番外編 アンナの頁 寒かったのではありません
寒かったのではありません。
そう申し上げたとき、お嬢様は本当に分からない顔をなさいました。あの方は、嘘をつくときより、分からないときの方がずっと怖い顔をなさいます。怒っているのではありません。悲しんでいるのでもありません。ただ、こちらの言葉が、あの方の知っている形に入らないのです。
私は、その顔を何度も見てきました。
セレスティアお嬢様にお仕えしたのは、私が十二の頃からです。お嬢様は五つで、髪は今より少し明るく、眠る前には必ず同じ詩集を開かれました。まだ字を全部読めるわけではありませんでしたが、頁をめくる指だけは丁寧で、子どもなのに、もう公爵家の令嬢の手をしていらっしゃいました。
初めてお部屋に入った日、お嬢様は私をじっと見て、『あなたがアンナね』とおっしゃいました。私は礼をしました。膝が震えていました。
『震えないで。侍女が震えると、主人が落ち着かないわ』
それが、最初に教えられたことでした。
お嬢様は、悪意でおっしゃったのではありません。本当に、そうした方がよいと思っていらしたのです。私も、そうだと思いました。公爵家の侍女が廊下でおどおどしていれば、笑われるのは私だけではありません。お嬢様の部屋付きが不作法だと言われます。だから私は、震えないようにしました。
うまくはできませんでした。
手はいつも先に震えました。銀の盆を持つと、杯が小さく鳴ります。針を持つと、布ではなく指を刺します。呼ばれる前に立っていようとすると、足音を聞き間違えて廊下へ出てしまいます。お嬢様は、そのたびに教えてくださいました。
『盆は体に近づけすぎない方がよいわ』
『針を怖がるから刺すのよ』
『呼ばれてから動いては遅いけれど、呼ばれていないのに来るのは見苦しいわ』
どれも、間違ってはいません。今でも、間違っていたとは思いません。ただ、正しい言葉は、毎日少しずつ聞くと、刃物ではないのに皮膚の下へ入ってくるのだと知りました。
お嬢様は、よく眠れない子でした。夜になると、寝台の横に下げた呼び鈴の紐を引かれます。金色の房飾りがついた、立派な紐でした。最初の頃、私はその音が鳴るたび、急いで部屋へ向かいました。お嬢様は枕元で身を起こし、『遅いわ』とおっしゃいます。
『申し訳ございません』
『怒っているのではないの。夜に一人で待つのは、長いのよ』
そう言われると、私はもう一度謝るしかありませんでした。
温めた牛乳をお持ちすることもありました。詩集を読むこともありました。暖炉の火を直すこともありました。お嬢様は私に椅子へ座るようおっしゃって、眠るまでそこにいるよう命じられました。命じる、という言葉は強すぎるかもしれません。あの方は、そうしてほしいとおっしゃっただけです。
でも、私が立ち上がろうとすると、目を開けます。
『もう行くの』
私は、座り直しました。
朝になると、奥様が部屋へいらして、お嬢様の髪を撫でました。眠れなかったのね、とおっしゃいました。私は、その後ろで礼をしました。誰も、私が眠れなかったことは聞きませんでした。聞かれなくてよかったのだと思います。私は侍女ですから。
香水瓶のことは、あまり書きたくありません。けれど、書かなければ、きっとこの頁も都合のよいものになります。
お嬢様が十六になられた年です。奥様から白い硝子の香水瓶を贈られました。細い首の、光を受けると内側が青く見える瓶です。お嬢様は、それをとても大切になさいました。夜会の支度のたびに、私が手袋をはめる前、ほんの少しだけ香りを移しました。
ある夜、私はその瓶を落としました。
急いでいたのです。お嬢様の髪飾りの位置を直し、靴の留め具を確認し、馬車の時間を気にしていました。手の中で硝子が滑り、床に落ちました。割れたわけではありません。蓋の縁が欠け、中身が少しこぼれました。
お嬢様は、怒鳴りませんでした。それが、かえって苦しかった。
あの方は欠けた瓶を両手で包み、しばらく見つめて、それから静かに泣きました。声は出しません。涙だけが落ちました。私は床に膝をつき、何度も謝りました。お嬢様は『もういいわ』とおっしゃいました。許されたのだと思いました。
