第7話 暴食に狂った蠅
女司祭の目が、まん丸に見開かれた。
「しゃ、しゃべ――」
「しゃべったのは、俺だ」
ダンテは素早く切り返した。
女司祭の目が、さらにまん丸になった。
「――では、私を雌とお呼びになったんですか?」
ダンテはベルゼブブをむんずと握り、力強い動作で懐にねじ込んだ。
このイカれハムスターめ。
【チュ、チューッ! チュッ!】
「あー……。そ、そういうわけじゃなく――。とにかく――。行きましょう、早く」
何にせよ、今は場所を移さねばならない。
足早に歩き出すダンテを見ながら、彼女は呟いた。
「……こっちですよ」
「んんっ……」
ひとまず、ただ頭を下げるしかないダンテだった。
***
小聖堂の中には、誰もいなかった。
彼女は椅子を引いてきてダンテに勧めると、すぐに口を開いた。
「お聞きしたいことは、いくつもあるのですが……」
ベルゼブブの話を切り出されるかとダンテが身構えたのも、束の間。
「まずは、お礼から申し上げます。見事な腕前でした」
彼女はダンテに向かって、その大きな巨躯を、ぐぐっと深く折った。
下がって、また上がってくるまでにたっぷり時間のかかる巨躯の律儀さが、どうにも見ていて気恥ずかしく、ダンテはさっさと話題を変えた。
「感謝ついでに、こっちから先に聞かせてもらおう。さっき、イスカリオを何と呼んだ?」
この女の態度はともかく、今確かめたいことは一つだ。
裏切り者、イスカリオはどうなったのか。
「な、七体の魔王の一体、ですか? 暴食の悪魔、イスカリオ?」
七罪宗。
七つの大罪の顕現。
そのうちの一体、【暴食】。
イスカリオ。
ダンテは、呟いた。
「怠惰のベルフェゴール」
「え? は、はい」
「強欲のマモン」
「……はい」
「色欲のアスモデウス」
確かめるように一つ、また一つと名を口にするたび、女性の目が見開かれていった。
悪魔の名は、みだりに知れるものではない。
魔王の名は、誰もが知るものではない。
やつらを象徴するのは、動物。
動物の姿を一部かたどった、その姿だけが伝えられているに過ぎない。
怠惰のロバ。
強欲のカラス。
色欲のウサギ……。
なのに、この男は名を口にしている。
自分ですら、師のおかげでかろうじて知っている。
教団でも最高位の大司教以上のみが知る情報を?!
「そ、それをどうして――」
「嫉妬のレヴィアタン」
ダンテは止まらなかった。
「傲慢のルシファー、そして憤怒のサタン……」
「さ、最後の二つは私も知りません。それを――。それは、そんなふうに知れるものでは――」
「暴食のベルゼブブ」
そして、最後の名前。
女性は、もはや口を閉じることすらできずにいた。
その瞳に宿っていたのは、驚愕。そして、恐怖。
(驚いた?)
ダンテは彼女の目を正面から見据えて、再び尋ねた。
「暴食に狂ったネズミ……ベルゼブブ。知っているか?」
「いいえ。私が知っているのは『暴食に狂った蠅』、イスカリオです。ネズミでは、ありません」
今さら驚くことでもなかった。
この世界。いや、2周目の世界。
ここの七罪宗には、ベルゼブブが含まれていないということ。
その席を、別の者が占めているということを、ダンテはようやく理解できた。
(七罪宗の一体に、なってしまったのか……)
ダンテは、ふっと笑った。
暴食の蠅、イスカリオ。
(むしろ復讐は、もっと気持ちよくやれそうだ)
ここは、過去だ。
六年前、自分がこちらの世界へ放り込まれた――何が何やら分からないまま憑依させられた、あのときと同じ。
イスカリオがあのときのように、今この場所にいたとしたら。
まだ自分と何のつながりもない、善良で純粋な司祭だったなら。
殺すのは、心苦しかっただろう。
いや、心苦しくはなくとも、確かな後味の悪さが――喉に刺さった魚の小骨のような感情が、残ったはずだ。
裏切ったのは1周目のイスカリオで。
自分が殺さねばならないのは、2周目のイスカリオなのだから。
(七罪宗なら、どうせ殺さなきゃならん相手だ)
だが、こうなれば話は別だ。
自分がベルゼブブを連れて帰ってきたから?
あの場にいたイスカリオが、【暴食】の席を占めることになった?
(……それだけじゃ、ないよな?)
他の仲間たちもいた。
他の仲間たちもイスカリオの言葉に賛同し、ダンテを生贄として捧げた。
だとすれば、単にベルゼブブが消えたから空席を埋めた、という程度の話ではないはず。
最も暴食にふさわしい者?
ダンテはふと、ベルゼブブの言葉を思い出した。
(生への執着、渇望……。そういうことか)
誰よりも、生きたがっていたから。
誰よりも、生を渇望していたから。
結局、空席となった暴食の七罪宗の座に、収まったということか。
そしてイスカリオが七罪宗になってしまったこの世界では、やつのいた席をこの女が占めた、と?
