第7話 帰ってきた船長
岸が遠くなると、ハーラルは操舵室へ入った。
窓の下を、朝の光を受けた水が流れている。アヴィは舵を交代の男へ渡し、海図を広げていた。船尾ではヨルアンが甲板頭に呼ばれ、積んだ箱の間を戻っていく。
「お前の行く国には、どんな船長がおる」
「商売してる奴、魚を追ってる奴、船を直す方が好きな奴。港とそう変わらないよ」
「船は皆、大きいのか」
「小さいのもいる。俺たちみたいに、外へ出て稼ぐ船もね」
ハーラルは窓の向こうへ目を戻した。最初の港へ帰る時には、この船だけでなく、ほかの船も連れていきたい。岸壁へ次々に舳先が向き、乗ってきた船長たちが自分を呼ぶ。あの長い岸なら、まだ何隻も並べられるはずだった。
「話の合う者がいれば、誘おう」
「行き先と仕事を聞いてから決める連中だぞ」
「俺も、顔を見る前から金は出さん」
「姉の消息を聞く方は、先にやらせてくれよ」
「分かっておる。そいつのいる船まで、お前が案内しろ」
アヴィは海図の端を押さえ、近くの港を指した。
「まず、ここの荷を届ける。それからだ」
ハーラルは頷いた。左腕の布が袖に引かれ、直そうとすると少し痛んだ。机へ載せておけば楽だったが、アヴィに場所を空けろと言われ、窓際へ戻った。
*
荷を下ろした港で、次の荷を積んだ。
船の国へ続く航路を、アヴィは寄港するたびに確かめた。そこから戻った商船の話を聞き、次の集合海域を海図へ記す。行き先へ近づく仕事もあれば、燃料を買うために少し戻る仕事もあった。ハーラルは荷主の前で待つ時間に慣れ、待たせすぎる相手の顔を覚えた。
補給に寄った港で、機関長が若い操機手を連れてきた。
リナという名だった。陸の修理場で働いていたが、動いている船の機関を扱いたいと言った。アヴィが次の航海の長さと見習いの取り分を話すと、荷物を取りに戻り、その日のうちに船へ上がった。
海へ出た翌朝には顔色を悪くしていた。それでも下へ行こうとして機関長に止められ、甲板で風に当たっていた。数日後、ハーラルが機関室を覗くと、今度は計器の読みを確かめながら、言われた数字を書き留めていた。
ハーラルの腕も、やがて布を巻かずに済むようになった。箱の留め具を両手で押し、荷を担ぐ時には甲板頭の顔を窺わなくなった。ただし、朝の冷えた甲板では左膝がこわばり、動き始めるまでに時間がかかった。
知らない国の名を聞き、知らない料理を食べた。ノルウェーを知る者がいないかは、船乗りに会うたび尋ねた。似た名を聞いたという男もいたが、海岸の形を話すと、首を振った。
到来から三月目に入った頃、アヴィが沖から来た商船の者と長く話した。
翌朝、船は荷を積み終えるとすぐ港を出た。船の国が、予定していた海域に入っているという。風は穏やかで、甲板には干した上着が並んだ。ハーラルは乾いた袖へ腕を通し、船首の方へ歩いた。
*
水平線に、建物の並ぶ影が現れた。
島にしては低い。だが、その上に立つ帆柱は、ハーラルがこれまで見た港よりも多かった。近づくにつれ、建物の下に長い黒い壁が見え、水を受けて丸く張った船腹だと分かった。
ハーラルは手すりへ寄った。
船腹の上には、窓が何段にも並んでいた。窓から突き出された竿に服が掛かり、その隣で女が布団を叩いている。もっと上では屋根と屋根の間に木の枝が見えた。あの木も、船の上で育っているのだろうか。
見上げているうちに、船首の先へ次の船体が現れた。
二隻の間には橋があった。荷車を押す男が渡り、向こうから来た子供たちが脇へ避けている。橋の下を小舟が通り抜け、別の船の低い桟橋へ入った。
その先にも家の窓が続いていた。
「口に水が入るぞ」
アヴィに言われ、ハーラルは開けていた口を閉じた。
「何隻ある」
「今ここに集まってる分なら、俺も数えなきゃ分からない」
「お前、家を載せていると言ったな」
「載せてるだろ」
「家どころではない」
アヴィが笑った。
船は巨大な船腹に沿って進んだ。上から見下ろす顔があり、下では荷を運ぶ者がこちらへ手を振っている。ハーラルも振り返したが、すぐに次の窓へ目が移った。椅子に座った老人が、こちらには見向きもせず、針と布を手にしていた。
港へ入っているはずなのに、岸がない。
