第9話 船を連れて帰る
怪我をした男は、工廠の入口で医者を待っていた。裂いた上着を腕に巻き、船長が持ってきた水を飲んでいる。
「帆を扱っていたのは、お前か」
ニコラスが訊くと、男は頷いた。
「いつもと同じように逃がした。なのに、まだ張るんだ。船が傾いて、索へ手を伸ばしたところで柱にぶつかった」
船長は背後の焼け穴を見上げた。
「下ろすより先に煙が出た。隣の船にぶつかりそうになって、機関で沖へ出したんだ。そこで帆が緩んだ。あとは機関だけで戻った」
「ベルナールの時も、逃がそうとして索が切れた」
ニコラスが言った。
「だが、こっちは誰にも襲われていないんだな」
「来たのは港の小艇だけだ。門も壊れたから戻せと言われた。出る時に鐘は聞こえていたが、帆を下ろす方で手いっぱいだったよ」
医者が来ると、船長は話す場所を空け、ハーラルたちを船へ上げた。
船尾には長い木箱があった。蓋を開けると、濡れた金具を留めた板が入っている。重ねられた補修片の縁が黒く焼けていた。
「取り替えた門の部品だ。ここの工廠へ運んでくれと頼まれた。俺の船も見てもらうからな」
ハーラルは舷側へ手を掛け、膝を深く曲げないよう腰を下ろした。
「水を止める物が、焼けるのか」
「術を仕立ててある所だよ」
アヴィが隣へ寄った。
「水の力を受けて、逃がす。帆と似たことをするんだ」
船を襲う者なら、乗り込んでくる。だが、この船には誰も上がっていなかった。ハーラルは帆の穴と、箱の中の黒い縁を見比べた。
クレメンスは、下ろされた帆の焼けていない部分を確かめていた。箱へ来ると、補修片を見てからドミニクを呼んだ。
「水門を扱う人にも見てもらいたい。帆の仕立ても、まだ働く所が残っています」
呼ばれた職人は部材を持ち上げ、裏の金具を調べた。
「小さい門なら入れられる。試し用の水槽を空けてもらおう」
「また焼くのか」
船長が訊いた。
「水も風も、少ししか受けません。張り方が変われば止めます」
クレメンスが答えると、船長はドミニクへ顔を向けた。
「沖へ出すなら、曳く船も要る」
「こちらで出そう。門を直して、また同じことが起きても困る」
船長は怪我人のいる方を見た。
「あいつは使わんぞ」
「別の人に頼みます」
その返事を聞いて、ようやく頷いた。
*
翌朝、桟橋に小さな水槽が据えられた。
桶から注いだ水が底の溝を通り、取り付けた門へ寄っていく。脇には水を逃がす口があり、その先に空の槽が置いてあった。
ハーラルは損傷船へ上がった。帆は低く揚げ、船長が索のそばに二人を置いている。前には、船を曳くためにアヴィの青い船がいた。ニコラスも、そちらから見ていた。
最初は帆だけを働かせた。
代わりの扱い手が掌を当てると布が膨らみ、手を下へ送れば風が抜けた。昨日、隣の荷船で見たのと同じだった。
次に、岸の職人が門へ手を当てた。水が面の前で留まる。
「同じ強さで、もう一度」
クレメンスの声で帆が膨らんだ。
岸の職人が部材をわずかに傾けると、帆の下から斜めに皺が走った。ハーラルの上着を撫でる風は変わらなかった。それでも布だけが深く張り、柱から細い音がした。
「門を戻して」
皺が浅くなった。
扱い手は掌を動かしていない。
「俺は、何も変えてないぞ」
「そのまま。門を止めます」
水が脇の槽へ流され、普通の板が差し入れられた。扱い手が掌を下へ送ると、帆から風が抜けた。
ハーラルは岸を見た。門から船へ繋がる綱はない。
「門を動かすと、帆も変わるのだな」
「今のは、そう見えました」
クレメンスは船長へ帆を下ろすよう頼んだ。
「休ませてから、離してみたい」
「ベルナールも、これを止めようとしたんじゃないのか」
前の船からニコラスが呼んだ。
「同じかは、あちらの帆を見ないと分かりません。ただ、この帆は扱う人を替えても変わりました」
青い船の窓から、アヴィが顔を出した。
ハーラルが頷くと、機関の音が始まった。曳き索が水から持ち上がり、二隻は工廠船の脇を離れた。
近い所で一度停まり、連絡艇を岸へ戻した。門を休ませ、もう一度働かせたと知らせが来てから帆を揚げると、同じ皺が出た。
船長はすぐに下ろさせた。
さらに沖へ出た。アヴィが岬と工廠船の位置を確かめて停まり、連絡艇がまた岸を往復する。
門は働いている、と男が伝えた。
扱い手が帆へ掌を置いた。
布は風を受けたが、斜めの皺は出なかった。手を下へ送ると、膨らみが浅くなり、そのまま風が抜けた。
船長は船の街を振り返った。
「沖へ出したのが、よかったのか」
「帆を下ろそうとしたこともです。どちらが先に利いたかまでは言えません」
クレメンスが答えた。
船長は額を拭い、索を持つ者へ声を掛けた。帆が甲板へ落ちるまで、今度は柱も鳴らなかった。
ハーラルは遠い工廠船を見ていた。力を掛けて支えようとすれば、余計に張ることもある。船の上でそれを知らずに働いた男が、腕を傷めたのだった。
アヴィが舵を取り、二隻を街へ向けた。
*
戻った帆と門の部材は、調べるため工廠へ取り置かれた。船長は代わりの帆の相談を始め、クレメンスは柱と索を見るために船へ残った。
ニコラスには、海中国家からの返事が届いていた。