けれど、そのあとで、お嬢様は香油を温め直すようおっしゃいました。
小さな銀皿に移したところまでは、よく覚えています。火を近づけすぎないことも、布を添えることも、教わっていました。けれど私の手は震えていて、お嬢様はその手を見て、『そんなに怖がるから失敗するのよ』とおっしゃいました。
私はもう一度、皿を持ちました。
お嬢様は、私の手が震えているのを見ていました。それでも、『落ち着いて。もう一度』とおっしゃいました。
その先は、少しだけ記憶が途切れています。
熱かったことは覚えています。お嬢様が私の名を呼んだことも覚えています。その声が、叱る声ではなく、驚いた声だったことも覚えています。
だから、お嬢様が私を傷つけようとなさったとは書けません。書けないのです。あの方はきっと、私の震えを止めようとしただけです。私も、止めたかった。きちんとしたかった。お嬢様を困らせたくなかった。
でも、手首の皮膚は、あとから赤く膨れました。
しばらく包帯を巻きました。お嬢様は何度も見舞ってくださいました。
『痛むの』
そう聞かれるたび、私は『少しだけです』と答えました。本当は、袖が触れるだけで息が詰まりました。でも、お嬢様は私の答えを聞いて、安心した顔をなさいました。私は、その顔を見ると、もう本当のことを言えませんでした。
少しだけ、と言えば、お嬢様は安心なさる。大丈夫です、と言えば、部屋が静かになる。私は、その静けさを選ぶようになりました。
白薔薇の間で、お嬢様に名前を呼ばれたとき、私は銀の盆を持っていました。杯が鳴りました。音は小さかったはずです。けれど、お嬢様は気づいたでしょう。あの方は、私の小さな失敗にはよく気づかれます。
お嬢様は、私に尋ねました。
『あなたも、わたくしが悪いと思うの』
私は答えられませんでした。
悪い、という言葉は簡単すぎます。お嬢様は、悪い方ではありません。少なくとも、私が十二の頃、眠れない夜に詩集を抱えていた小さなお嬢様は、誰かを傷つけようとしていたわけではありません。私が熱を出したとき、薬湯を飲むように枕元で見張ってくださったお嬢様も、悪い方ではありませんでした。
けれど、悪い方ではない人のそばで、息がしにくくなることはあります。
私は、それを言えませんでした。
殿下が『答えなくていい』とおっしゃったとき、私は救われました。それと同時に、恥ずかしくなりました。
私はお嬢様の侍女でした。幼い頃から髪を結い、ドレスを選び、呼び鈴が鳴れば夜中でも部屋へ行きました。誰よりそばにいたのは私です。なら、止めるべきだったのも、私だったのかもしれません。
ミレーユ様が泣きそうな顔で廊下に立っているのを、何度も見ました。階段の練習から戻ったあと、手袋を外せずにいるのも見ました。お嬢様が『あの子は転びやすいの』とおっしゃるたび、私はうなずきました。いいえ、うなずいたのではありません。黙っていました。お嬢様は沈黙を、同意のように受け取ることがありました。
私は、それを知っていました。知っていて、黙っていました。その方が、部屋が静かだったからです。
お嬢様が屋敷へ戻られた翌朝、私はお部屋の片づけに入りました。白い前掛けをつけ、袖を少し上げました。手首の布はきつく巻きました。痛みを隠すためではありません。お嬢様に見つめられたくなかったからです。
それでも、見つかりました。
お嬢様は『結び直してあげるわ』と手を伸ばされました。私は手を引きました。ほんの少しです。それでも、お嬢様は気づかれました。あの方は、私の小さな動きには本当によく気づかれます。私は、とっさに言っていました。
『触らないでください』
言った瞬間、部屋の空気が変わりました。
私は、取り返しのつかないことをしたと思いました。長く仕えた主人に向かって、触らないでくださいなどと。侍女として許される言葉ではありません。けれど、一度出てしまった言葉は戻せません。