ダンテはしばし考えを整理してから、尋ねた。
「もう一つ。ベルゼブブの名を聞いて驚いた理由は?」
他の魔王の名にも驚いていたが、ベルゼブブの場合は、質が違った。
その微細な差を感じ取れないダンテではない。
ならば彼女は、この世界には存在しないベルゼブブについて、知っているはずだ。
そして、それを知っていること自体が非常に重大な事柄だと、認識していると見ていい。
ダンテの読みどおりだった。
好奇心に満ちていた彼女の瞳が、わずかに揺れた。
彼女の視線が、左へ、右へ。
誰かに聞かれてはいないか、十分に警戒してから、彼女はためらいがちに答えた。
「ぼ、暴食……の別の名だという説が、あるからです。いえ、せ、正確には、私の師匠が教えてくださったのですが……」
「暴食の、別の名……。師匠というのはどなただ? どこにおられるか、教えてもらえるか?」
ダンテは尋ねた。
ベルゼブブという存在が消えた世界だ。
その中で、あの名を知っている人物がいるとしたら?
(俺が過去へ戻る前……回帰前の世界を知る人物)
もしかすると、重要な鍵となる人物ではないのか。
単なる過去、現在の話ではない。
過去へ戻ってこられた、根本的な理由。
(ゲーセンの店主。あるいは今、この筐体の前に座っている誰か。それが駄目でも、せめて筐体――この世界の構造について、知っている可能性がある)
ゲーム、筐体、そしてゲーセンとして、ダンテが認識している。
まさにこの世界を成す構造を、知っていそうな人物!
「亡くなりました」
は、死んでいた。
「あ」
一瞬にして、全身から力が抜けていく感覚。
膝からくずおれそうになる虚脱の回答にもかかわらず、へたり込まなかったのはダンテだからこそだろう。
「で、でも! 今は禁書に指定されている本に、その名が記されていると教えてくださいました」
女性は、まるで自分が悪いことをしたような気分で、慌てて言葉を継いだ。
ダンテの目に、光が戻った。
「亡くなった師匠は、おそらく主神教の人間。禁書指定されるほどのものなら、エリャの図書館、地下9階にあるのか?」
まだ年若い司祭だ。
状況からして、この世界の主神エリャを奉じる主神教の人間が師のはず。
そして主神教で禁書指定といえば、どこにあるかも見当がつく。
「……どうしてご存じなんですか? 地下9階? エリャの図書館は、地下4階までしかないのに……」
通常、地上7階、地下4階までの存在しか知られていない、主神の名を冠した図書館。
その最も深い場所に、あるのだろう。
「昔、行ったことが――。いや、ゴホン! そうじゃなくて、とにかく。丁寧な回答に感謝する」
ダンテは気まずさに、席を立とうとした。
だが、がしり。女性はダンテの袖をつかんだ。
「待ってください! 聞くだけ聞いて、どこへ行くつもりですか!」
切実な表情。
本心がすべて表れた顔で、彼女はダンテを座らせた。
その力に驚いたのも、束の間だった。
「どうやって知ったんですか? 他はともかく。ベルゼブブ」
彼女は問うた。
やはり、この質問が来るか。
ダンテはしばし彼女の目を見つめてから、立ち上がりながら言った。
「司祭様、親切にひとつ助言して差し上げよう。今後は、誰かに聞かれたからといって、いちいち全部答えないように。カモにされて生きたって、ろくなことがないんでね。それじゃあ俺は――んんっ、俺は――。……ん?」
いや、立ち上がれなかった。
袖をつかむ、この力?
抜けない。抜け出せない!
無理に引き抜こうものなら服がビリビリに破けてしまうほどの、凄まじい握力。
切実だった彼女の瞳には、いつしか、わずかな怒りが宿っていた。
「言ってください。師匠を死に追いやった……その名を、どうやって知ったのか」
このまま帰ると言おうものなら、そのまま投げ飛ばされそうな眼光ときたか。
ゴクリ。
ダンテを一瞬なりとも緊張させるほどの本気が、彼女の顔には表れていた。
何より、ダンテとしても聞き流せなかった。
師は老衰で亡くなり、本は不純または不正確な内容ゆえに禁書指定されたのだと思っていたのに。
(師匠を、死に追いやった……?)
単に禁書を読んだから処刑した?
いや、主神教はそういう動き方をしない。
師を殺した本当の理由は「口封じ」の可能性が高い。
ならば、何を封じようとした?
まさに、ベルゼブブに関する情報だろう。
それが危険であること、あるいは隠すべきであることを「正確に知っている者」が、教団の上層部に存在するという意味だ。
(ベルゼブブがイスカリオに置き換わった真実を知っているなら、俺が過去へ戻ってきたこの事件についても、知っているかもしれない。どんな記録が、どう記されているのかは分からんが……)
この女性の師を殺して口を封じようとした、その誰かは知っているはずだ。
そいつに会うには。
そいつに接近する、最短の方法は?
