第8話 空いた持ち場
「助け上げた時も、弟がいると言っていたそうだ」
運送人は、卓の端へ寄せた紙が風で動くのを肘で押さえた。
「あの海難では、何隻かが人を拾っている。そいつの船は、助けた者を乗せて本国へ戻った。姉さんは歩けるようになってから、親族へ引き渡されたそうだ」
「そのあとも、会ったのか」
「二年前に一度。向こうの荷揚げ場でな。姉さんの方から声を掛けてきた。助けてくれた礼を言われて、初めは誰だか分からなかったそうだよ」
ハーラルは隣を見た。アヴィは卓へ身を寄せたまま、運送人の顔を見ていた。
「子供の頃とは、顔も変わるからな。名を聞いて思い出した。そうしたら、あの時ほかに人を拾った船を知らないかと訊かれた」
「ほかの船を」
「ああ。弟はアヴィ、別れた時は八つだった、と」
外で荷車が止まり、車輪を押し戻す音がした。戸口にいた者が場所を空けるよう声を掛けている。アヴィは何も言わず、しばらくしてから息を吸った。
「俺の名を、言ったんだな」
「言った。それで、お前が姉を捜している話とつながったんだ」
「……そうか」
卓に載せたアヴィの手が開いた。指の跡が残った紙の端を、今度は掌で伸ばしていた。
「その男は、今どこにいる」
運送人は取引先と、次に船が寄るはずの港を教えた。姉の住まいまでは聞いていない。再会した日には荷の引渡しがあり、その場で別れたのだという。
アヴィは紙を借り、男の名と港を書き留めた。日付を確かめ、字の一つを直し、最後にもう一度、会ったのは二年前なのだなと訊いた。
「そうだ。お前のことを聞いた時に、俺も確かめた」
「ありがとう。会えたら、俺からも礼を言うよ」
運送人が明日の荷の話へ戻ると、アヴィは椅子を引いた。ハーラルも立ち、戸を押さえて待った。
外では家々の窓に明かりが入っていた。二隻の間を渡る橋の下で、小舟に積まれた灯りが揺れている。昼には人で埋まっていた店先に空いた卓があり、残った客がゆっくり皿をつついていた。
橋の半ばで、アヴィが足を緩めた。
大船の陰から、青い船の船首が見えていた。甲板では男が索を片づけ、操舵室の窓に明かりが一つ灯っている。
「見せたいな」
「姉にか」
「ああ。自分の船を持ったって、まだ言えてない」
アヴィは手すりに腕を載せた。ハーラルも隣へ寄り、あの細い船体が波を割るところを思い出した。初めて走りを味わった時には、風を受けているだけで笑いが出たものだった。
「乗せてやれ。陸からでは、あの速さは分からん」
「初めて乗せるんだから、少しは加減するよ」
「少しでよい」
アヴィが笑った。
「俺が決める」
「俺も乗っておるぞ」
「あんたまで、姉に船を自慢する気かい」
「よい船だと言ってやる」
「その前に、俺が言うよ」
橋の向こうから荷車が来た。二人は道を空け、通り過ぎるのを待ってから、自分たちの船へ下りていった。
*
翌朝、工廠へ向かう道にはリナもいた。
布に包んだ古い部品を両手で持ち、機関長から渡された紙をその上へ載せている。橋を渡るたびに紙が風を受けるので、アヴィが持ってやると言ったが、包みの隙間へ挟み直した。
「これと同じ物か、使える物を見てもらえって」
「合うか分からなかったら、買う前に呼ぶんだよ」
「はい」
白い船の前を通ると、ニコラスが甲板で船員と話していた。
「帆を扱えます。今は乗る船がなくて、長く雇ってもらえる所を探してるそうです」
「こっちは一航海だけだ。それでも来るか、訊いてくれ」
「先の仕事は約束できないと?」
「ああ。あとで話が違うと言わせるなよ」