昔、海から大都へ入った時には、建物の下に石の岸壁が続いていた。ここでは家の下まで水が来て、その水に映る窓が、船の揺れに合わせてほどけている。
連絡艇が寄ってきた。乗っている男はアヴィを見ると、舷側へ立った。
「その青いの、まだ走らせてたのか!」
「止められたけど、また走ってる!」
「どこをやった!」
「あとで見に来い。先に、荷を下ろしたい!」
男は進む方を示し、艇を先へ出した。アヴィはその後ろへ船首を向ける。ハーラルが操舵室へ戻ると、まだ笑みを残した顔がこちらへ向いた。
「知っている男か」
「小さい頃からね。前は、もっと細かった」
「お前もここで暮らしていたのか」
「育ったのは、ここだよ」
ハーラルはもう一度、窓の外を見た。
「あの橋を渡ってか」
「あれは、その頃なかった。船もだいぶ入れ替わったしね。でも、顔の変わらない奴はいる」
連絡艇の男が振り返り、アヴィは片手を上げた。示された桟橋には、索を受ける者が待っていた。
船を繋ぎ、荷を渡す頃には、機関の震えが足の下から消えた。
中央の戸からリナが上がり、アヴィへ声を掛けた。
「機関長が、下へ来てくれって。継ぎ手を見てほしいそうです」
「分かった。何か漏れたかい」
「にじんでる所が一つ。私が拭いたあと、もう一度見てもらいました」
アヴィが下へ行くと、リナは甲板の端へ寄った。頭上の窓を見上げ、そのまま後ろへ下がりかけたので、ハーラルは足元の索を指した。
「そこにあるぞ」
リナは足を止め、索を跨いだ。
「ありがとうございます。上まで、家なんですね」
「そうらしい」
二人が見ている窓から、今度は小さな椅子が運び出された。女が張り出しへ置き、腰を下ろす。ハーラルはあの高さから見える海を想像し、上へ行く階段を捜した。
*
機関室から戻ったアヴィは、荷受けの者に消息相手の定期船がどこにいるかを訊いた。
船は外側の列にいた。ただ、目当ての運送人は、届いた荷を受け取るため連絡艇で出ているという。二人は荷の仕分け場まで行き、戻る時刻を確かめた。
「夕方には帰るよ。明日の積み込みがあるから」
紙の束を抱えた女が答えた。
「デグラムが会いたがってると伝えてくれ。姉のマレイナのことで、話を聞きたい」
「分かった。船は?」
アヴィが停泊場所を告げると、女は紙の端へ書き留めた。夕方にまた来ると言い、アヴィはハーラルを連れて上の甲板へ向かった。
幅のある階段を上がると、足元の揺れが少し変わった。ハーラルは左脚をかばい、一段ずつ踏んで上がった。先に出たアヴィが道の端へ寄り、追いつくのを待っている。
通りには、店が並んでいた。
魚を載せた台の隣で、靴屋が客の足を見ている。家の戸口から娘が出てきて、水を撒いた。水は甲板の溝へ入り、縁から海へ落ちる。ハーラルはその先を覗き、下にある自分たちの船を見つけた。
ヨルアンがこちらを見上げていた。腕を振ると、若者も振り返した。
橋を渡った先では、鉄を打つ音が続いていた。作業場の戸が大きく開き、船から外した舵が吊られている。ハーラルがそちらへ寄りかけると、アヴィが肩を叩いた。
「先に飯にしないか。俺は朝から、パンしか食ってない」
「俺もだ。お前の知っている店は、どこにある」
「この先。まだ同じ所にあればね」
同じ所にはなかった。
教えられた戸口には反物が並び、中の男が二人を見て笑った。
「また食いに来たのか。隣の船へ移ったよ」
「俺に知らせずかい」
「来る日を知らせてくれりゃ、こっちも言えた」
アヴィは礼を言い、次の橋へ向かった。ハーラルが笑っていると、振り返った。
「あんたの飯も遠くなったんだぞ」
「近くに置いておけ。故郷なんだろう」
「俺が来るまで国を停めとく訳にもいかないだろ」
*
食堂の外には、手すりに沿って卓が出ていた。
厨房から顔を出した女はアヴィを見るなり、焼いている肉を指した。
「今日はもう、それしかないよ」
「まだ何も頼んでないだろ」
「前も、ない物を頼んだじゃないか」
アヴィは言い返さず、二人分を頼んだ。ハーラルが腰を下ろすと、店の女は脚が通路へ出ていると言い、椅子を少し動かさせた。
運ばれてきた皿には、薄い生地で肉と野菜を包んだ物が二つずつ載っていた。端を割ると汁が流れ、刻んだ香草の匂いがした。ハーラルは半分にして熱を逃がしたが、待ち切れずにかじり、口を開けた。
