第4話 伸びる澪
腿の上の銃が持ち上がった。
ハーラルは木箱の男へ踏み込み、銃身を左手で押し上げた。男が立とうとするところへ肩を当てる。押された男の指が握り込まれ、耳のすぐ脇で火が弾けた。
頬に熱が触れた。頭の中まで音に殴られ、左耳に高い響きが残る。
ハーラルは銃を握ったまま、男を中央の壁へ押しつけた。喉元へ切先をつけると、相手の口が動いた。何を言ったか聞き取れず、剣をさらに近づけた。
「離せ!」
銃が手に残った。筒の先を自分から遠ざけ、男の顔を見る。こいつが狙い直す暇など、なかったはずだ。
左では、ヨルアンが外套の男を押さえていた。渡り板の監視も、甲板頭と痩せた操舵員に銃を奪われている。アヴィは工具を持って中央の張り出しの反対側へ走った。
「前だ!」
見張りが指した先で、操舵室から男が出てきた。こちらを狙おうと角を回ったところへ、アヴィが工具を振るう。銃が落ち、見張りが拾った。
岸から武装した男たちが駆けてくる。ハーラルたちは四人を渡り板へ追った。岸へ下りる男たちが、駆けつけた者の行く手を塞いだ。甲板頭と操舵員が板を外し、石の上へ押し落とす。
「船首、外せ!」
アヴィが操舵室へ走った。前後で索を外す者たちの声を聞きながら、ハーラルは奪った銃と鞘を中央の戸の脇へ置いた。
甲板から木屑が跳ねた。
「ヨルアン、こっちだ」
張り出しの陰へ若者を引き、身を低くする。岸の男が銃を構えていた。先ほどの一発と違って遠い音だったが、頭を上げる気にはなれなかった。
船が動きだした。岸との隙間へ水が入り、柵と積み荷が後ろへずれる。
「皆、乗ってるな!」
アヴィの声に、甲板頭が振り向いた。
「乗ってる! 八人だ!」
船尾から戻った痩せた操舵員が、ハーラルの脇へ腰を落とした。さっきまで岸へ下ろされかけていた男だった。息を吐き、中央の戸に手をつく。その下では、機関が鳴り続けていた。
*
桟橋を離れたのに、速くならなかった。
船首は港口へ向いているが、岸の建物はまだ一つずつ見分けられた。アヴィが下へ声を送り、機関長が答える。
「まだだ。冷却を確かめてる!」
砲を据えた艇が、岸から船首を振り出していた。その手前では、低い回収艇の甲板へ男たちが駆け上がっている。
「あれが来る。備えろ」
甲板頭が鉈を二本持ち出し、一本を操舵員へ渡した。痩せた男は腰へそれを差し、ハーラルが奪った銃を拾って調べた。
ヨルアンは工具箱から鉄の棒を取った。
「振り回すな。突いて押せ。向こうへは行くなよ」
「分かった」
若者が頷いた時、砲艇の船首で光が弾けた。
船の先に水が立ち、白い飛沫が舳先を越えた。顔を拭い、ハーラルは砲へ目を戻す。あれが当たれば、身を隠している壁ごと砕かれる。
「岸へ寄せるぞ!」
船首が向きを変えた。回収艇が沖側から斜め後ろへ迫り、その向こうにいた砲艇を隠していく。
「思ったより多いな」
ヨルアンが言った。甲板には、見えるだけで六人いた。鉤のついた綱を持ち、こちらの船尾を指している。
砲艇は撃つのをやめ、外へ回り始めた。
鉤が飛んできた。船尾寄りに二本の索が掛かり、張った。二隻の間の水が狭くなる。
甲板頭が鉈を持って近づくと、向こうの男が銃を向けた。甲板頭は伏せ、船尾の縁から木屑が散った。
すぐ後ろで、別の銃が鳴った。
痩せた操舵員が壁の角から撃っていた。向こうの射手が頭を下げる。
「俺が押さえる。出るなら今だ!」
ハーラルはヨルアンと船尾へ進んだ。回収艇の舷側が並び、二隻の間へ板が渡される。
「アヴィ! 砲の方は!」
「外へ回ってる。長くは隠れられない!」
*
最初の男が、刃のついた銃を持って渡ってきた。
操舵員の射撃で向こうの射手が伏せる間に、ハーラルは板の端へ詰めた。突き出された刃を払い、相手の腕を斬る。男が退いたところへ次が来たが、ヨルアンの棒が押し止めた。
その脇から一人が縁を越え、索のそばに屈んだ甲板頭へ向かった。
ハーラルは間へ入り、短い剣を受けた。相手は退かず、身体ごと押してくる。船が揺れ、左膝が折れかけた。
背中へヨルアンの肩が当たった。
踏みとどまった時、左腕に熱が走った。袖が裂けていた。ハーラルは相手の顔へ柄を打ち込み、よろけた身体を舷側へ押し戻した。向こうの者がその背を受け、引きずり込む。
追う気にはならなかった。甲板頭を振り返る。鉈を持ったまま、こちらへ頷いた。
「大丈夫か」
ヨルアンが訊いた。
「立っている。お前は」
「まだ、押せる」
若者の頬を汗が流れ、棒を握る腕が震えていた。ハーラルも息を整えながら板の端へ戻った。
向こうでは負傷した者を下げ、また銃を出そうとしている。こちらの銃声が続いたが、頭を上げれば木屑が飛んできた。ハーラルたちは舷側へ低く身を寄せ、渡ろうとする者が来るたびに立ち上がった。
