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信じないでください、私の話を  作者: あゆと


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番外編 ミレーユの頁 お姉様は、いつも優しかったのです

 お姉様は、いつも優しかったのです。


 そう書かなければ、私はまた、あの方をただの悪い人にしてしまう気がします。そうしてしまえば、とても楽です。怖かったことも、苦しかったことも、階段の途中で息が止まったことも、全部、お姉様が悪かったのだと言えます。でも、たぶん、それだけではありません。

 私は、セレスティアお姉様の本当の妹ではありません。遠縁の男爵家の娘で、行儀見習いとしてヴァンクリーフ公爵家に預けられただけです。けれど屋敷の方々は、いつしか私をお嬢様の妹のように扱うようになりました。私も、あの方をお姉様と呼ぶようになりました。

 最初は、その呼び方が少し嬉しかったのです。

 公爵家の美しい令嬢を、お姉様と呼ぶ。お姉様がこちらを見てくださる。歩き方や礼の角度を直してくださる。遠縁の男爵家から来た、何も知らない娘だった私には、それが特別なことのように思えました。

 お姉様は、私に作法を教えてくださいました。食卓でどの匙を先に取るか。王宮で誰に先に礼をするか。扇を開く角度。階段を降りるときに裾を踏まないこと。私が何も知らないまま王宮へ出れば、きっと誰かに笑われたでしょう。だから、お姉様は教えてくださいました。それは本当です。


 これを書いているのは、セレスティアお姉様が屋敷を出られた翌日の朝です。玄関ホールには、もう馬車の轍が残っていません。雨も降っていないのに、石畳だけが少し濡れて見えます。庭師が水を撒いたのかもしれません。けれど私は、馬車の車輪が通ったあとを、いつまでも見てしまいます。

 昨夜、眠れませんでした。自分の部屋に戻って、灰青の服を椅子に掛け、靴を脱いで、寝台に座りました。胸元にリボンのない服を選んだのは、偶然ではありません。私はすぐリボンを握ってしまうからです。お姉様の前に立つと、指が勝手に何かを探します。胸元の布でも、袖口でも、手袋の端でも、握れるものを探してしまうのです。

 だから、見送りのときは、握れるものが少ない服を選びました。少しずるいでしょうか。

 お姉様は、私を見て『優しいのね』とおっしゃいました。その瞬間、私はまた、何かを間違えた気がしました。優しいのか、逃げたかったのか、見届けたかったのか、自分でもよく分かりません。けれど私は、あの方が屋敷を出るところを見なければいけないと思いました。見なければ、たぶん一生、扉の向こうにお姉様が立っている気がしたと思います。

 お姉様は、いつも先にそこにいました。朝の廊下。食卓の入口。階段の上。舞踏会の控え室。私が失敗しないように、私が恥をかかないように、私が正しく立てるように、いつも先に見ていらっしゃいました。

 私は、それをありがたいと思うべきでした。実際、ありがたいと思ったこともあります。

 ヴァンクリーフ家に来たばかりの頃、私は本当に何も知りませんでした。父の男爵家では、礼儀は大切でしたが、公爵家や王宮の礼とは違いました。声を出すタイミングが遅れ、手袋の色を間違え、食卓で目を伏せすぎました。お姉様は、すぐに気づきました。

『その礼では、相手に媚びているように見えるわ』

 最初にそう言われた日のことを、今も覚えています。私は泣きそうになりました。恥ずかしかったからです。でも、お姉様は続けました。泣く前に直しなさい。涙は便利だけれど、宮廷では武器にも弱点にもなる、と。

 私は、その意味が分かりませんでした。今も、全部は分かりません。ただ、あの日から、私は鏡の前で何度も礼をしました。背筋を伸ばし、顎を引き、目を伏せすぎず、上げすぎず。できたと思ってお姉様の部屋へ行くと、お姉様は私の肩に触れ、ほんの少し位置を直しました。

