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信じないでください、私の話を  作者: あゆと


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セレスティアの手記 最後の頁 信じてください、わたくしを

 信じてください、わたくしを。


 そう書き始めるのは、これで何度目でしょう。最初の頁では、その言葉を書くと胸の中が少し落ち着きました。二頁目では、アンナが部屋を出ていったあと、机に残ったものを見ながら書きました。三頁目では、大階段のことを書いたあと、指先がひどく冷えていたのを覚えています。


 そして今、わたくしはまた同じ言葉を書いています。


 修道院へ向かう馬車は、屋敷の前に用意されました。外では車輪の具合を確かめる音がしています。廊下には布をかけられた家具が並び、わたくしの部屋から運び出された箱が壁際に置かれています。屋敷は、わたくしがいなくなる準備を、わたくしより先に終えているようでした。


 その日の午後、お父様の執務室へ呼ばれました。


 呼ばれた、と書くと少し違うかもしれません。家令が来て、『公爵閣下がお待ちです』と言ったのです。わたくしは、手帳を閉じ、王宮から握りしめて帰った母の扇を机の上に置きました。扇は持っていくつもりでしたが、そのときはなぜか手に取れませんでした。


 扇を持てば、いつもの自分に戻れる気がしたのに、同時に、いつもの自分に戻ってはいけない気もしたのです。


 廊下を歩くあいだ、使用人たちは皆、脇へ寄りました。いつもなら礼をして、わたくしが通り過ぎるまで静かに待ちます。それは今日も同じでした。ただ、顔を上げる者が少なかっただけです。目を伏せたままの礼は、礼儀としては正しいのでしょう。けれど、あまりに正しすぎるものは、時に冷たく見えるのだと知りました。


 お父様の執務室は、いつも通り整っていました。重い机、革張りの椅子、壁一面の書棚、窓辺の地球儀、封蝋の箱。けれど机の上には、見慣れない小さな箱がありました。紺色の布を張った、手のひらに乗るほどの箱です。


 お父様は椅子に座っていませんでした。窓際に立ち、庭を見ていました。昨日まで薔薇が咲いていた場所では、庭師たちが枝を切っています。まだ咲ける花も、まとめて籠に入れられていました。


 わたくしが『お呼びでしょうか』と言うと、お父様はしばらく返事をなさいませんでした。聞こえなかったはずはありません。けれど、振り返るまでに時間がかかりました。

『座りなさい』

 短いお言葉でした。


 わたくしは椅子に座りました。背もたれに深く寄りかかるのはよくないので、いつものように浅く腰かけました。膝の上で手を重ねます。お父様は、机の上の紺色の箱を見ていました。

『それを、持っていきなさい』

 わたくしは箱を見ました。

『これは』

『お前のものだ』

 お父様の声は低く、ひどく乾いていました。怒っているのではありません。悲しんでいるのでもありません。何かを長いあいだ飲み込み続けた人の声でした。


 箱を開けると、中には青いリボンの髪飾りが入っていました。


 子ども用の小さなものです。淡い青の絹に、銀糸で小さな花が刺繍されていました。古いものなのに、大切にしまわれていたのでしょう。少しも色あせていませんでした。わたくしはそれを見て、しばらく何も言えませんでした。


 覚えがなかったのです。


 いえ、少しだけあります。幼い頃、青いリボンが欲しいと言ったことがあったような気がします。ミレーユが来るずっと前です。王妃陛下の茶会で、同じ年頃の令嬢が青い髪飾りをつけていて、わたくしはそれを見て、きれいだと思いました。帰ってから母に話したかもしれません。お父様に話したかもしれません。


 けれど、そのあとに何があったのかは覚えていません。


 お父様は『渡すつもりだった』とおっしゃいました。

『なぜ、渡してくださらなかったのですか』

 わたくしの声は、自分で思ったより静かでした。


 お父様は箱を見たまま、長く黙っていました。机の端に、書き損じのカードが数枚重なっていました。いちばん上には、途中まで書かれた文字が見えました。


 セレスティアへ。


 その先は、線で消されていました。


『お前は、何かを欲しがるのが下手だった』

 お父様は言いました。

『泣くことも、怒ることも、甘えることも、いつも形を整えてからこちらへ差し出した。私は、それを賢いと思った。強いと思った。手のかからない子だと思った』


 わたくしは、膝の上の手を握りました。


 手のかからない子。そう言われることは、誇らしいことのはずでした。ミレーユのように泣いて人を困らせない。アンナのように震えて物を落とさない。正しく、静かで、家の名に恥じない。それがわたくしの役目でした。


『違ったのですか』

 お父様は、すぐには答えませんでした。

『違ったと、もっと早く気づくべきだった』


 その言い方が、わたくしは嫌でした。まるで、わたくしのすべてが失敗だったと言われたようでした。


『お父様まで、そうおっしゃるのですね』

 お父様は、初めてわたくしを見ました。昨夜、白薔薇の間で顔を背けた人と同じ目でした。疲れていて、逃げたがっていて、それでも今だけは逃げてはいけないと決めた人の目でした。