船員が渡り板へ向かい、代わりにハーラルたちが上がった。ニコラスはアヴィの顔を見ると、先に訊いた。
「聞けたか」
「聞けた。姉も、俺を捜してたそうだ」
「そうか。そりゃよかったな」
「昔助けた船員と、二年前に会ってる。今どこに住んでるかまでは分からなかったけど、次に話を聞ける相手はできた」
「会う前に、船尾を磨いとけよ。昨日、泥が残ってたぞ」
「あれは泥じゃない。塗り直す所だ」
「なら、なおさらだ」
アヴィは白い船の舷側へ目をやった。
「こっちも、板の色が違う」
「そこは、まだ塗れん。先に払う物がある」
新しい板は手すりの下に入っていた。周囲の白い塗りから、木の肌が四角く浮いている。ハーラルはその上の空いた帆柱を見た。
「帆を扱う者まで、捜しておるのか」
ニコラスの顔から笑みが消えた。
「帆と一緒に連れていかれた」
「船員をか」
「ああ。ベルナール・オッテ。俺の船の帆を任せてる男だ」
リナは邪魔にならない所へ包みを置いた。アヴィは、渡り板へ向かっていた身体をニコラスへ戻した。
「どこで」
「海中国家の港を離れて、外の航路へ出るところだ。十日あまり前になる」
「帆を取った連中かい」
「そうだ。風は荒れてもいないのに、帆が妙に張ってな。ベルナールが緩めるより先に、索が一本切れた。帆を下ろしていると、武装した艇が寄ってきた」
ニコラスは新しい板の上へ手を置いた。
「誰が術を使っていたか、何をしたかと訊く。あいつが答えたら、帆と一緒に来いと言い出した。話ならこの船で聞けと言ったんだがな」
「断ったのか」
「断った。こっちの船員が間に入ると、銃を向けられた。俺たちが押し返して、ここを割られた」
板の端には、古い木へ食い込んだ深い傷が残っていた。
「怪我をした奴には、向こうの術者が手当てをした。板も入れた。それが済んだら、ベルナールを連れていった」
「何の船団だ」
ハーラルが訊くと、ニコラスは海の方を示した。
「向こうの水門と、その外の航路を守ってる連中だそうだ。指揮船の女が命令を出していた」
「その女の名は」
「まだ分からん。こっちへ乗り込んできたのは部下だけだった。ドミニクからも、誰の命令でどこへ連れていったのか、問い合わせてもらってる」
アヴィが低く、海中国家か、と言った。昨夜聞いた、姉が引き取られた国だった。
「返せとは言ったんだろう」
「帆は預けてもいい、あいつを帰せと言った。原因を調べるまでは駄目だとさ。船を直して戻ってからも、同じ返事しか来ない」
「いつまでだ」
「調べ終わるまでだ」
ニコラスは言い切って、口を閉じた。
甲板の向こうでは、船員が積荷を留める場所を測っていた。手にした縄を伸ばし、もう一人に端を押さえさせている。船は次に出る支度をしていた。
「給金を払う金まで借りた。止まって待ってるだけじゃ、その金もなくなる」
ニコラスは帆柱の根元へ歩いた。
「ベルナールとは十二年だ。この船を買う前から一緒に乗ってる。沖で風が変わると、俺が声を掛ける前に帆を緩める。舵を切っても船首を大きく振られずに済むから、速さが落ちない。半日も走ると、それが利いてくる」
「昼までには追いつくと言っておったな」
「ああ。あいつなら、昼まで待たせるなと言うだろうよ」
「船長より厳しいのか」
「無茶を言えば、帆を畳むぞ。勝手に走れって顔でな」
アヴィの口元が少し緩んだ。
「うちの機関長にも、そういう顔をされる」
「だろうな。あの船の尻を見りゃ分かる」
ニコラスも笑いかけたが、すぐに帆柱へ目を戻した。
「船比べで負けた晩には、俺の前へ飯の皿を寄せる奴だ。帆は速かった、舵が遅かった、詫びに払えってな」
