【Episode:K×K】 第三章 甘い毒を喰む
Episode:KING Chess × KING Spade
廃墟の壊れた天井から、冷たい朝の光が差し込む。
「……んぅ……っ」
あまりにも濃密で過剰な精気に満たされたリズは、極上の充足感の中で瞼を開けた。
空腹と疲労で死にかけていた体が嘘のように軽く、精気で満たされた身体は魔獣との攻防で血を滴らせていた傷の一切が消え去り、肌は透き通るような艶を取り戻している。
「……あは、すごーくぐっすり眠れたっす……」
ふにゃりと口元を弛ませ、自分の体にかけられた重厚な軍用外套と、目の前にある男の胸板に視線を落とした。
はだけた漆黒の軍服。首筋や鎖骨に残る、自分が刻んだ鮮やかな噛み痕。
そして、昨夜自分を腕の中に抱きすくめ、何度も喉奥を甘い熱で満たしてくれた男――。
(……あ、そういえばワタシ、お兄さんの名前すら聞いてなかったっすねぇ。……ってか、軍服のこの徽章……)
呑気に男の胸元の金糸の刺繍を指先で突いた瞬間、リズの思考がぴたりと停止した。
アンテレット共和国の先導組織――全軍を統率する《キングチェス》の絶対権限を示す最高級の特殊徽章。
「……え?」
パチクリと瞳を瞬かせるリズの頭上で、男がゆっくりと瞼を持ち上げた。手慣れた動作で側に置いてあった眼鏡を拾い上げ、鼻梁に載せる。金縁のハーフリムの眼鏡の奥の瞳は、眠たげに、冷たくも理知的な光を湛えてリズを見下ろしていた。
「……おはよう、食いしん坊の可愛い悪魔さん……腹は満たされたか?」
「あ、おはようございますっす……って、じゃなくてっ!!」
跳ね起きようとしたリズだが、昨夜の熱の残る、乱れた衣装のまま。リズは慌ててはだけた胸元を両手で隠すと、顔を真っ赤にして男を指差した。
「キ、キミ……いや、お兄さん! その胸の徽章、コントラタックの……それも頂点のマークっすよね!? なんでそんなすごいもの着けてるんっすか!?」
「何故も何も、俺の服だからな。……そういえば、まだ自己紹介が済んでいなかったね。アンテレット共和国最高指導者――《キングチェス》フレデリック・クロエだ」
「ふ、フレデリック……!? アンテレットの最高指導者にして最高戦力の!? えっ、ええぇぇぇーーーっっ!?」
廃墟にリズの悲鳴が響き渡った。
「えっ、じゃあワタシ、敵国の一番偉くて一番強いボスと……一晩中あんなことやこんなことを……っ!? 精気を吸い尽くすつもりが、めちゃくちゃ甘やかされてトロトロにされちゃったっ!?」
「……フッ、騒がしい奴だな」
頭を抱えて悪魔の角を乱暴に揺らすリズの姿を、フレデリックは眠気が残るままに眺めた。彼の表情には、動揺の欠片すら漂っていない。
当然だ。フレデリックはハナから彼女がイデアル帝国の最高戦力リズ・ルゥ・リプカであると知った上で近づき、この状況を作り出したのだから。
動揺するどころか、狙い通りに自分の精気に毒され敵国のトップと知ってパニックを起こす悪魔の無防備さに、フレデリックは満足げな薄笑いすら浮かべていた。
「しかし……困ったな」
フレデリックは起き上がると、乱れた軍服のボタンを一つずつ留めながら、意地悪く眉をひそめてみせた。
「帝国の最高戦力を手元で捕らえた、保護した、あるいは交わり貪り合ってこの上なく親交を深めた、となればこちらとしても国政上の報告が必要になる。……お前の方も、敵国の《キングチェス》と密会して精気を貪っていたなどとアヴァル皇帝の知るところとなれば、ただでは済まないのではないか?」
「うぐっ……! た、確かに……っ! アヴァル様にバレたら……ワタシ、お仕置きどころじゃ済まないっす……! 良くて折檻、追放……それどころか『要らない』って、嫌われちゃうっすよぉー!」
リズは青ざめてプルプルと震えだした。
アヴァルに捨てられる恐怖は、リズにとって死以上の絶望だ。
フレデリックはその揚々とした弱みを見逃さず、冷徹な分析官としての光を宿した瞳で、ニヤリと浅い笑みを刻む。
「……だろ? ならば、昨夜の過ちは互いに他言無用、墓場まで持っていく秘密とするのが賢明だ。……だが、あまりにも情熱的な夜だった………俺がうっかりと口を滑らせないような保証が欲しい」
「ほ、保証……っ!?」
