【Episode:K×K】 第四章 幸福な錯覚
Episode:KING Chess × KING Spade
約束の夜。月明かりすら届かぬ厚い雲の下、旧市街の端に聳え立つ廃墟の図書館は、しんと静まり返っていた。
壊れた天井から降る夜風に、フレデリックの軍服の裾が静かに揺れる。
彼は壁に背を預け、金縁のメガネを指先で僅かに押し上げながら、口にくわえた紙煙草の先を赤く点滅させていた。紫煙がアンニュイな褐色肌の横顔を覆い、静謐なアイスブルーの瞳が暗闇を射抜いている。
(……本当に来るつもりか。あの皇帝の目を盗み、敵国のキングの元へ)
冷徹な計算回路が頭の中で回る。
相手は帝国アヴァル皇帝の懐刀、≪スペードのキング≫のサキュバス。愛欲に飢えた哀れな獣に偽りの愛情を仕掛け、牙を抜き、情報を吸い尽くして使い捨てる――そう決めたはずの男の胸の奥で、わずかな焦燥が燻っていた。
バサリ、と頭上で小さく羽ばたきの音が響く。
「ッ!フレデリック! 本当に待っててくれたんっすね!」
壊れた天井の隙間から滑り込んできたのは、自分の肩の高さにも届かない小柄な少女のような悪魔、リズ・ルゥ・リプカだった。
着地と同時に背中の黒い翼を消し、軽やかな足取りで駆け寄ってくる。恵まれた体躯を誇るフレデリックの前に立つと、リズは小さな八重歯を覗かせ、無防備そのものの満面の笑みを浮かべた。
「約束通り、アヴァル様にも神獣ちゃんにも内緒で来たっすよ! えへへ、フレデリックの顔、また見れて嬉しいっす!」
「……よく監視を抜けてきたな。無駄なお喋りは不要だ。約束の『対価』を差し出してもらおう」
フレデリックは煙草を指で挟み、冷ややかな声で短く言い放った。ハニートラップの仕掛け人として、まずは圧倒的な優位に立ち、主導権を握るための冷徹な態度。
だが、リズは嫌がる素振りすら見せず、「はーいっ!」と元気に返事をすると、手頃な瓦礫の上にちょこんと腰掛けた。
「じゃあ……初めてのお話は、百五十年くらい前にワタシがこの目で見た、魔法帝国の旧王都が消えた夜の話をするっすね!」
そう言って語り始めたリズの頭脳は、フレデリックの想像を遥かに超える「宝の山」だった。
それは単なる伝承や童話の類ではなかった。当時の気候、魔導回路の暴走が引き起こした磁場の歪み、王族たちの思惑、そして失われた古代魔導具の構造――。
二百年以上を生き、アヴァルの手元で膨大な教養を叩き込まれてきた彼女の記憶は、共和国の最新科学をもってしても解明できていなかった歴史の空白を、恐ろしいほどの精度で埋めていった。
「……待て。その都市の動力源に使われていたのは、単なる高純度マナではなく、空間を歪圧させる二重構造の魔導石だったと言うのか?」
「そうっす! すっごく綺麗に光ってたけど、──暴走?みたいな。形を保てなくなってドカンっていったんっすよ。アヴァル様が『愚かな人間どもの自滅だ』って笑ってたのを覚えてるっす」
手帳にペンを走らせるフレデリックの指が、かすかに震える。
(素晴らしい……! これほどの一次情報が、この少女の頭の中に眠っていたとは……)
科学者であり国を率いる先導者である彼の知性が、歓喜に震えていた。だがそれ以上に、フレデリックの心を揺さぶったのは、知識そのものよりも――それを語るリズの表情だった。
難解な歴史を語りながらも、時折「あ、この時代のお菓子はすっごく硬くて不味かったっす!」と子供のように鼻を鳴らし、瞳を宝石のような明るい赤色へとくるくる変化させる無邪気さ。
自分を見上げる純粋な双眸には、敵国に対する警戒も、悪意も微塵も存在しなかった。
(これが……アリストクラット最高峰の≪スペードのキング≫だと……? 殺戮の悪魔どころか、ただの無垢な少女ではないか)