『セレスティア』

『わたくしは、正しくあろうとしました』

『知っている』

『家の名に恥じないように、殿下のお隣に立てるように、ミレーユにも、アンナにも、恥をかかせないように』

『知っている』

 お父様の声は、そこで少しだけ揺れました。

『だから、止めなければならなかった』


 何を、と聞きたかったのに、聞けませんでした。


 お父様の机には、もう一つ束がありました。封を切られた手紙と、封を切られていない手紙が混ざっていました。家令が朝、わたくしの部屋からまとめたものだそうです。アルベルト殿下から届いた手紙も、その中にありました。


 わたくしは、殿下からの手紙をすべて読んでいたつもりでした。けれど、束の中には封が開いていないものが何通もありました。なぜ開けなかったのか、すぐには思い出せませんでした。きっと、忙しかったのです。夜会の準備、ミレーユの世話、王妃陛下への返礼、家の行事。読む時間がなかったのでしょう。


 お父様は、そのうち一通をわたくしの前へ置きました。

『読むかどうかは、お前が決めなさい』


 封蝋は、まだ割れていませんでした。殿下の紋です。指をかければ、すぐに開くものでした。


 わたくしは、その封蝋を見つめました。


 読みたくない、と思いました。


 そう書くと、わたくしが逃げたように見えるでしょうか。ですが、読まなくても分かることはあります。殿下はきっと、わたくしを責めたのでしょう。ミレーユを傷つけるな、アンナに答えを求めるな、謝罪の形で相手を黙らせるな。そういう言葉が、礼儀正しい筆跡で並んでいるのでしょう。


 白薔薇の間で十分に聞きました。


 もう、これ以上聞かなくてもよいと思いました。


 けれど、お父様は何もおっしゃいません。ただ、待っていました。命じるのでもなく、叱るのでもなく、待っていました。それがかえってつらく、わたくしは封蝋に爪をかけました。


 手紙は、思ったより短いものでした。


『君を責めたいのではない。最後まで読んでほしい』


 最初の行に、そう書かれていました。


 わたくしは、そこで手を止めました。


 最後まで読んでほしい。殿下らしい、優しい書き出しです。けれど、その優しさの先に何があるのか、分かってしまう気がしました。優しい言葉で始まり、最後にはわたくしが間違っていると言うのでしょう。


 わたくしは手紙を閉じました。


『読まないのか』

 お父様が尋ねました。

『今は』

 そう答えると、お父様は目を伏せました。その顔を見て、わたくしはまた少し傷つきました。なぜ皆、わたくしが何かをしないたびに、何かを失ったような顔をするのでしょう。


 手紙を読まないことも、罪になるのでしょうか。


 執務室を出る前に、お父様は言いました。

『修道院には、家の者が月に一度様子を見に行く』

『監視ですか』

『見舞いだ』

 わたくしは笑おうとして、うまく笑えませんでした。

『お父様は、わたくしを心配してくださるのですね』

『していた』

 お父様は、そう言いました。


 していた。


 その過去の形が、胸に残りました。


 わたくしは、髪飾りの箱と、封を開けた途中の手紙を持って、部屋へ戻りました。廊下はやはり静かでした。使用人たちは忙しく動いているのに、誰もわたくしの前では声を高くしません。呼び鈴の紐を外した金具も、持っていく物と残す物の箱も、半分空になった衣装戸棚も、そのままでした。


 部屋には、王宮から持ち帰った母の扇が残っていました。


 持っていくつもりだったはずです。けれど、手に取ると、少し重く感じました。扇は、感情を顔に出さないために持つものだと母は教えてくれました。舞踏会で笑いすぎないために。涙を隠すために。怒りを閉じ込めるために。


 わたくしは、扇を閉じたまま机の上に置きました。


 持っていかなくてもよいかもしれません。


 そう思ったのは、母を裏切ることになるのでしょうか。分かりません。ただ、修道院で扇を開く自分を想像できなかったのです。


 出立の時間が近づくと、家令が鞄を確認しに来ました。


 白い夜会服、母の香水瓶、この手帳、最低限の衣類。


 髪飾りの箱は、迷いましたが入れました。アルベルト殿下の手紙は、手帳の内側に挟みました。読むつもりはありません。ただ、捨てるのも違うと思ったのです。


 家令は、白い夜会服の上に一度だけ視線を止めました。


 けれど、何も言わずに鞄を閉じました。


 屋敷を出る前に、玄関ホールでミレーユと会いました。


 会った、というより、彼女がそこにいました。殿下はいませんでした。お父様もいませんでした。家令と数人の使用人が、馬車の荷を見ているだけです。ミレーユは淡い色のドレスではなく、落ち着いた灰青の服を着ていました。胸元のリボンは握られていません。