フレデリックは転がっているリズに歩み寄って視線を合わせるように屈み、顎を指先で優しく持ち上げ、至近距離からその唇を見つめた。
「俺に黙っていて欲しいよな?……代わりに何をしてくれる?」
フレデリックの至近距離からの圧と、「他言されたらアヴァル様に嫌われる」という絶望的な恐怖。
リズの頭脳はフル回転し、うーうーと冷や汗を流しながら必死に対価を考え巡らせた。
「うぅ〜……ワタシ、キングチェスが満足するような額のお金なんて持ち合わせてないし、肩揉みや掃除くらいしかできないっす! お料理だってアヴァル様に与えられたものを食べるだけだったから全然駄目だし……閨事の手ほどきならバッチリ叩き込まれてるっすけど、それは昨夜もたっぷりしたし……っ!」
散々思い悩み、自分の使える手札を探した末――リズはハッと瞳を輝かせ、ポンと手を打った。
「そうっす! ワタシこう見えても二百年以上生きてる悪魔なんっすよ!」
「ほう?」
「アヴァル様に教養として色んな書物を読まされたのもあって、この二百年でワタシの目で見てきたこと、読んできた膨大な『世界の歴史』や『裏の記録』なら、頭の中にいっぱい詰まってるっす! 魔法帝国の歴史も、消えた街のことも、むかーしの出来事も!」
リズは胸を張り、自慢げに八重歯を覗かせた。
だが、すぐに思い出したようにパッと表情を引き締め、慌てて付け加える。
「あ、でも! 現在の帝国の具体的な軍事の内情とかは言えないっすよ!? それを喋ったらワタシ、裏切り者になっちゃうし、アヴァル様に絶対怒られるっすから! だから……それ以外の、ワタシが知ってる限りの『この世界の知識と歴史』なら、いくらでもフレデリックに話してあげるっす!」
上目遣いでフレデリックの顔色を伺うリズ。
「フレデリックって、本がいっぱいあるこの場所が好きみたいだし、ここにも古い歴史書とか集められてるし、そういう話、絶対に好きっすよね……? ワタシの知識と知ってる歴史を対価にするから……だから、アヴァル様には絶対ナイショにしてほしいっす! ……あと、ついでにまた美味しい精気も頂戴っす!」
(……世界の歴史、か)
フレデリックの金縁の眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。
アリストクラット『スペードのキング』として帝国の核心近くに鎮座する悪魔の生きた記憶。そして、皇帝から直接叩き込まれた膨大な古代の知見。
たとえ現在の軍事機密を除外したとしても、科学者でありアンテレットの最高指導者である自分にとって、それは箱庭世界の真実を解き明かすための喉から手が出るほど欲しい超級の情報だった。
ハニートラップで彼女を完全に骨抜きにし、操り人形にするという当初の計画。情報を引き出し、牙を抜くための口実としては、これ以上ない願ってもない申し出だ。
フレデリックはフッと冷徹な口元を緩めると、リズの頭へポンと大きな手を置いた。
「……いいだろう。お前が持つ『世界の歴史と知識』――非常に興味深い対価だ。交渉成立としよう」
「本当っすか!? やったぁぁっ!」
「ただし、条件がある」
「はぇ……条件?」
「次からの密会もこの廃墟の図書館で行う。神獣の目を盗み、誰にも見つかりずに来ることだ。約束を破ったり、他所で俺の名を漏らせば……二度と精気はやらないし、アヴァル皇帝へお前の動向を匿名で通報する」
「はーいっす! 絶対絶対、秘密でまた来るっす! フレデリックの美味しい精気また食べるっす!」
無邪気に跳びはねて喜ぶリズの姿を、フレデリックは怠惰に眺めながら心の中で冷たく嘲笑った。
(恐ろしく扱いやすい悪魔だ。利用されているとも知らず、自ら知識という名の宝の山を差し出してくるとはな……)
情報を吸い上げるための冷たい密会。
情のある振りで甘やかし絆す、愛を知らない悪魔への誘惑。
利用されて良いように扱われていると自覚しつつも、与えられる精気と偽りの優しさでさえ嬉しいと、彼女は心から受け入れていた。
二人の利害と歪んだ打算が一致し、壊れた図書館の朝光の中で、次なる逢瀬の契りが交わされるのだった。
─────────
朝陽が完全に昇りきる前、神獣の目が最も弛む時間帯に、二人は静かに廃墟の図書館を後にした。
それから数日――。
