セレスティアの手記 二頁目 アンナは寒がりなのです
信じてください、わたくしを。
そう書くと、少しだけ気持ちが落ち着きます。王宮から屋敷へ戻る馬車の中で同じ言葉を書いたときは、もっと字が乱れていました。今は、まだ自分の机に向かっておりますから、少しはましに見えるはずです。
この机も、もうすぐ運び出されるそうです。
王宮から戻った翌朝、屋敷の中は妙に静かでした。人の気配はあるのに、声が低いのです。廊下を歩く靴音も、扉を開け閉めする音も、いつもより遠慮がちでした。わたくしの部屋の前を通る者たちは、誰も長く立ち止まりません。忙しいのでしょう。そう思うことにしました。
わたくしの部屋には、旅行用の革鞄が二つ置かれていました。ひとつは衣類。もうひとつは、手紙や小物、身の回りのものを入れるためのものだそうです。修道院へ向かう令嬢に、あまり多くの荷物は必要ないと、家令が言いました。わたくしは、その言い方に少しだけ傷つきました。必要ない、という言葉は、物に向けられたものでも、人に向けられたように聞こえることがあるのです。
アンナは、朝早くから部屋に来ていました。
いつもの黒い侍女服ではありませんでした。白い前掛けをつけ、袖を少しだけ上げて、衣装戸棚の前に立っていました。王宮で銀の盆を持っていたときよりは落ち着いて見えましたが、わたくしが『アンナ』と声をかけると、やはり肩が小さく動きました。
名前を呼んだだけです。
それなのに、彼女は手にしていた薄青のリボンを落としかけました。長く仕えているのに、そういうところは変わりません。幼いころから、アンナは物音に驚きやすい子でした。雷の日には廊下で立ち止まり、銀器を磨くときは少し強くこすりすぎ、針仕事をさせれば指先を刺す。わたくしは、何度も根気よく教えてあげました。
主人に呼ばれたら、まず返事をすること。手にした物を落とさないこと。泣きそうな顔を、人前に出さないこと。そういうことは、侍女として大切です。厳しく聞こえるかもしれませんが、宮廷に仕える家の侍女が笑われれば、本人だけでなく、主人まで笑われます。アンナを守るためにも、必要なことでした。
アンナは、ようやく『お嬢様』と返事をしました。声は小さく、喉の奥で切れたようでした。昨夜から、体調がよくないのかもしれません。あの子は昔から寒がりです。冬でなくても、指先がすぐ冷たくなります。
わたくしが『無理をしなくていいのよ。寒いなら、暖炉に火を入れさせましょう』と言うと、アンナは首を横に振りました。
『いいえ。火は、いりません』
その言い方が少し急だったので、わたくしは驚きました。暖炉の火が苦手だったかしら、と考えて、そういえば昔、香油を温めるときに小さな失敗をしたことがあったと思い出しました。もっとも、あれはずいぶん前のことです。いつまでも気にするようなことではありません。
アンナの手首に、白い布が巻かれていました。
昨夜、白薔薇の間で見えた古い痕を隠すように、きつく結ばれていました。仕事の邪魔になりそうな結び方でしたから、わたくしは手を伸ばしました。
『結び直してあげるわ。そんな結び方では、袖口がふくらんでしまいます』
アンナは、手を引きました。
ほんの少しです。
けれど、たしかに引きました。
わたくしは、自分の手が空中に残ったことに気づいて、すぐに下ろしました。部屋の中には、畳まれたドレスと、開いた鞄と、半分空になった化粧台がありました。何も言わない物ばかりなのに、その瞬間だけ、部屋中がこちらを見たような気がしました。
『触らないでください』
アンナは、そう言いました。
小さな声でした。それでも、わたくしの耳にははっきり届きました。触らないでください。アンナがわたくしに、そんな言葉を使ったのは初めてです。少なくとも、わたくしの覚えている限りでは。
わたくしは『アンナ』と、できるだけ静かに呼びました。
『どうしたの。わたくしは、ただ結び直してあげようとしただけよ』
『分かっております』
彼女はそう言いましたが、手首は胸の前に抱えたままでした。分かっている人の仕草ではありません。怯えているように見えました。そう書くのは、少し嫌ですね。アンナはわたくしを恐れてなどいません。長く仕えてきた子です。わたくしの好きな紅茶の濃さも、寝る前に読む詩集も、雨の日に選ぶ靴も、誰より知っているのです。
けれど、そのときのアンナは、わたくしから少し離れて立っていました。
衣装戸棚の中から、白い夜会服が出てきました。
去年の冬、王妃陛下の茶会で着たものです。襟元に真珠が縫い込まれていて、とても気に入っていました。アンナも、よく似合いますと褒めてくれたはずです。そう言ったかどうか、はっきり覚えているわけではありませんが、言わなかったはずはありません。
その夜会服を、アンナは布に包もうとしていました。
わたくしが『それは持っていきます』と言うと、アンナの手が止まりました。
『修道院へ、ですか』
『ええ。向こうでも、きちんとした服は必要でしょう』
アンナは、少し困った顔をしました。
