第5話 最初の稼ぎ
夕方、船は低い防波堤の内側へ入った。
奥の岸壁には、腹を陸へ引き上げられた船が並んでいた。削った木の匂いが海まで来る。アヴィが岸の男へ手を振ると、男は指を二本立て、空いている杭の間を示した。
船を繋ぎ終えるなり、アヴィは岸へ降りた。
「ビンから話は――」
「聞いてる。どこをやられた」
男は挨拶の途中で船を指した。アヴィが船尾へ案内すると、欠けた縁を掴んで覗き込む。
「下も見る。荷を載せる話は、それからだ」
ハーラルも降りようとしたが、甲板頭に腕を指された。
「あんたは先に、その布を替えてこい」
船渠の者に呼んでもらった医者は、作業場の小部屋で待っていた。椅子へ座り、左腕を台に載せる。血の乾いた布を外されると、傷が引かれて痛んだ。
機関の音が止まったせいか、左耳の高い響きがよく分かった。医者に訊かれ、耳のすぐ脇で銃が鳴ったと答えた。顔を左右へ向けさせられている間、外では木を打つ音が始まった。
「あの船に乗ってきたのか」
「そうだ」
「なら、船と一緒に休みなさい。今夜は」
新しい布を巻かれ、ハーラルは窓へ顔を向けた。船尾の上にアヴィの頭が見えた。親方が傷の箇所を示すたび、その手元へ身を乗り出している。
*
戻ると、渡り板の前に知らない男がいた。
短く刈った髪に白いものが混じり、肩には古い革袋を下げている。男はハーラルへ道を譲ったが、自分は上がらず、青い船腹へ手を置いた。
「あいつは?」
呼ばれてアヴィが出てきた。男を見ると、歩くのが速くなった。
「来てくれたのか」
「ビンの使いに聞いた。お前が戻したってな」
男は船から手を離し、アヴィを見た。
「船は戻った。俺の取り分は?」
「まだ、全部は払えない」
「だろうな」
アヴィは渡り板を下り、男の前へ立った。
「明後日、近場へ荷を運ぶ。その稼ぎから払っていく。前の分と、今度働く分は、別にする」
「近場へ行くはずが、また追いかけっこになるんじゃないだろうな」
「乾物と雑貨だ。荷を届けて戻る」
「俺たちが止めた時にも、お前は行けるって言ったぞ」
甲板で板を片づけていた者が、手を止めた。アヴィは男を見たまま頷いた。
「俺が急がせた。船が速ければ抜けられると思ってた」
後ろへ顔を向けた。機関長も、中央の戸口に立っていた。
「残った皆にも、悪かった」
アヴィが頭を下げた。革袋の男は口を結び、機関長の方へ目をやった。
「機関は持つのか」
「点検してから答える。船長には決めさせん」
「それなら、明後日の仕事には乗る」
男はアヴィの横を通り、渡り板へ足を掛けた。甲板へ上がると袋を下ろし、取り外した板の前へしゃがみ込む。
「こっちもやったのか。派手に乗ってきたな」
「お前がいたら、もう少し楽だったよ」
「その分もつけとく」
アヴィが笑い、男は袋から道具を出した。
翌日にも、近くの港で仕事をしていた三人が戻った。ハーラルが寝ていた船室には荷物が増え、夜には、誰の靴をどかしたという声がした。
船底に傷はなく、船尾の縁は新しい板になった。ビンが紹介した荷主の前金で燃料と食事を買い、船渠へ払う分も決まった。アヴィが紙を持って親方と話している間に、甲板へ木箱と袋が運び込まれた。
*
その翌朝、ハーラルは荷の脇で金具を回していた。
甲板へ箱を固定する帯の留め具だった。剣を外して壁へ立て掛け、右手で柄を倒す。帯が張ったが、端が浮いている。
「もう一つ先までだ」
甲板頭に言われ、押し直した。小さな音がして、柄が収まった。
「こいつが外れたら、箱が走る。出る前に全部見てくれ」
ハーラルは隣へ移った。向こうではヨルアンが袋を担ぎ、戻った男と置き場所を相談している。一つ運んでは順を確かめ、甲板頭の指した所へ載せていた。
帯の下へ噛んだ布を抜こうとして、ハーラルは左手を出した。
「そっちは使うな」
「布を抜くだけだ」
「抜いたあと、ついでに箱を押すだろ」
甲板頭は布を引き抜き、そのまま次の荷へ行った。ハーラルは言い返す相手を失い、右手で留め具を閉じた。
最後の帯を確かめて顔を上げると、アヴィが操舵室の窓から見ていた。
「どうだい、働きやすいか」
「口うるさい男がいる」
「俺は何年も聞いてる」
渡り板が上がった。前後で声を掛け合い、索が船へ引き込まれる。機関の震えが靴底へ届くと、ハーラルは箱から離れ、舷側へ寄った。
岸壁にいた親方が手を上げた。船が防波堤を回る間も、その腕は見えていた。
沖へ出ると、風が強くなった。
ハーラルは風へ顔を向けて立っていたが、やがて操舵室へ寄った。アヴィの横に立ち、窓の向こうの舳先を見る。
「もっと出せるだろう」
「出せるよ」
「なら――」
「出さんぞ」
下から機関長の声がした。アヴィは開けていた伝声管の蓋へ手を置いたが、閉じる前に続きが来た。
「荷を運ぶんだ。燃料を捨てに来たんじゃない」
「まだ何もしてないだろ」