ベルナールは客用の街区に留められ、治療を受けて今は動けるという。船と乗員は無事か、女房には戻れないと伝えてほしいと、本人からの言葉もあった。
「船は直してる。乗員も揃ってる。女房にも知らせた」
ニコラスはドミニクへ紙を返した。
「いつ帰すかは、やっぱり書いてないな」
「原因を調べているとある」
「今日の話を送ってくれ。別の人間でも起きた。ベルナールを置いておく理由になるのか、訊いてくれ」
「職人の報告も添える。お前は次へ出るのか」
「ああ。給金を払わなきゃならん」
「行き先を残せ。返事を回す」
アヴィも紙を借り、姉を助けた男の名と、その船が寄る港を書いた。自分が生きて捜していることを伝えてほしいという。
ハーラルは、その横で訊いた。
「あの港へ運ぶ荷はあるか」
「あるよ。うちに積める分より多い」
「ほかの船へ分けられるか」
アヴィがニコラスを見た。
ニコラスも、こちらへ向き直っていた。
「何を積む」
*
昼には、工廠の外の卓に荷の紙が並んだ。
アヴィが荷主と話をつけ、箱の数と重さを示していた。青い船と白い船へ分けても、まだ重い品が残る。
ハーラルは、昨日帆を直した荷船の船長を呼んできた。
男は積める量を確かめてから、運賃を訊いた。濡らせない物を船底へ入れ、重い箱を先に載せる。それで引き受けられるという。
「だが、二隻の速さにはついていけんぞ」
「寄る所を合わせよう」
アヴィが海図を広げた。船長は風が落ちた時の停泊先を一つ増やし、ようやく紙へ名を書いた。
ニコラスは荷揚げ先を見ていた。
「ビン・ダール。あんたの知り合いか」
ハーラルが頷いた。
「商人だ。先に便を出して、お前たちを紹介しておく。次の荷も聞こう」
「帰りの荷があると助かる。空船で戻れば、運賃を海へ落とすようなものだ」
「船大工もおる。戻ったベルナールを乗せて、また出る船を整えたいのだろう」
「仕事と、払う奴がいればな」
ハーラルは白い船へ目をやった。
「あれが岸へ並ぶところを見たい」
「買う金でもできたか」
「お前の船も欲しい」
「売らんぞ」
「お前が舵を持って来ればよい」
ニコラスは笑った。
「修理場まで、あんたの物みたいに言うなよ」
「まだ違う。頼む相手には会わせる」
運賃は積む荷ごとに分け、燃料と船員への支払いはそれぞれの船で持つことになった。
ニコラスは、ベルナールを帰す知らせが来れば迎えに行くと告げた。アヴィも、姉の消息次第で次の行き先を決める。
「今は、同じ方へ行く」
ハーラルが言うと、ニコラスは紙を引き寄せた。
「今はな」
話を聞きつけた別の船長は、次の島で家族が待っていると断った。ハーラルが昼の魚を勧めると、そちらは笑って受け取った。
*
出航までは三日掛かった。
ニコラスは新しい帆と、代わりの扱い手を合わせた。舵を切る前に風を逃がせと言うと、男は、その速さならまだ早いと答えた。ニコラスは言い返さず、沖を指した。
「なら、一度走って決めよう」
青い船でも部品を取り替え、荷を積んだ。リナは機関長に呼ばれるたび包みを持って下り、ヨルアンは甲板頭と箱を留めていた。
夕方、アヴィと橋を渡ると、店から煮た果物の甘い匂いがした。薄い皮を割った中に赤い汁が滲んでいる。ハーラルは肉を包んだ方も一緒に買った。
端から食べると、酸味のあとへ甘さが来た。アヴィは橋を渡り切る前に食べ終え、もう一つ買えばよかったと言った。
ドミニクの船も見せてもらった。
船腹には、人が立ったまま通れる荷の口が幾つもあった。船尾まで歩いても、船首は積荷と人の頭に隠れて見えない。
「これを岸へ寄せるのか」
「誘っただろう。空けておいてくれよ」
ハーラルは最初の港を思い浮かべた。この腹いっぱいの荷を、あの岸へ下ろす。次の船も来る。商人と船長が自分を呼ぶ。
「先に、商人へ聞いておく」
「返事を待ってから喜ぶことにする」
ドミニクは笑い、船員に呼ばれて振り返った。
*
出航の朝、ハーラルは甲板の者と索を回収した。
白い船では、新しい扱い手が帆柱の下に立っていた。その向こうで、荷船の船長が最後の箱を確かめている。
青い船が岸を離れた。
白い船が続き、荷船もゆっくり船首を振った。橋を渡っていた子供が声を上げると、ハーラルは手を振り返した。
操舵室へ入ると、アヴィは後ろを確かめていた。
「荷船が抜けるまで、このまま行くよ」
「ああ。まだ橋のそばだな」
白い船はすでにこちらの波を越えていた。ニコラスなら、この速さでは物足りないだろう。アヴィも、機関へ掛けた手をまだ浅く置いている。
やがて荷船が大船の陰から現れた。
重い船首の前に白い水が広がる。アヴィが少し船を進めると、白い船も動き、三隻の間が揃った。
ニコラスが窓から腕を出した。
ハーラルも腕を上げた。白い船は近づいたが、追い抜きはしなかった。
「よい眺めだ」
「姉には、まず一隻を見せるつもりだったんだけどな」
「お前の船が先頭だ」
「航路を決めたのは俺だよ」
ハーラルは笑い、甲板へ出た。
船尾の手すりへ腕を載せると、白い船と荷船がよく見えた。三隻分の波が広がり、遠ざかる街の前で重なっていた。