「勝ったら?」
「祝いに払えだ」
ハーラルは声を出して笑った。
「一度、俺が先に言ってやったことがある。あいつ、皿を持ったまま固まりやがった」
帆柱の下には布の束も、そこへ手を当てる男もいなかった。ニコラスの足元を、細い綱が一本横切っている。
「陸には、女房と二人でやってる帆の修理店がある。帰る日を知らせて出てきたから、今頃は客の帆を溜めて待ってるはずだ。戻れば、俺の船を下りてからも仕事があるんだよ」
「金は求められたかい」
アヴィが訊いた。
「一度も。荷にも手をつけなかった」
アヴィは替えられた板から、空いた帆柱へ目を移した。
「船を止めるなら、帆を取れば足りる。人まで連れていけば、見張りも食わせる分も要る。聞くことに答えたあとも置いておくなら、何を確かめれば帰す気なんだろうな」
「それを決めてるのが、向こうだけなんだ。あいつが話し終わったと言っても、まだ調べてると言えば済む」
ハーラルは白い船の前後を見渡した。昨日、舵の前に立ったニコラスは、沖で追いつく船を見せたがっていた。その走りには、ここにいない男の手も要るのだった。
「戻ったら、その男を乗せて走るところを見せろ」
「見物だけか、王様」
「それで速ければ、俺の港へ誘う」
「あんたの港は、これからだろ」
「お前の帆も、これからだ」
ニコラスは鼻で笑い、上着を取った。
「なら、まず帆を用意する。工廠へ行くんだろう。俺も用がある」
*
工廠船では、朝から木を削る音がしていた。
大きな舵が屋根の下に吊られ、その隣では鉄の輪を二人掛かりで運んでいる。通路へ出た木屑を箒が掃き寄せると、海へ落ちる前に別の男が籠へ受けた。
リナは部品を扱う店を教わり、包みを持ってそちらへ向かった。
ハーラルたちが帆布の広げられた場所へ入ると、奥の梯子を大柄な老人が下りてきた。片脚を一段ずつ慎重に運んでいる。下から手を貸そうとした若者には、先にその板をどけてくれと言った。
若者が板を寄せる間に、別の職人が椅子を出した。老人は最後の段を下り、腰を下ろすより先にニコラスを呼んだ。
「ニコラス。向こうには、重ねて返事を求めてある」
「調べているとしか言わないなら、何を調べてるのかも聞いてくれ。ベルナールにしか答えられないことが、まだあるのか」
「ああ。返事が来たら、お前にもそのまま見せる」
老人はアヴィを見ると、片眉を上げた。
「デグラムか。今度は長くいるのか」
「船と荷の都合次第だよ。こっちはハーラル。俺と一緒に航海してる」
「ドミニク・アスケルだ。ここの航路長をやっている」
差し出された手は大きく、握ると指の付け根に硬いものが当たった。ハーラルが名を返す間にも、二人の男が紙を持って近づいてきた。
「俺の船は、また後回しか」
若い方が言った。
「船底を見るだけでも昨日のはずだったろう」
「補給船を先に出さなきゃならん。前から決まっていた仕事だ」
「あっちの船長は、あんたと長いからな」
「そうだな。長い。だから、昨日のうちに出せと言ってある」
ドミニクは工廠の奥にいる男を呼び、船底を見る場所が空く時刻を確かめた。昼には下ろせると返事が来ると、若い船長へ戻った。
「昼に船を寄せろ。人も船に残しておけよ」
「今度は空けてくれ」
若い男はまだ不満そうだったが、紙を引っ込めた。もう一人がその隙間へ入り、積み残した材木の話を始めた。
ドミニクが名を呼ぶと、離れた所からも顔が上がった。頼まれたことを持ってくる者、返事だけして作業へ戻る者がいる。ハーラルは椅子の周囲にできた輪を眺めた。こういう連中を、自分の岸へ集めたい。来るたびに名前を呼び、船を見に行き、次にはもっと大きな仕事をさせる。