『ほら、こちらの方が美しいでしょう』

 たしかに、美しかったのです。お姉様の言う通りに立つと、私は少しだけ公爵家の娘のように見えました。遠縁の男爵家から来た、作法も知らない娘ではなく、誰かに認められる形になれた気がしました。それが、嬉しかったこともあります。

 だから私は、お姉様を嫌いになりきれません。

 ここまで書いて、手が止まりました。嫌いになりきれません、という書き方は卑怯かもしれません。嫌いだった、と書けばいいのかもしれません。怖かった、と書けばいいのかもしれません。けれど、それだけでは嘘になります。

 私は、お姉様に褒められたかったのです。今でも、その気持ちが少し残っています。

 お姉様が屋敷を出る前、私は玄関ホールで礼をしました。背筋を伸ばし、手の位置を正し、顔を上げるタイミングを間違えないようにしました。あれは、お姉様に何度も教えられた礼です。お姉様は、それを見てくださいました。

 胸の奥で、ほんの少しだけ、ほっとしました。褒めてくださるかもしれないと思ったのです。でも、お姉様は何もおっしゃいませんでした。いえ、言わなくてよかったのです。あの場で褒められたら、私はまた、お姉様の前でよい子になろうとしたでしょう。それなのに、少し寂しかった。

 おかしな話です。お姉様から逃げたかったのに、最後まで、お姉様に見てもらいたかったのです。


 大階段のことを書きます。

 あの日、私は裾を踏んだのでしょうか。金具に引っかかったのでしょうか。お姉様が手を伸ばしたのは、助けようとしたからでしょうか。私には、分かりません。

 こう書くと、皆は驚くかもしれません。私は被害者なのだから、何が起きたかをはっきり言えるはずだと思うでしょう。でも、あのときのことを思い出そうとすると、手すりの金色と、絨毯の赤と、お姉様の白い手袋ばかりが浮かびます。

 お姉様の手が、近づいてきました。私は、それを見ました。その手が私を支えようとしていたのか、裾を直そうとしていたのか、引こうとしていたのか、分かりません。ただ、私はその手が怖かったのです。手が伸びてくる前から、もう怖かった。だから体が引きました。

 そのせいで足が滑ったのかもしれません。

 もしそうなら、お姉様だけが悪いのでしょうか。

 私は、これを誰にも言いませんでした。アルベルト殿下にも、はっきりとは言っていません。殿下は『無理に思い出さなくていい』とおっしゃいました。その言葉に、私は甘えました。思い出さなくていいと言われたので、思い出さないで済むところだけを選びました。

 階段で転んだあと、皆がお姉様を見ました。私は膝が痛く、足首も熱く、息がうまく吸えませんでした。けれど、部屋中の視線がお姉様へ向かったのは分かりました。その瞬間、私は少しだけ楽になりました。


 私ではなく、お姉様が見られている。


 そのことに、ほっとしたのです。

 このことは、書かない方がよいのでしょうか。でも、ここに書かなければ、私はまた、きれいな被害者になってしまいます。

 お姉様の前では、私はいつも何かを直される側でした。声が小さい。手が落ち着かない。裾を踏む。礼が遅い。笑い方が幼い。色が似合わない。食卓で目を伏せすぎる。

 どれも、たぶん正しかったのです。でも、毎日少しずつ直されると、私は自分の形が分からなくなりました。

 お姉様が間違いを見つける前に、自分で間違いを探すようになりました。部屋に入る前に手の位置を確認し、廊下で足音を消し、食卓では匙の順番だけを見て、夜会では笑う前にお姉様の顔を探しました。お姉様が何も言わないと、安心しました。お姉様が優しく微笑むと、もっと怖くなりました。優しく微笑むときほど、あとで何かを直されるからです。

 お姉様は、私を壊したかったのではないと思います。あの方は、私を正しくしようとしました。恥をかかないように、王宮で笑われないように、誰からも軽く見られないように。私も、それを分かっていました。分かっていたからこそ、逃げるのが悪いことのように思えました。