冷酷に利用し、使い捨てるはずだった道具。
その道具が見せるあまりにも眩しい無垢な光に、フレデリックの完璧だったはずの冷徹な仮面は、内側からメリメリと音を立てて罅割れていった。
「――ふぅ! 今夜のお話はこれでおしまいっす! どうっすか、フレデリック? ワタシ、役立ったっすか?」
語り終えたリズが、期待に胸を躍らせてフレデリックを見上げる。
万年空腹の彼女の体躯は、すでに限界を迎えていた。小さな胃袋がグゥ、と切なく鳴り、その瞳が物欲しそうに紫がかった哀愁の色を帯びる。フレデリックは手帳を閉じ、指に挟んだ煙草の火を消した。
(……俺がやっているのは、この愛に無知な悪魔を偽りの愛情で手懐け、骨抜きにするハニートラップだ。同情も、情も必要ない)
胸の奥を突き刺す激しい罪悪感を覆い隠すように、フレデリックは冷酷な言葉を自らに言い聞かせた。
そして、怠惰な動作で自らの軍服の襟元を押し開き、逞しく鍛えられたしなやかな首筋を晒してみせる。
「……ああ、十分に。お前の知識には相応の価値がある。約束の褒美だ……来なさい」
「わぁぁっ! いただきますっす!」
リズは待っていましたとばかりにフレデリックの膝の上へと跳び乗った。重厚な体躯に、華奢な体がすっぽりと収まる。
フレデリックの褐色肌から立ち上るのは、濃厚で、甘く、脳を痺れさせるような極上のマナ《精気》の香り。リズはその美丈夫な顔立ちと、男らしい肩幅の体躯に思わず見惚れながら、我慢できずに彼の首筋へと小さな牙を擦り付けた。
「んむ……っ! んっふ……ッ……ふぁ……っ!」
喉を鳴らし、悦び絶頂のような吐息を漏らすリズ。
フレデリックの体内の『超高密度の生体エネルギー』が、喉奥を通じて全身へと染み渡っていく。
「んっ……ふ……フレデリックの精気……やっぱり、頭がどうにかなりそうくらい甘くて美味しいっす……っ!」
リズは瞳を熱い深紅に蕩けさせ、彼の首筋にしがみついた。
フレデリックは彼女の柔らかい背中に手を回し、優しく撫でまわしながら、耳元で甘い毒のような言葉を囁く。
「……そうだ。好きなだけ吸うといい。お前が賢く俺に従う限り……いくらでも与えてやる」
(……これでいい。これで彼女は俺の精気なしでは生きられない身体になる。打算通りの進行だ)
そう自分に言い聞かせるフレデリック。
しかし、彼の膝の上で精気を貪りながら、彼の手の温もりに頬を擦り寄せるリズの胸の内もまた、決して無知なだけではなかった。
(……うん。本当はね、分かってるんっすよ、フレデリック……)
背中を撫でる大きな手の温もりに溺れながら、リズは持ち前の野生の勘で察していた。
彼が見せる笑みの裏にある、冷たい『計算』。自分を都合のいい情報源として利用しようとしている視線。
(ワタシをただの『便利な道具』として使おうとしてること……最初から知ってるっす)
アヴァルのためだけに生きる殺戮の道具だったリズにとって、誰からも心から愛されたことのない彼女にとって、打算であれ、嘘であれ――自分を腕の中に強く抱きしめ、名前を呼び、温かい精気を与えてくれるこの男の側だけが、生まれて初めて暖かく心に触れた「居場所」だった。
(利用されててもいい……嘘でもいいっす……。いつか捨てられるその日まで、ワタシはこの甘い腕の中で……この綺麗な毒に溺れていたいっす……)
「……フレデリック……大好きっす……」
嘘の打算を隠した男と、利用されていると知りながらその温もりにすがりつく悪魔。
月明かりすら届かぬ静かな夜、崩れた図書館の暗がりで、二人の歪で濃密な依存関係は、より深く、より逃れられないものへと堕ちていくのだった。
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