左腕が濡れている。拭う暇はなかった。
「砲艇、並ぶぞ!」
船首の見張りが叫んだ。回収艇の船尾の先から、砲を据えた船首が見え始めていた。
「まだか!」
ハーラルが叫ぶと、中央の戸の奥から返事が来た。
「上げられる! 船長、いつでもいい!」
「離せ!」
アヴィの声が返った。
操舵員が最後の一発を撃ち、銃を置いて船尾へ走る。援護が止まったところへ、敵が板を渡ってきた。
「ここを持たせろ!」
ハーラルはヨルアンと並び、押し寄せる身体を受け止めた。後ろで鉈が木を打つ。相手の肩越しに、銃口が見えた。顔を寄せるように間合いを詰め、敵の身体をその前へ押した。
「切れた!」
甲板頭の声に、船尾からも声が返る。ヨルアンが短く叫び、棒で敵を板へ押し返した。
「敵は乗っておらん! 出せ!」
船尾が横へ滑った。
渡してあった板が落ち、回収艇の舷側が離れていく。ハーラルはヨルアンの上着を掴み、中央の張り出しへ引いた。若者が手すりを握ると、自分も壁へ肩をつけて踏ん張った。
*
岩が、船首の先へ迫っていた。
昨日、岸から見た場所だった。水に沈んでいた岩の肩は、今日はほとんど見えない。白い泡が長く伸び、その向こうに、もう一つの岩が立っている。
「右、見えてる! そのまま!」
見張りが身を乗り出して叫んだ。操舵員が甲板を走り、操舵室へ入る。アヴィの背後で窓から岩を確かめ、何かを指した。
ヨルアンが手すりを握っているのを確かめ、ハーラルも脇の手すりへ手を伸ばした。左腕の傷が痛んだ。
背後で、砲の音がした。
振り向く前に水が降ってきた。船尾の外側へ白い柱が立ち、崩れていく。波を受けた船が持ち上がり、そのまま岩へ向かって走った。
近すぎる。
思わず口を開いたが、操舵室にはアヴィがいる。ハーラルは声を飲み込み、手すりを握った。
舳先が泡の筋へ入った。
片側の岩が窓の向こうを過ぎ、もう片側が甲板のすぐ脇を流れた。濡れた石の割れ目まで見えた。一度強く傾いた船が戻り、底を擦る音もなく、その間を抜けていく。
船尾を振り返ると、回収艇は岩の手前で向きを変えていた。砲艇はさらに沖へ出ている。砲口が見えたが、その間へ灰色の岩が入り、艇ごと隠した。
「抜けた!」
見張りの声に、甲板頭が手を上げた。
前には、開けた海があった。
機関の音が太くなり、甲板を伝わる震えが揃った。舳先が波を割り、落ちた先でまた浮き上がる。その動きに膝を合わせると、ハーラルの身体も船と一緒に前へ出た。
風が上着の中へ吹き込んだ。
濡れた髭が頬へ張りつき、目を細めても、水平線の向こうまで海が続いている。船尾には、さっきまでなかった長い白い道ができていた。
ハーラルは笑った。
声を出すと、さらに笑いたくなった。これだけの船を、櫂も帆も使わずに走らせている。波を越えるたびに岸が遠くなり、岩の向こうから出てきた砲艇が小さくなっていく。
「ヨルアン、見ろ!」
若者はすでに見ていた。手すりに両腕を載せ、肩で息をしながら、船尾の白い水を眺めている。
「これ、ずっとこうなのか」
風の音に耳鳴りが重なり、ハーラルは右耳を向けて顔を寄せた。
「知らん! 俺も初めてだ!」
ヨルアンが笑った。中央の戸から、機関長が顔だけ出した。
「船尾に水は入ってないか!」
甲板頭が傷ついた縁の下を覗き、腕を振った。
「縁だけだ! 中は乾いてる!」
「なら、そこを踏むなよ!」
機関長はまた下へ戻った。ハーラルも手すりから手を離し、操舵室へ向かった。窓枠へ左手を掛けようとして、腕に痛みが走った。袖が傷へ貼りつき、手首まで血が伝っている。
甲板頭が布を持ってきた。腕を出すと、裂けた袖をさらに開き、傷の上へ巻いていく。
「深くはない。握ってろ」
布を押さえて窓の下まで行くと、アヴィがこちらを見た。舵は痩せた男が握っている。アヴィはその横から海を確かめ、ハーラルへ顔を戻した。
「どうだい」
「いい船だ」
アヴィの口元が上がった。
「岸で見た時も言ってたぞ」
「もう一度言いたくなった」
追手の方を見た見張りが、腕を下ろした。
「離れてく。もう届かない!」
アヴィは窓から身を乗り出し、船尾へ目をやった。戻した顔から笑みが消えず、ハーラルもつられて口を開けた。布を押さえたまま、顔を上げて笑った。
「約束どおり、思いきり走らせるぞ」
「ああ。今度は、前を見て楽しませろ」
「それじゃ、まだ降りる訳にはいかないな」
ハーラルは窓枠を叩き、風の当たる甲板へ戻った。ヨルアンが少し横へ寄り、手すりの場所を空ける。
そこへ右手を置いた。波の向こうに、次の岬が見えていた。