イデアル帝国とアンテレット共和国の表向きの冷戦状態は何一つ変わっていない。だが、リズの日常には劇的な変化が訪れていた。
「あー、今日の共和国の珍味も美味しかったっすけど……やっぱり何かが足りないっすねぇ」
アンテレット共和国の首都シャリテの賑やかな大通り。
リズは鮮やかな赤髪を帽子に収めて簡単な変装に身を包み、名物の激辛スパイスカレーまんを両手いっぱいに抱えて口に押し込みながらぽつりと呟いた。
先日のような万が一に備え、食べられる時に食べる――そんな意図があるのか、潜伏中の変装が無意味になるほど豪快な食べっぷりを見せている。
かつて彼女にとって人間の食事とは、単なる「生きるための作業」に過ぎなかった。アヴァルから与えられた役割を全うし、彼に嫌われたくないがために腹を満たしていただけなのだ。
だが、今の她的頭の中を占めているのは、ただ一人――あの夜、廃墟の図書館で自分を腕の中に抱きすくめ、耳が溶けるほど甘い声で偽りの愛を囁いた男、フレデリックのことばかりだった。
共和国首都で流行りの食べ物、もしかしたら、彼も食べたものかもしれない。そんなことを思えば、一人の食事も少しだけ楽しい。しかし数日前に味わった彼の精気より美味しいと思えるものなど、彼女にはないと確信できた。
(フレデリックの精気……早く食べたいっす。あの甘くて濃密な《ごはん》を思い出したらお腹が空いてきたっ……)
瞳をうっとりと甘やかな赤に染めかけたリズは、ハッと首を振った。
(ダメダメ、約束の夜まで、ちゃんと『対価』の準備をしなきゃ!)
リズは腕いっぱいのカレーまんを抱えて潜伏先へ戻ると、かつてアヴァルから叩き込まれた膨大な帝国史、魔導回路の基礎、そして二百年の間に自らの目で見てきた大陸各地の記録を記憶の引き出しから必死に掘り起こし始めた。
「えっと……アヴァル様が即位される前の帝国の暗闘史と……絶滅した精霊種の生息地域と……あ、そういえば百年前の大飢饉の時に見た、不思議な遺跡の話もフレデリック好きそうっすね!」
フレデリックに「物知りな可愛い悪魔」だと思われたい。
彼が喜ぶ顔が見たい。……そして何より、彼の手で頭を撫でられながら、あの極上の精気を心ゆくまで味わいたい。
ハニートラップを掛けられているということを心の奥で薄々悟りながらも、リズは純粋に楽しみだと期待を膨らませ、約束の夜を心待ちにしていた。
─────────
一方、アンテレット共和国の中枢――コントラタックの本部執務室。
「……長官、アリストクラットの『スペードのキング』に関する潜入ルートの解析データですが」
「ああ、そこに置いておいてくれ」
書類の山に向かい、静かに眼鏡を直すフレデリック。
部下が退出すると、彼は深く椅子に背を預け、長い溜め息を吐いた。
彼のデスクの上には、二つの資料が並んでいる。
一つは「アリストクラットのスペードのキング・リズの危険性と抹殺計画書」。
そしてもう一つは、彼自身が夜を徹して書き上げた「帝国史における魔導回路の科学的観測と解析、神獣の干渉波形に関する考察ノート」だった。
(……阿呆な悪魔だ)
フレデリックは冷徹な眼光を書類に向けながら、苦笑を漏らす。
(敵国のトップにハニートラップを仕掛けられているとも知らず、こちらの要求を素直に飲み、対価として帝国の機密となり得る歴史を語ろうとしている。アヴァルの手足をもぎ取るための工作としては、拍子抜けするほど順調だ)
……順調なはずだった。
だが、書類に目を通すフレデリックの脳裏にふと浮かぶのは、朝陽の中で胸元を隠しながら顔を真っ赤にしていたリズの姿であり、交わりの最中に見せたあの痛々しいほど無垢な拒絶への怯えだった。
「……ふん。歴史の講義か。どれほどの価値があるか、試させてもらうとしよう」
冷徹な打算で自分を納得させるように呟きながらも、フレデリックは今夜の密会のために用意させた共和国特製の高級洋菓子と、彼女を包むための柔らかい毛布を、静かに鞄へと収めていた。
骨抜きにするためのハニートラップ。
利用するための甘い逢瀬。
その計算の綻びは――コントラタックの《クイーンチェス》アイシャ・トレメインの鋭い視線によって、思わぬ形で見破られようとしていた。
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