「昔も、こいつは待てなかったよ」
飲物を置いた女がアヴィを指した。
「今もだ」
ハーラルが答えると、アヴィは食べかけを皿へ戻した。
「俺はまだ何も言ってないぞ」
「顔を見れば分かる」
女が去り、アヴィは肉の出た所を上へ向けて持ち直した。
ハーラルは白いソースをつけ、もうひと口食べた。酸味が利き、熱い脂のあとに香草の匂いが残る。皿に落ちた汁まで、生地の端で拭って食べた。
食べながら、手すりの向こうへ目をやった。
少し離れた水面を、帆を張った荷船が進んでいた。船尾には機関の白い跡もある。風は横から来ているのに、帆は船を前へ押す形に膨らんでいた。
帆柱の下で、船員が布の縁に手を当てている。その手が離れると、膨らみが少し緩んだ。
「あの帆は、何をしておる」
「風を抱かせてる。機関だけで引くより、燃料が少なくて済むからね」
「横から吹いているぞ」
「そのまま通り抜けさせないんだよ。帆にも仕立てが要るし、扱える奴も乗せる」
ハーラルは皿を置いた。布は見たことのある形をしていた。だが、船員の手が縁を移るにつれ、帆の張り方が変わり、重い荷船の舳先が水を分けていく。
「あれを、俺たちの船にもつけられるか」
「帆はあるだろ。仕立てを変えるなら、機関長とも話さなきゃな」
「もっと速くなるか」
「お前も、そこから訊くのかい」
横から声がした。
ハーラルが顔を向けると、日に焼けた男が、自分の皿を持って立っていた。アヴィとそれほど年は違わないだろう。男は二人の卓の空いた端を示した。
「座っていいか。向こうは、荷の値で揉め始めた」
返事を待って腰を下ろし、アヴィへ顔を向けた。
「下にいる青い船、あんたのだろ」
「そうだけど」
「船尾をずいぶん削ったな。客を運ぶのが嫌になったか」
「重い物を下ろしたんだ。曲がりやすくしたくてね」
「見りゃ分かる。あそこまで下ろす奴は、あまりいない」
男は包み焼きの端を割り、湯気を逃がした。
「ニコラス・ベルトだ。外の列に繋いでる、白い船の船長」
「アヴィ・デグラム。こっちはハーラルだ」
「船長か」
「王だ」
ニコラスは皿から顔を上げた。
「そりゃ、失礼。俺の席まで要るか」
「お前の船を、先に見せろ」
アヴィが飲物を噴きかけ、顔を横へ向けた。ニコラスは笑ったが、ハーラルが笑わないので、皿を置いて水面を指した。
「この船を挟んだ向こうだ。よく走るぞ」
「なら、見る」
「今、飯が来たばかりだろ」
アヴィに言われ、ハーラルは椅子へ座り直した。ニコラスは機嫌よく肉を食べ始めた。
「青いのは、下も変えてるのか」
その言葉に、アヴィが顔を向けた。
「船底かい」
「あの細さじゃ、沖で叩かれそうだ。入ってきた時は、ずいぶん落ち着いて見えたが」
「前は、下から殴られるような音がしてたよ。船首へ重しを置く訳にもいかないから、底の張り方を変えた」
「どの辺りまで」
アヴィは卓へ指を置き、舳先から後ろへ線を引いた。ニコラスは途中で問い返し、答えを聞くと、自分も卓の端へ指を当てた。
「そこから逃がしたのか。よく船大工が引き受けたな」
「削るたびに嫌な顔をされた」
「だろうよ。走らせた職人にしか分からん所だ」
アヴィは満足そうに飲物を口へ運んだ。ニコラスはその顔を見てから、付け足した。
「だが、沖を一日走るなら、俺の船の方が楽だ」
「一日も並んで走ったことがないのに、よく言うな」
「曲がるたびに速さを落とす場所なら、そっちに分があるだろ。俺はそんな所で競らない」
アヴィは口元を緩めた。
「じゃあ、港を出るところで置いていくよ」
「沖で待っててくれ。昼までには追いつく」
「俺の船で待つ気はないぞ」
ハーラルは二人の間に皿を置き、残った肉を食べた。アヴィはいつの間にか、自分の船のことしか話していない。ニコラスも同じだった。何度か相手の言葉を遮りながら、よい所を言われると、今度は詳しく説明し始める。
ハーラルは飲物を頼み足した。
「二隻とも、俺の港に並べたいな」
「港も持ってるのか」
「これからだ」
ニコラスはアヴィを見た。
「いつも、この調子か」
「もっと欲しがる時もある」
「だが、お前の船は見せてもらう」