「お前が来ると、仕事が増すな」
用件が途切れたところで言うと、ドミニクは笑った。
「来なくてもあるんだ。顔を見せると持ってこられる」
「長話もか」
「膝がこうなる前は、歩きながら聞いていた」
ニコラスが、その椅子の脇へ帆の寸法を書いた紙を出した。
「俺の分も聞いてくれ。全部新しい布にする金はない。だが、継いで重くなるのは困る」
「それは俺に言っても縫えんぞ」
「重さを取るなら、使える布が減ります」
広げた帆の向こうから声がした。
「速さも値段もそのまま、とはいきませんよ」
布のそばに膝をついていた男が顔を上げた。上着の袖口には細かな縫い跡があり、指の間に針を持っている。
「クレメンス・ヴェイドだ。帆の仕立てを頼んでる」
ニコラスに紹介され、男は会釈した。
「これを返したら見ます。もう終わりますから」
ハーラルは布の反対側へ回った。大きな裂け目に当てた布から、細い糸がいく筋も先へ延びていた。破れていない所まで、針が進んでいく。
「そこまで縫うのか」
「継ぎ目だけ固くすると、今度はその隣が裂けるんです。風を受ける力を、広い所へ渡してやる」
クレメンスは糸を引き、布の皺を伸ばした。縫い目が光を拾ったが、指をずらすと、普通の糸と区別がつかなくなった。
「隣の船へ戻します。張ったところを見ますか」
ハーラルは頷いた。
*
修理を終えた帆は、小さな荷船へ運び込まれた。
船員が綱を引き、布を低い位置まで上げる。クレメンスは扱い手の隣に立ち、ハーラルとアヴィは桟橋から見ていた。積み込みを待つ袋が橋の手前に並び、荷を運ぶ者たちも帆が下りるのを待っている。
ドミニクは工廠の開いた戸口へ椅子を寄せてもらい、荷船の見える所へ座った。
扱い手が布の縁に掌を当てると、帆が膨らんだ。
風はハーラルの頬を横から撫でていた。それなのに、荷船の舳先は前へ出ようとした。繋いだ索が張り、水面に細い波が広がる。ハーラルはつられて脚を開き、動いたのが自分の足場でないことに気づいた。
隣でアヴィが笑っていた。
「今、乗ってないぞ」
「分かっておる」
部品を買い終えたリナが、包みを抱えて二人の隣へ来た。声を掛けかけたが、帆を見て口を閉じた。
扱い手の掌が布の縁を移ると、帆の膨らみが浅くなった。風が裾を通り抜け、船首の索も少し緩んだ。クレメンスは継いだ部分を見上げ、もう一度だけ風を受けるよう頼んだ。
大船の間を、強い風が抜けた。
桟橋の帽子を押さえる者がいた。荷船の帆も深く膨らみ、綱を送っていた船員が、身体を引かれて一歩出た。
「風を逃がして。全部です」
クレメンスはすぐに扱い手の手首へ添え、掌を縫い目に沿って下へ導いた。
帆の裾が開き、風が抜けた。張り詰めていた布が波打ち、船員の持つ綱が緩む。男は足を踏み直してから、送り出した分を手繰り戻した。
「足は?」
「大丈夫だ」
風が落ち着くのを待ち、クレメンスは扱い手へ頷いた。
「今の場所からでいい。少しだけ受けてください」
再び帆が膨らんだ。継いだ布も周囲と同じように張り、船体が静かに索へ重みを掛けた。クレメンスが合図すると、扱い手は今度は自分で掌を下へ滑らせた。帆が緩み、舳先の前に広がっていた波も消えた。
ハーラルは、クレメンスの手を見ていた。針を持っていた指が布の縁を示し、扱い手がその場所を確かめている。あの細い縫い目にも、船を走らせる仕事があるらしかった。
「さっき、縫った所へ手を当てるのかと思いました」
桟橋へ戻ったクレメンスに、リナが言った。男は下ろされた帆の端を持ち上げた。