 優しさから逃げるのは、とても悪いことのように思えたのです。


 アルベルト殿下のことも、書いておきます。

 私は、殿下を利用しました。

 そう書くとひどい女に見えるでしょうか。けれど、そういうところが、確かにありました。殿下は、私が黙っていると待ってくださいました。言葉にできないとき、急かしませんでした。階段のことも、夜会服のことも、教本のことも、私が泣けば信じてくださったわけではありません。ただ、泣き止むまで待ってくださいました。

 私は、それが嬉しかった。同時に、これは使える、と思ったこともあります。

 今、書いていて恥ずかしくなりました。でも、嘘ではありません。

 私は、お姉様の前では言葉を失います。けれど、殿下の前では、少しずつ言葉が戻りました。戻った言葉を、私は選びました。お姉様にされたことを全部話したわけではありません。お姉様に助けられたことも、褒められたかったことも、私がほっとした瞬間のことも、言いませんでした。

 怖かったことを話しました。つらかったことを話しました。息ができなかったことを話しました。それらは全部本当です。

 でも、全部ではありません。

 白薔薇の間で、殿下がお姉様との婚約を解くと告げたとき、私は胸の前で手を握っていました。あれは癖です。けれど、癖だけではありません。手を握っていれば、皆は私が怯えていると分かります。そう思っていたのかもしれません。いいえ、思っていました。

 私は、あの場でお姉様に勝ちたかったのでしょうか。

 勝つ、という言葉は違う気がします。逃げたかった。終わらせたかった。もう、お姉様に『こちらを見て』と言われたくなかった。けれど、もし終わらせるために、私は自分が一番弱く見える顔を選んだのだとしたら。

 それもまた、罪なのでしょうか。


 セレスティアお姉様は、最後に私へ『優しいのね』とおっしゃいました。

 私は、その言葉に返事ができませんでした。優しいから見送りに来たのではありません。憎いから来たのでもありません。きっと、私の中には、いろいろなものが混ざっていました。

 お姉様が屋敷を出ていくところを見たい。お姉様がいなくなることを確かめたい。でも、誰にも見送られずに出ていくお姉様を想像すると、胸が痛い。それらは同じ場所にありました。だから私は玄関ホールに立ちました。

 お姉様に『私は、お姉様に消えてほしいと思ったことはありません』と言ったとき、その言葉は本当でした。消えてほしいとは思っていません。けれど、遠くへ行ってほしいとは思いました。私の声が届かない場所へ。私の礼を直せない場所へ。私が笑っても、何も言わない場所へ。

 それは、どれほど違うのでしょう。

 馬車が出たあと、私は玄関ホールに残りました。家令が、もうお部屋へ、と言いました。私はうなずきました。でも、すぐには動けませんでした。扉の向こうの音が消えるまで、そこに立っていました。

 お姉様がいなくなった屋敷は、少し広くなったようでした。それは、解放なのでしょうか。それとも、空白なのでしょうか。今はまだ分かりません。

 私は、自分の部屋へ戻り、鏡の前に立ちました。灰青の服には、大きなリボンがありません。手を胸の前に上げても、握るものはありませんでした。指が空をつかみ、少し震えました。私は、その手を下ろしました。そうしたら、急に泣きそうになりました。

 泣きませんでした。

 お姉様なら、そこで背筋を伸ばしなさいとおっしゃるでしょう。涙は便利だけれど、宮廷では武器にも弱点にもなる。そう教えてくださったのは、お姉様です。

 私は、背筋を伸ばしました。

 鏡の中の私は、少しだけお姉様に似ていました。それが嫌で、嬉しくて、怖かった。


 お姉様は、いつも優しかったのです。


 この一文を、最初に書きました。最後にも、同じように書こうと思っていました。そうすれば、私はお姉様を憎みきらずに済む。自分をただの被害者にしないで済む。少しだけ正しい人間でいられる。

 けれど、今はもう少しだけ、違う書き方をしたいのです。

 お姉様は、いつも優しかった。

 そして私は、その優しさが怖かった。

 それだけは、私の言葉として残しておきます。

番外編です。彼女の話もまた、彼女の話です。

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