ハーラルが言うと、ニコラスは皿の最後の一切れを取った。
「いいとも。こいつにも見せたい。沖で追いつかれる方の船をな」
*
白い船は、青い船より幅があり、甲板の前後に人が動ける余裕があった。
ハーラルは渡り板を渡り、船首まで歩いた。舷側へ右手を置くと、板の手触りが掌へ残った。広い海で波を受ける姿を思い浮かべ、今度は船尾へ向かう。
アヴィはニコラスと一緒に操舵室の脇で立ち止まっていた。窓から覗き、舵を見せてもらい、後ろの甲板を指している。
「ここを残したのか」
「沖で水を被ったら、流す場所が要る。軽くするだけじゃ、遠くまで走れんぞ」
「俺の船にもあるよ」
「見た。あれで足りるのか」
「足りるように直すんだ」
ニコラスは笑って、舵の横を空けた。アヴィが中へ入り、外の海を見た。ハーラルも後ろから覗き込んだ。窓が広く、青い船とは違う高さから水面が見える。
「いいな」
ハーラルが言うと、ニコラスが頷いた。
「分かる王様だ」
「だが、あっちもいい船だ」
「聞いてるよ。船長がずっと言ってる」
アヴィは窓から顔を出した。
「次の船比べには出るのかい」
「出る。あんたも走らせるか」
「荷と金の都合がつけばね」
「つけてこい。桟橋で言い合ってても、俺は負けを認めないぞ」
「俺もだよ」
ニコラスはアヴィへ手を伸ばし、二人は握った。ハーラルはその脇を通り、帆柱の根元へ寄った。
帆を畳んだ束がなかった。綱は片づけられ、布を留める場所だけが空いている。
「帆は、直しておるのか」
ニコラスの笑みが薄れた。
「新しいのを用意してる」
「破れたか」
「なくなった」
アヴィが操舵室から出てきた。
「流したのかい」
「流れてくれりゃ、俺の失敗で済んだんだがな」
ニコラスは帆柱の上を見た。アヴィも同じ方を見上げたが、すぐに船長へ戻った。
「誰かに取られたのか」
「その話も、聞きたいか」
甲板を渡ってきた船員が、ニコラスに紙を差し出した。受け取った男は一度目を通し、顔をしかめた。
「また、先に払えだとさ」
船員が去ると、紙を折って上着へ入れた。
「機関で戻ってきた分も、余計に食った。帆の金を出して、それから次の荷を探す。船比べより、今はそっちだ」
アヴィは何も言わず、空いた帆柱を見ていた。
岸代わりの大船の甲板から、呼ぶ声がした。仕分け場で会った女が、橋の手前に立っている。
「デグラム! あの人、戻ったよ!」
アヴィは手を上げ、ニコラスへ向き直った。
「人と会う約束があるんだ。また来てもいいか」
「姉さんの話か」
「知ってるのかい」
「さっき、仕分け場で伝言を頼んでただろ。俺も荷を待ってた」
ニコラスは渡り板の方へ身体を向けた。
「こっちは逃げない。帆代を払うまではね。先に行ってこい」
アヴィが礼を言い、ハーラルもその後へ続いた。渡り板を下りる前に振り返ると、ニコラスは船員を呼び、積める荷が残っていないか訊いていた。
ハーラルは船首から船尾まで、もう一度眺めた。空いた帆柱の下を船員が通り、ニコラスが次の指示を出す。橋の入口でアヴィに呼ばれ、ようやく船から目を離した。
夕方の風が通り抜け、向こうの店では、昼に干していた布が取り込まれている。二人は並んで橋を渡った。
「お前も、あいつと走りたいだろう」
「ああ。帆を戻してからな」
アヴィはそう答え、仕分け場の戸を押した。
奥の卓に、海から戻ったばかりの男がいた。濡れた上着を椅子へ掛け、紙の束を広げている。アヴィを見ると、書きかけの手を止めた。
「デグラムか。やっと来たな」
「姉の話を、聞かせてほしい」
「座れ。名をもう一度、確かめさせてくれ」
アヴィは椅子を引いた。ハーラルも隣へ腰を下ろした。
「マレイナ。昔の家名は、エスヴァルトだ」
男は頷き、広げていた紙を脇へ寄せた。
「その娘だ。海難のあと、本国の船に拾われている。俺が話を聞いた男が、その船に乗っていた」
アヴィの手が、椅子の縁に残っていた。
「どこへ、連れていった」
「海中国家だ。港で親族へ渡したところまで覚えていた。帰ったのは、間違いない」
アヴィは少し顔を伏せた。卓の下で、椅子を引く音がした。顔を上げた時には、さっきより男へ近く座っていた。
「聞かせてくれ。その男が話したことを、最初から」