「見る時には、風を逃がしてからです。張ったままの継ぎ目へ指を入れると、布に挟まれて抜けなくなることもある」
リナは伸ばしかけた指を止め、代わりに身を屈めて縫い目を見た。
「機関なら、動いてる間に触るなって言われる所ですね」
「ええ。こちらも、静かに見えて力が掛かっていますから」
クレメンスは布を緩めたまま、当て布の縁を確かめた。針を出し直すことはせず、船長へ頷く。橋の前で待っていた者が、ようやく袋を担いだ。
先ほど綱を引かれた船員も、その一つを受け取った。
「積んでいいぞ」
船長の声に、荷が動き始めた。
ニコラスが寸法の紙をクレメンスへ渡した。男は目を通し、新しく使う布の幅を指で確かめた。
「乗せる方が決まったら、合わせる時に一緒に来てください。手の置き方も見たい」
「一航海だけ、代わりを頼むつもりだ。ベルナールが戻ったら、あいつにも合わせてくれるか」
「もちろん。まずは、次に出られるようにしましょう」
ハーラルは荷船を見た。帆を畳む者と袋を受け取る者が、互いの場所を空けながら働いている。少し前まで止まっていた船に、仕事が戻っていた。
「お前は、別の港へも仕事に行くか」
クレメンスが紙から顔を上げた。
「船と仕事があれば。どちらへ?」
「俺が欲しい港だ。船大工も、商人もおる」
「まだ、あんたの港じゃないんだろ」
アヴィが言った。
「だから、欲しいと言った」
戸口からドミニクの笑い声がした。
「職人を誘うなら、先に働く場所を用意してくれ。こっちも人が余っている訳じゃない」
「用意したら、来て見るか」
「航路が合えばな。船を寄せる場所は、空けておいてくれ」
「お前の船は大きいのか」
「見てから誘った方がよかったと思うかもしれんぞ」
ハーラルは、ここまでに見た船腹を思い浮かべた。家を幾つも載せ、橋を架ける船だ。最初の港の岸へ横づけするなら、どれほど場所を取るだろう。
「どこにある。あとで見せろ」
ドミニクが答えかけた時、外側の桟橋で笛が鳴った。
*
曳き船の後ろに、荷船が一隻ついてきた。
工廠の者が通路の板を寄せ、桟橋に積んだ袋を奥へ運ぶ。ハーラルはその隙間を抜け、海側へ出た。
入ってくる船の帆は、半ば下がったところで止まっていた。
布に、丸い穴があった。
裂けた所から向こうが見えるのではない。穴の縁は黒く、その内側だけが焼け落ちていた。残った帆が揺れるたび、空の青さが丸く動いた。
船首から投げられた索を、桟橋の男が受けた。ハーラルも余った索を引き寄せ、足元へ広がらないように寄せた。船が近づくと、男が杭へ巻いて重みを受けた。
アヴィは舷側の傷を見ながら歩き、ニコラスは渡り板を運ぶ者へ手を貸した。
「怪我人はいるか」
工廠の戸口から出てきたドミニクが、船上へ声を掛けた。
「一人。歩けるが、医者を呼んでくれ」
クレメンスが通路に残った布の束を退けた。船員に肩を借りた男が下りてくる。片腕を胸へ抱え、顔には乾いた汗の跡があった。
その後から、船長らしい男が出てきた。ニコラスの顔を見つけると、何か言おうとして、先に自分の船を振り返った。
「また、あの船団か」
ニコラスが訊いた。
男は首を振った。
「誰にも襲われていない」
「どこで起きた」
「荷を下ろした港を出るところだ。帆を張ったら、ああなった」
ニコラスは渡り板から手を離し、男へ近づいた。
「帆が、妙に張らなかったか。風が強くもないのに」
「張った。下ろそうとしたら、先に焼けた」
男は黒い穴を見上げた。ニコラスもその隣で、同じ帆を見ていた。
風が通り、焼けた帆の縁から、小さな黒い欠片が落ちた。