困った顔。そう書くと、わたくしが困らせたように見えますね。実際には、あの子が判断に迷っていただけです。アンナは昔から、自分で決めることが苦手でした。わたくしが選んであげると、いつもほっとした顔をしたものです。
『修道院では、絹の夜会服はお使いになりません』
『あなたが決めることではないわ』
わたくしは、そう言いました。
強く言ったつもりはありません。ただ、事実を伝えただけです。アンナは侍女です。荷物をまとめることはできても、わたくしが何を持っていくかを決める立場ではありません。
けれど、アンナはその言葉を聞いた途端、白い夜会服を胸に抱えました。まるで、誰かから守るように。
おかしなことです。服はわたくしのものなのに。
わたくしがもう一度『アンナ』と名前を呼ぶと、彼女は目を伏せました。
『昨日から、あなたは変よ。王宮でも、今朝も。わたくしと目を合わせようとしない』
『作業を、進めます』
『返事になっていないわ』
アンナの指が、夜会服の布地を握りました。白い布に、かすかなしわが寄りました。そんなふうに握れば跡がつきます。注意しようとして、やめました。昨日から、わたくしが何かを教えるたびに、周りはおかしな顔をするのです。
言わないでおくことも、優しさなのでしょうか。
そう思ったのに、アンナは少しも楽になった顔をしませんでした。
やがてアンナは『お嬢様』と、やっと顔を上げました。その顔を見て、わたくしは胸が詰まりました。目の下が赤く、唇には噛んだ跡がありました。眠れなかったのでしょう。わたくしのことが心配だったのだと思います。
『昨夜、殿下が言われたことを、覚えておられますか』
『もちろん覚えています』
『では、どうか』
アンナはそこで言葉を切りました。言葉を探しているのか、飲み込んでいるのか、分かりません。わたくしは待ちました。主人に向かって話すには、勇気が必要なのでしょう。アンナは昔から、勇気の出し方を知らない子でしたから。
『どうか、私に答えを求めないでください』
わたくしは、しばらく意味が分かりませんでした。
答えを求めないでください。
それは、どういう意味なのでしょう。わたくしはアンナの言葉を聞きたかっただけです。信じているから聞くのです。長くそばにいたから、あなたなら分かってくれると思うのです。それなのに、答えを求めないでください、などと。
わたくしが『わたくしは、あなたを信じているのよ』と言うと、アンナは目を閉じました。その顔は、悲しんでいるようにも見えましたし、苦しんでいるようにも見えました。ですが、わたくしには、なぜそこまでつらそうにするのか分かりませんでした。
『信じてくださるから、苦しいのです』
アンナは言いました。
その言葉を、わたくしはまだうまく受け取れていません。
信じることが、誰かを苦しめるのでしょうか。そばに置き、大切にし、失敗すれば教え、泣きそうなら叱ってでも立たせる。そうやって育ててきた子に、わたくしは何を間違えたというのでしょう。
アンナは、化粧台の引き出しを開けました。
中には、リボンや手袋、古い香水瓶、小さな銀の鋏が入っていました。わたくしが十六の誕生日に母からもらった香水瓶もありました。細い首の、白い硝子の瓶です。蓋の縁に、小さな欠けがありました。
その欠けを見たとき、アンナの手が止まりました。
わたくしも、覚えています。香水瓶を落としたのは、アンナでした。夜会の支度が遅れて、わたくしは急いでいました。アンナは瓶を持ったまま手を滑らせ、床に落とし、香りのよい液が絨毯に広がりました。
あのときも、わたくしは怒鳴りませんでした。
ただ、少し泣いてしまっただけです。
母からもらった大切なものを割られたのですから、泣いても仕方がありません。アンナは床に膝をつき、何度も謝りました。わたくしは、もういいわ、と言ったはずです。少なくとも、最後には許しました。
そのあと、香油を温め直したときのことは、あまりよく覚えていません。
アンナの手首の布が、また少しずれました。
わたくしは見ないようにしました。
アンナが『その瓶も、持っていかれますか』と聞きました。
『もちろんよ。欠けていても、母のものですもの』
『では、こちらへ』
アンナは、香水瓶を柔らかい布で包みました。指先は丁寧でした。仕事はできる子なのです。昔から、落ち着いてさえいれば、アンナはよい侍女でした。だからこそ、わたくしは厳しくしたのです。
窓の外で、庭師たちが薔薇の枝を切っていました。
この季節に切るには早い気もします。けれど、屋敷の人たちは皆、何かを片づけなければ落ち着かないのでしょう。部屋も、庭も、廊下も、まるでわたくしのいた場所を急いで整え直そうとしているようでした。
考えすぎですね。
わたくしは、この屋敷の娘です。屋敷がわたくしを追い出すわけではありません。
アンナが、小さな箱を取り出しました。
中には、古い呼び鈴の紐が入っていました。金色の房飾りがついたものです。子どもの頃、わたくしの寝台の横に下げられていました。夜に目が覚めたとき、これを引けば、アンナが来てくれる。そう教えられていました。
