
(俺はただ、彼女を骨抜きにし、皇帝アヴァルの動向を探るための手段として手元に置いているに過ぎない)
そう自分に言い聞かせ、冷徹なキングチェスの仮面を被り直そうとする。しかし、撫でられている手の温もりに素直に首筋を擦り寄せてくる彼女の体温を感じるたび、彼女が無防備に自分へと寄せる純粋な信頼に触れるたび、フレデリックの冷たい計算は少しずつ、確実に絆され、蝕まれていっていた。
(……俺が差し出しているのは、計算し尽くされた毒薬に過ぎないというのに……)
膝の上で無防備に体温を預けてくる彼女を撫でながら、フレデリックの胸の奥を重い罪悪感が蝕んでいく。
冷酷に利用し、やがては切り捨てるはずだった『道具』。だが、彼女が見せるあまりにも無垢な光に、フレデリックの完璧だったはずの冷徹な仮面は、内側からメリメリと音を立ててひび割れていく。
情報を引き出し、牙を抜くための偽りの抱擁。それにもかかわらず、彼女が縋りついてくるたび、その華奢な背中を強く抱きすくめてしまう己の腕の力加減に、もはや打算の言い訳は通用しなくなっていた。
いつでも切り捨てられるはずの使い捨ての道具。そう割り切っていたはずのこの少女のような悪魔が、いつの間にかフレデリックの心の中で、代えがたい熱を持った存在へと変化しつつあったのだ。
─────────
「……また日暮れからの外出ね。これで今月、何度目かしら」
アンテレット共和国を先導する最高組織「コントラタック」の頂点――キングチェスにして、この国の最高指導者であり最高戦力、フレデリック・クロエの執務室。
月光だけが差し込む暗がりの中、成長途上の少女のような小柄な体躯を主人不在の革椅子に深々と預け、アイシャ・トレメインは冷めた溜息を吐いていた。
ハーフドワーフ特有の幼さの残る顔立ちと小さな背丈。しかし数え年ではフレデリックよりも年上だ。知性と経験を宿したその双眸は、鋭く書類を見つめている。
彼女の手元にあるのは、先日フレデリックが提出を先送りにし、今や「抹殺計画」から「捕獲・保護」――事実上の抹殺計画破棄へと密かに書き換えられつつある《スペードのキング》リズに関する極秘ファイルだ。
フレデリックの「微細な狂い」を、彼の右腕でもある共和国の《クイーンチェス》が見過ごすはずもなかった。
その時、閉ざされた高層の窓辺で水流のような清冽な魔力の気配が揺れ、一人の騎士がしずしずと影から姿を現した。
帝国の光水のアリストクラット――《スペードのクイーン》ガブリエル・ド・ラ・ヴァリエールである。
「……相変わらず警戒が薄いな、アイシャ」
「薄いんじゃないわ、アナタの気配を覚えただけよ、ガブリエル。で? 帝国側で何か動きでも?」
両国の全面衝突を避けるため、水面下で極秘の裏協定を結んでいる二人。ガブリエルは生真面目な顔で腕を組み、静かに告げた。
「アヴァル様のもとへ、《スペードのキング》リズからの定期報告が途絶えている。皇帝は彼女が共和国に捕縛、あるいは殺害されたと疑い始めているぞ」
「……殺害? やだ笑わせないで?」
アイシャは呆れたように自らの額を指先で叩いた。
「うちの《キングチェス》なんて殺すどころか、夜な夜なその『殺戮の悪魔』に毒されて、抹殺計画書の書き換えに大忙しよ。……まったく、どちらがハニートラップに嵌められているのやら」
「……は? あの冷酷無比と謳われるキングチェスが……?」
驚きに目を見張るガブリエルに、アイシャは短く手を振ってみせた。
「まあ、アヴァル皇帝の動きが知れたのはいい情報だわ。無駄な血を流したくないのはお互い様でしょ。……そろそろ帰りなさい、主役がご帰宅のようだから」
ガブリエルが静かに気配を消すとほぼ同時に、重厚な扉が開いた。
「……アイシャか。こんな夜更けに灯りもつけず、俺の部屋で何の真似だ」
執務室に戻ってきたフレデリックは、軍服の襟元を整えながら冷たい声を発した。だが、その身体からはかすかに紙煙草の煙と、リズの纏う甘いサキュバスの残り香が漂っていた。
アイシャは革椅子をクルリと回転させ、デスクの上のファイルをトントンと叩く。
「連夜のご視察、ご苦労様。キングチェス。……随分と熱心に『現地調査』を重ねているみたいじゃない」
「……無駄な追及をするな。アリストクラットの情報を取り出すための打算的なアプローチに過ぎない」
フレデリックは自らのデスクへと歩み寄り、金縁メガネを指先で直しながら、冷徹な仮面を貼り直そうとした。
アイシャはその言葉の白々しさに、呆れたような苦笑を浮かべる。
「ふーん? 打算ねぇ。……にしては、その『検体』の処分の判断が随分と鈍いわね。抹殺計画のファイル、捕獲・保護案への書き換えに随分と時間がかかっているようだけど?」
「……スペードのキングの魔導回路の科学的解析が未完了だ。完璧なロジックが組み上がるまでは保留にしている」
「そう。完璧なロジック、ね…」
アイシャは立ち上がると、ドワーフの血を引く所以の小さな背丈でフレデリックを見上げた。追いつめるような鋭さではなく、全てを理解した上での、どこか試すような大人の眼差し。
「まあ、アナタがどれだけ完璧な計算を立てようと勝手だけど……外の風は思ったより早く冷たくなりそうよ」
「……どういう意味だ」
「帝国側で、あの子の定期報告が途絶えていることを疑い始めているわ。遠からず、皇帝アヴァルの本格的な手が動き出す」
アイシャはそっと書類を閉じ、フレデリックの脇を通り抜けながら、背中に向けてぽつりと言葉を落とした。
「覚悟を決めなさいな、フレデリック。……『ただの道具』を弄んでいるつもりなら、相手の手が伸びてきた瞬間に切り捨てればいい。でも……もしその手に残った温もりを絶対に手放したくないと言うなら」
彼女はドアノブに手をかけ、振り返らずに小さく笑った。
「理屈や計算なんてかなぐり捨てて、泥を被る準備をしておくことね。……我が共和国の最高指導者、キングチェス様?」
パタン、と静かに扉が閉まる。
静まり返った執務室に残されたフレデリックは、デスクの横で静かな作動音を立てる蒸気式の湯沸かし器から立ち上る白い湯気を見つめ、くわえた紙煙草の火を静かに見つめた。
アイシャの発破――「冷たいロジックなどという言葉で誤魔化すのをやめろ」という無言のプレッシャー。
(泥を被る覚悟、だと……?)
フレデリックは自らの手を見つめた。
膝の上で無邪気に笑い、自分に寄り添ってきたあの小さな悪魔の体温が、掌に強く残っている。
(……フン、笑わせるな。俺はただ、完璧な解析と手懐けを行っているだけだ)
己の打算という名の防壁に逃げ込みながらも、フレデリックの胸の奥では――皇帝から彼女を奪い去り、何者をも寄せ付けぬ自らの庇護下にねじ伏せたいという狂おしいほどの独占欲が、音を立てて膨れ上がっていた。
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