「答えてください! じ、じろじろ見ないで。そんなふうに見たって、怖くありませんからね?」
ダンテの視線を感じた女性が、眉をひそめた。
考えてみれば、ダンテの思考回路もそれほどおかしなものではなかった。
(イスカリオは数年とかからず、聖者と呼ばれるまでに成長した。その席を占めたのがこの女なら、この女が聖者……いや、聖女に成長するのか? なら、俺の仲間に……?)
この女は、(旧)イスカリオも同然だ。
なら、一緒に行くか?
だが、一緒に行って、この前のような事態が起きたら?
(いや待て。今回はベルゼブブが俺と一緒にいるうえに……そもそも仲間を集める必要が、あるのか?)
このわずかな思案の間に、ダンテはもう一つのことを知った。
巨躯の女司祭が、ただ力が強いだけではないということを。
「ダンテ様も、真実を……。つまり、エリャの図書館の9階? そこにある禁書を、ご覧になりたいんですよね? 主神教の内部に、お知りになりたいことがある。そうでしょう?」
彼女から情報を引き出していたのは、ダンテだけではない。
会話を交わしながら、彼女もまたダンテを見ていた。
つまり、ダンテが何を望んでいるのかを、彼女もおぼろげに読み取ったうえで、提案しているのだ。
〈あなたが望むものを得るために、私を利用しなさい〉と。
「……4階までしか、入れないんだろう?」
ダンテは言った。
〈まだお前には、それほどの利用価値がないだろう?〉
「今は、そうですね」
彼女は、揺るがなかった。
澄んだ声。そして、眼差し。
馬鹿では、ない。
今の会話を見ているだけでも分かる。
(自分の神聖力がどれほど特別で、価値があるか、よく分かっているな。実際、その通りだ。聖者……いや、聖女の称号まで得られれば、実際に禁書区域への接近も可能になる)
イスカリオが、そうだったのだから。
だが、聖女になるには、まだ長い時間がかかる。
何より……。
(俺がいなければ、聖女の地位を得るのは難しいはずだが)
イスカリオが聖者になったのは、ダンテとの旅路が始まって以降だ。
数多のモンスターを殺し、魔族を討伐し、人類を救い……。
「勇者パーティーの聖者」と呼ばれるようになって初めて、聖皇から直々に「聖者」の称号を授かったのだ。
なら?
今、この女を連れて歩く?
再び、仲間にしろと?
「……」
「……」
二人は、互いを見つめ合った。
ダンテは、やがて決断を下した。
「9階までは、階段で下りていくんじゃない。5階からポータルを通って、直接9階に到達した。ポータルへ案内したのは、聖皇の秘書室長、ウォークマン大司教」
女性の、混乱した眼差し。
理解できない、という表情。
やはり、顔にそのまま出る。
「……はい? 待ってください。秘書室長……? いえ、そもそもウォークマン様は司教で――」
「そうだ。ウォークマンは『今は』司教だな。大司教への昇進順位も、かなり後ろのほうだ」
だから、ダンテは一言を付け加えてやった。
自分の言葉の意味を、この女はどこまで理解するだろうか。
どう、受け止めるだろうか。
女性は、そのまん丸な瞳でダンテをじっと見つめた。
ダンテは、それ以上口を開かなかった。
ただ、観察するだけだった。
女性の驚いた目が、次第に落ち着きを取り戻すまで。
お、と開いていたその口が、真剣さを取り戻すまで。
彼女が口を開くまで、そう長くはかからなかった。
「フィデリス3世聖皇猊下は、ご健在なのですよね?」
その問いを聞いた、ダンテの口角がゆらり、と上がった。
事実上、明かしたも同然だ。
〈ウォークマン司教は、未来に大司教となり、聖皇の秘書室長になる〉
自分が、未来の情報を知っていると。
彼女はその言葉を受け止めたうえで、問い返しているのだ。
〈そのときの聖皇は――その「未来の聖皇」は、今のフィデリス3世のままなのですね?〉
それが回帰なのか、未来予知なのか、何なのかは知ったことではない。
とにかく、あなたの知るその未来で、聖皇が代替わりする事件は起きましたか? と。
共には、行かない。
だが、いつか共に歩めるだろう。
「名前は?」
ダンテは、彼女の名を尋ねた。
「ベアトリーチェ」
彼女は答えた。
「うまくやっていこう。ベアトリーチェ」
ダンテが手を差し出した。
ベアトリーチェは、ダンテの手をぎゅっと握った。
「はい、ダンテ様」
「あ、ああっ!? ちょ、ちょっと待て! 力、力を抜け! 力! 手! 手がぁ!」
ダンテは思った。
この女がゴブリンの太ももより分厚いあのメイスを持って振り回していたら。
ホブゴブリンなんて、あっさり死んでいたんじゃないか……。
現在レベル7、力にそれなりのステータスを注ぎ込んだ自分より握力が強いことだけは、確かだった。
ダンテの隣に、ベアトリーチェが並びました(まだ仲間ではありませんが)。
『神曲』では地獄巡りの案内人はウェルギリウスですが、本作の案内人(?)はハムスターです。
次回、魔王に「あだ名」がつきます。魔王は全力で抵抗します。