わたくしが『懐かしいわね』と言うと、アンナは箱を閉じませんでした。
『あなた、よく来てくれたわ。夜中でも、雨の日でも』
アンナは、古い紐を見つめたまま黙っています。わたくしは少し笑いました。あの頃のことを思い出しているのでしょう。幼いわたくしが眠れずに鈴を鳴らし、アンナが急いで来てくれる。温めた牛乳、厚いショール、眠るまで椅子に座ってくれる小さな侍女。
優しい思い出です。
わたくしが『あの頃、あなたはよく眠そうだったわ』と言うと、アンナはようやく箱を閉じました。
『はい』
その返事は、短すぎました。
もっと何か言ってもよかったはずです。懐かしいですね、とか、お嬢様は小さくていらっしゃいました、とか。そういうことを言えば、少しは部屋の空気も和らいだでしょう。
でも、アンナは言いませんでした。
ただ、呼び鈴の紐を、持っていく荷物ではなく、残す物のほうへ置きました。
わたくしが『それも持っていきます』と言うと、アンナは初めて、はっきりとわたくしを見ました。
『修道院には、呼び鈴はございません』
『なら、飾ればいいでしょう』
『鳴らしても、誰も来ません』
アンナの声は、静かでした。
けれど、その静けさが、なぜか胸に触れました。怒っている声ではありません。責めている声でもありません。あきらめた人の声でした。
わたくしは、何も言えませんでした。
鳴らしても、誰も来ない。
そんなことを、どうしてアンナが言うのでしょう。呼べば来るのが侍女です。呼ばれたら来るのが、仕える者の務めです。少なくとも、わたくしはそう教わってきました。
けれど、アンナはその紐を残す物のほうへ置きました。
わたくしは、止めませんでした。止めなかったのは、認めたからではありません。部屋の空気があまりに冷たくて、声を出すのが少し難しかっただけです。
昼前に、家令が来ました。
修道院へ送る荷物は、革鞄二つに収めるようにと、改めて告げられました。わたくしは、白い夜会服と母の香水瓶、それからこの手帳を入れるよう頼みました。
家令は、白い夜会服を見て、一度だけ目を伏せました。
けれど、鞄から出せとは言いませんでした。
アンナは黙ってうなずきました。
頼んだものをすべて入れてくれたかどうかは、まだ確認していません。
確認すれば、アンナが傷つく気がしたからです。
そう書くと、わたくしがアンナを気遣ったように見えるでしょうか。気遣ったのです。少なくとも、そのつもりでした。信じてください。
午後になり、アンナは部屋を出る前に、扉のそばで立ち止まりました。
わたくしは、彼女が何か言うのを待ちました。謝罪かもしれません。別れの言葉かもしれません。昨夜、王宮で答えられなかったことを、今なら話す気になったのかもしれません。
アンナは、深く礼をしました。
『長く、お仕えいたしました』
それだけでした。
それだけ。
わたくしは、あまりに短いと思いました。五つの頃からそばにいたのです。雨の日も、熱を出した日も、夜会の前も、眠れない夜も。わたくしの髪に触れ、ドレスを締め、靴をそろえ、泣いたわたくしのそばにいた子が、最後に言う言葉がそれだけだなんて。
わたくしは『アンナ』と呼び止めました。アンナは振り返りませんでした。
『あなたは、わたくしを恨んでいるの』
言ってから、少しだけ後悔しました。そう聞けば、アンナは答えにくいでしょう。けれど、聞かずにはいられませんでした。あの子が何も言わずに出ていくことのほうが、ずっと残酷に思えたのです。
アンナは、扉の前でしばらく立っていました。
そして、こちらを向かないまま言いました。
『寒かったのではありません』
わたくしは、返事ができませんでした。
何の話か、すぐには分からなかったのです。昨夜の白薔薇の間で、わたくしがそう思ったことを、アンナは覚えていたのでしょうか。手が震えていたのは、寒かったからではない。そう言いたかったのでしょうか。
では、何だったの。
そう聞きたかったのに、声が出ませんでした。
アンナは、そのまま部屋を出ていきました。
扉は静かに閉まりました。あの子らしい閉め方です。音を立てないよう、いつも最後まで手を添える。そう教えたのは、わたくしでした。
部屋に一人で残ると、急に広く感じました。
衣装戸棚は半分空になり、化粧台の上には薄い埃の跡が残り、寝台の横には、呼び鈴の紐を外した小さな金具だけが光っていました。金具は壁に残ったままです。紐は、残す物の箱に入れられました。
鳴らしても、誰も来ない。
アンナの言葉が、まだ部屋に残っていました。
信じてください、わたくしを。
わたくしは、アンナを大切にしていました。失敗すれば教え、寒そうなら火を入れようとし、泣きそうなら立たせ、夜中に呼んだのも、あの子を信じていたからです。信じていない者を、そばになど置きません。
それなのに、あの子は最後まで、わたくしを見ませんでした。
手首の布がほどけかけていたことを、書くべきか迷いました。
けれど、やめておきます。
この頁は、アンナが寒がりではなかったということを書くだけで、もう十分に冷たいのです。
信じてください、わたくしを。