お嬢様は、本当に分からない顔をなさいました。その顔を見て、胸が痛みました。この方は、本当に分からないのだと思いました。
白い夜会服のことも、覚えています。
お嬢様は、それを修道院へ持っていくとおっしゃいました。私は止めようとしました。修道院で絹の夜会服など使わないからです。けれど、それだけではありません。
あの服は、お嬢様が王妃陛下の茶会で着たものです。お嬢様がいちばん美しく見えた日の服です。私も、よくお似合いですと申し上げました。たしかに言いました。お嬢様は、少しだけ満足そうになさいました。私はその顔が好きでした。好きだったのです。
だからこそ、その服まで修道院へ持っていこうとなさるのが、つらかった。お嬢様は、あの白い布で自分を守ろうとしているように見えました。王宮で美しかった自分を、鞄に詰めて持っていくように見えました。
私は止められませんでした。家令も止めませんでした。誰も止めませんでした。そういうことが、あの屋敷には何度もありました。
お嬢様が悪いのだと言えば、話は簡単です。けれど、私たちは皆、少しずつお嬢様を止めずに済む方を選びました。お嬢様が泣くより、黙っていた方がよい。お嬢様が傷つくより、ミレーユ様が目を伏せる方がよい。お嬢様が崩れるより、アンナの手首に布を巻く方がよい。
私も、その中にいました。
呼び鈴の紐を箱に入れたとき、お嬢様は懐かしそうになさいました。よく来てくれたわ、とおっしゃいました。私は、はい、としか答えませんでした。
本当は、あの紐の音を今も夢に聞くことがあります。夜中、遠くで小さな鈴が鳴ります。起きなければ、と思います。行かなければ、と思います。遅いと言われる前に、椅子へ座らなければと思います。でも、夢の中でも、廊下が長いのです。
お嬢様は、その紐も持っていこうとなさいました。
私は言いました。
『鳴らしても、誰も来ません』
あれは、意地悪だったのでしょうか。
言わなくてもよかった言葉です。修道院には呼び鈴がございません、だけで終わらせればよかったのです。けれど、口から出ました。鳴らしても、誰も来ない。私は、その言葉をお嬢様に聞かせたかったのかもしれません。聞かせて、少しだけ困らせたかったのかもしれません。
だとしたら、私はよい侍女ではありません。
最後に部屋を出るとき、お嬢様は私に尋ねました。
『あなたは、わたくしを恨んでいるの』
私は振り返れませんでした。
恨んでいる、と言えばよかったのでしょうか。恨んでいません、と言えばよかったのでしょうか。どちらも違いました。私はお嬢様を恨んでいます。たぶん、恨んでいます。でも、眠れない小さなお嬢様のそばで詩集を読んだ夜も覚えています。熱を出した私に、お嬢様が薬湯を飲むまで見張ってくださったことも覚えています。香水瓶の欠けを見て泣いた顔も、修道院へ白い夜会服を持っていこうとした横顔も、全部覚えています。
恨むには、あまりにも多く覚えていました。許すには、あまりにも多く残っていました。
だから私は、別のことを言いました。
『寒かったのではありません』
それだけを言いました。
お嬢様は分からない顔をなさいました。私はそれ以上、何も言えませんでした。
部屋を出てから、廊下で少しだけ立ち止まりました。扉の向こうで、お嬢様が動く気配がしました。私は戻りませんでした。戻れば、また何かを直し、何かを包み、何かを見ないふりをしたでしょう。
だから、戻りませんでした。
その夜、私は自分の部屋で、手首の布を外しました。古い痕は、もう痛みません。痛まないはずです。けれど、白い布をほどくと、いつも少しだけ寒くなります。火が怖いのではありません。熱が怖いのでもありません。あのとき、お嬢様が本当に驚いた顔をなさったことを思い出すのが怖いのです。
あの方は、私が傷つくと思っていなかった。たぶん、本当に。
それが、いちばん怖いのです。
寒かったのではありません。
怖かったのです。
でも、それをお嬢様に申し上げるには、私は長く黙りすぎました。
番外編です。別の場所から見た記録です。