 わたくしは立ち止まりました。ミレーユも、わたくしを見ました。

『お姉様』

 その声は、昨日よりも静かでした。怯えているようにも、迷っているようにも見えました。けれど、逃げませんでした。

『見送りに来たの』

『はい』

『優しいのね』

 わたくしがそう言うと、ミレーユの指が一度だけ動きました。リボンを探したのだと思います。けれど、その服には、握れる大きなリボンがありませんでした。彼女の手は、しばらく空中で迷い、そのまま下りました。


『お姉様』

『何かしら』

『私は、お姉様に消えてほしいと思ったことはありません』


 その言葉は、意外でした。


 消えてほしい。そんな恐ろしい言葉を、わたくしはミレーユに向けて考えたことがありません。少なくとも、はっきりとはありません。あの子がいなければと思った夜もあったかもしれませんが、それは誰にでもある小さな弱さです。消えてほしいなどとは違います。


『けれど』

 ミレーユは続けました。

『お姉様の前では、私はいつも、私でいてはいけない気がしました』


 そこでまた、その一人称が出ました。


 私。


 ミレーユは、昨日からよくその言葉を使います。わたくしの前で、そんなふうに自分を置く子ではありませんでした。いつも、お姉様のおかげで、とか、お姉様の言う通りに、とか、そう言っていたはずです。


 わたくしは、少し笑いました。

『あなたは、あなたでしょう』

 ミレーユは首を横に振りました。

『お姉様の前では、そうではありませんでした』


 返す言葉が、すぐには見つかりませんでした。


 わたくしの前で、ミレーユはミレーユではなかった。そんなことがあるでしょうか。わたくしは、あの子を正しく導こうとしただけです。王宮で笑われないように、失敗しないように、恥をかかないように。けれど、ミレーユの顔は、そのどれも答えではないと言っているようでした。


『もう行きます』

 わたくしは言いました。

『はい』

『元気で』

『お姉様も』


 ミレーユは、深く礼をしました。


 その礼は、初めて見るほどきれいでした。背筋は伸び、手の位置も正しく、顔を上げるタイミングも遅すぎませんでした。わたくしが何度も教えた礼です。胸の奥が、少しだけ温かくなりました。


 ちゃんと覚えていたのです。


 けれど顔を上げたミレーユは、わたくしに褒められるのを待っていませんでした。


 それが、ひどくさびしく感じられました。


 馬車に乗ると、屋敷の扉が閉まりました。


 閉まる音は、思ったより小さなものでした。もっと大きな音がすると思っていました。人生が変わるときの音は、きっと重いものだと思っていたのです。けれど実際には、扉は静かに閉まり、馬が歩き出し、車輪が石畳を踏みました。


 わたくしは膝の上で手帳を開きました。


 最初の頁を読み返しました。


 信じてください、わたくしを。


 そこには、はっきりとそう書いてありました。二頁目にも、三頁目にも、同じ言葉があります。わたくしは何度も、そう書いてきました。信じてください。わたくしを。わたくしは悪くない。わたくしは教えただけ。わたくしは守ろうとしただけ。わたくしは優しくしただけ。


 それなのに、アンナの手は震えました。


 ミレーユは息を止めました。


 お父様は、顔を背けました。


 殿下の手紙は、最後まで読めませんでした。


 わたくしは、手帳の端を握りました。馬車が揺れ、インクが少しにじみました。最初の行の「わたくし」の上に、小さな黒い点が落ちました。


 信じてください、わたくしを。


 そう書いて終わるつもりでした。


 けれど、ペン先が動きません。


 わたくしは、いつも自分が痛いところから書き始めます。自分が傷ついたところ。自分が正しかったところ。自分が耐えたところ。誰かが震えていたことも、泣いていたことも、息を止めていたことも、書きはします。けれど、いつも後からです。わたくしの痛みを説明するために、そこへ置くのです。


 そう気づいた、とまでは書きません。


 気づいたと書けば、わたくしが全部分かったように見えてしまいます。そんなことはありません。わたくしはまだ、殿下の手紙を最後まで読めません。アンナの手首のことも、ミレーユの爪痕のことも、ここに正しく書けたとは思えません。お父様の髪飾りを受け取っても、なぜ胸が痛むのか分かりません。


 ただ、少しだけ怖いのです。


 この手帳に書かれたわたくしの話は、いつもわたくしを守る形をしている。


 それが、少しだけ怖いのです。


 だから、最後にもう一度だけ書きます。


 信じてください、わたくしを。


 そう書こうとして、手が止まりました。


 馬車の窓の外で、王都の灯が遠ざかっています。膝の上には、閉じかけた手帳と、まだ最後まで読んでいない殿下の手紙があります。鞄の奥には、青い髪飾りが入っています。わたくしはそれらを全部持っていきます。読むかどうかも、つけるかどうかも、まだ分かりません。


 それでも、この頁だけは、こう閉じるべきなのでしょう。


 信じないでください、私の話を。

本編はここで完結です。

番外編も投稿予定ですが、気になる方のみご覧ください。

誰の話を信じるかはお任せします。

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