「着けば分かる」
アヴィは蓋を閉じ、ハーラルへ顔を向けた。
「聞こえたかい」
「お前が言う前に、向こうが答えたな」
「長いつき合いだからね」
舵を取りながら、アヴィは口元を緩めた。窓の下から水が跳ね、陽を受けて細かく光った。
岸に沿って進むと、白い家々が山腹へ重なっているのが見えた。その下には細い鉄の脚が何本も立ち、上に載った道が、海辺を長く続いていた。
道の上を、箱の列が走ってきた。
「あれも車か」
「鉄道だよ。荷も人も乗る」
箱は互いに繋がれ、一つが曲がると、後ろも同じ場所で曲がった。山腹の家の間へ入るまで、列が途切れない。
「あれだけの車を、一度に引くのか」
「船なら、もっと載せるぞ」
「ああ。だが、あいつは山を登っておる」
アヴィも岸を見た。列の最後が家の陰へ消えると、革袋の男が操舵室に入った。
「替わるぞ。飯、先に食ってこい」
「頼む。岬の先まで、このままだ」
アヴィは舵を渡し、ハーラルと甲板へ出た。風へ顔を向けて一度大きく息を吸い、中央の戸へ下りていく。
ハーラルはまだ岸を見ていた。
「何かいたのか」
ヨルアンが近づいてきた。空になった両手を、腰の布で拭いている。
「山を登る車の列だ。もう見えん」
「帰りも通るだろ。俺にも教えてくれ」
食事を呼ぶ声がした。二人が椀を受け取る頃には、先に食べた者が甲板へ戻り、ヨルアンのいた持ち場へ入った。
船尾寄りの箱に腰を下ろした。二日前には、この高さから敵が渡ってきた。今は、新しい板の向こうで海が光り、誰かが濡れた靴下を干している。
椀には麦と豆が煮てあった。小さく切った肉も入っている。ハーラルは匙で底から返し、湯気へ顔を寄せた。
船が波を越えた。椀を持つ手を身体へ引き、揺れが戻ったところで口へ運ぶ。隣ではヨルアンが同じように待ち、二人は目を合わせた。
「こぼすなよ」
「あんたもな」
ハーラルは笑い、パンをちぎった。
左腕はまだ痛んだが、膝に載せておけば食べられた。食べ終わってもすぐに立つ必要がなく、片脚を伸ばして、遠くを進む漁船を眺めた。舷側に並んだ者たちが、こちらへ帽子を振っている。
ヨルアンが振り返した。ハーラルも右手を上げた。
*
昼前に着いた港では、荷受けの男が桟橋で待っていた。
箱を下ろす者と袋を運ぶ者に分かれ、ハーラルは留め具を外した。ヨルアンが荷へ手を掛けると、帯の端を持ち、引き抜いて道を空ける。
甲板が広くなった。最後の袋が岸へ渡ると、荷受けの男は紙へ何か書き、アヴィに金を渡した。
帰りは、ヨルアンが先に舷側へ来た。
鉄の脚が見え始めると、ハーラルを呼んだ。二人で待っていたが、しばらく何も通らなかった。甲板頭に呼ばれ、ヨルアンが戻りかけた時、山腹から長い列が出てきた。
「来たぞ」
声に、若者が振り返る。
行きより近く見えた。箱の横には窓が並び、その一つに顔があった。ハーラルは手を上げたが、返事があったかどうか分からぬうちに、列は船を追い越していった。
船渠へ戻る頃には、日の光が岸壁の横から差していた。
アヴィは親方へ金を渡してから船へ戻り、皆を呼んだ。運賃から燃料や補修の分を引き、働いた者へ約束の取り分を渡す。前の未払いにも幾らか回したが、革袋の男は受け取った金を数え、アヴィに指を一本立てて見せた。
「残りは覚えとけよ」
「覚えてる」
男が離れると、アヴィはハーラルにも金を渡した。
掌に載せてみた。大きさも色も違う銭が混じっている。
「これが、あんたの分だ」
ハーラルは一枚を裏返した。刻まれた数字は読めなかったが、重さは指に残った。
「飯なら、どれほど買える」
「何を食うかによるな。まさか全部、今夜食べる気かい」
「先に、返す金をよける。お前が払った分と、テルナにつけた分だ」
額を確かめ、銭を分けた。アヴィが返せる時でいいと言ったが、ハーラルは返す分を小さな布に包んだ。残りの銭と一緒に、腰の袋へ入れる。
「今夜は、何を食う」
「買った豆と、干した魚がある」
「魚は、干してないのがいいな」
岸へ降りると、船渠の入口に料理を売る店があった。火の上へ大きな平鍋を掛け、魚を焼いている。皿へ移された一尾は皮が割れ、腹に詰めた香草が覗いていた。
ハーラルは足を止めた。
「これを船へ持っていけるか」
「皿を返してくれるならね」
店の女が答えた。ハーラルは値を聞き、袋から銭を出した。アヴィに種類を確かめさせてから、台へ置く。
「三尾、同じ皿へ載せてくれ。酒も持っていきたい」
「皆に出すのかい」
アヴィが言った。
「お前には肉もだ。約束したろう」
「覚えてたのか」
「お前が忘れておったのか」
女が笑って、奥へ肉の注文を通した。ハーラルは皿へ載せられていく魚を見ながら、まだ袋に残っている銭を指で確かめた。
「皿をもう一枚、貸してくれ。分けて食う」
女が顔を上げる。
「俺たちは十二人いる」




