第2話 もう一度、一隻から
アヴィが戻ってきた時、ハーラルは空いた卓に肘をつき、戸口を見ていた。
窓の外はまだ明るかったが、店には仕事を終えた男たちが入り始めている。テルナは鍋と卓の間を行き来し、誰かが開け放した戸からは、焼いた肉の匂いが流れてきた。
「待ったかい」
「船底の話を考えていた」
向かいへ腰を下ろしかけたアヴィが、笑った。
「本当にそっちも聞く気だったのか」
道具袋から短い木切れを取り出し、卓に置く。船を横から見たつもりらしい。裏返した椀を波に見立て、木切れの先をそれへ当てた。
「速く走らせると、前が跳ねすぎたんだ。着くたびに、船底を下から殴られるような音がしてね」
「船首へ重しを置けば、今度は波を被るな」
「そう。だから底の張り方を少し変えた。船大工には、削るたびに嫌な顔をされたよ」
木切れが椀の縁を滑った。ハーラルはそれを受け取り、指の腹で底をなぞった。櫂のない船をどう扱うかはまだ分からない。だが、舳先が波へ入り、その先へ伸びていく時の感触なら知っていた。
「よくなったか」
「冬の沖で試した。前なら歯を食いしばってたところで、立っていられた」
「それはいい」
「だろう?」
テルナが二人の前へ椀を置き、卓を空けるよう顎で示した。アヴィは木切れをどかしたが、ハーラルの手が離れてからもしばらく、それを握っていた。
「あれだけ走る船を、どうして取られた」
ハーラルが訊くと、アヴィは木切れを道具袋へ戻した。
「速けりゃ抜けられると思ったからさ」
匙を取って、煮込みを一度かき混ぜる。
「デイン・ロッサって男がいる。船を持ってて、商船の護衛も、港の警備も請け負ってる。俺は、そいつの護衛がついた商船を襲った」
「何を奪った」
「布と酒。止めに来た船員にも怪我をさせた」
「お前がか」
「俺も、だ」
アヴィは匙を置いた。
「積荷は別の港で売った。そのあと、行方不明の姉の消息を知ってるかもしれない奴の話を聞いて、こっちへ戻った。待ち伏せがあるのは分かってたんだ。遠回りをすりゃよかった」
「だが、しなかった」
「ああ。追いつかれる前に抜けるつもりで、進む先まで塞がれた。船を傷めて、仲間を残して、俺はこうして陸にいる」
奥の卓で笑い声が上がった。アヴィはそちらを見ず、椀の縁についた豆を匙で落とした。
「残っているのは何人だ」
「五人。機関を動かせる奴と、船の扱いを知ってる奴だ。逃がさずに修理をやらされてる。デインは、直して使う気らしい。あれを欲しがってたからね」
「お前は捕まらんのか」
「あいつの部下に見つかれば捕まるよ。ただ、町の警備隊にまで俺を捕まえる命令が出てるわけじゃない。船も、裁きが済んでデインの物になったわけじゃないんだ」
「ならば、裁く者へ訴えろ」
「もう頼んである。でも、向こうは奪った荷と治療代を返せと言ってる。それは本当の話だ。揉めてる間に、船を別の港へ移されそうでね。五人も乗せたまま」
「中とは話ができるか」
「今日会ってきた職人が、修理で出入りしてる。そいつに頼んでるよ。俺がまだここにいるのは、皆も知ってる」
ハーラルはパンで椀の底を拭った。あの広い甲板に、まだ見ていない五人がいる。岸から船を眺めていた間にも、誰かは下で機関の世話をしていたのだろう。
「俺も手を貸そう」
アヴィが顔を上げた。
「気持ちはありがたいけど、あんたのことを何も知らないんだ。浜で拾った王様だってこと以外は」
「王だとは信じておらんくせに」
「そこも怪しいとなると、いよいよ何も知らないな」
笑った口元を戻し、アヴィはハーラルの腰の剣を見た。
「明日、もう少し港を見よう。あんたも、何を相手にするか知ってから決めた方がいい」
*
翌朝、ハーラルが階下へ下りると、いつもの卓に小さな娘が座っていた。
紙を広げ、短い筆記具を握っている。ハーラルを見上げてから、その膝、腰の剣、顔の順にもう一度目を動かした。
「おばあちゃん。この人?」
「そうだよ。あまりじろじろ見るんじゃない」
「ねぇ、おじさんがおばあちゃんを悪魔って言った人?」
ハーラルは椅子を引く手を止めた。
「それは、詫びた」
「うん。聞いた」
娘は紙を自分の側へ寄せ、向かいの席を空けた。ソアという名で、九つになると、朝食を運んできたテルナが教えた。息子ガルドンが港の仕事へ出る日は、ここに来るのだという。
「名前は?」
「ハーラルだ」
ソアは小さく口を動かし、紙へ何か書きつけた。先が擦れるたび、黒い線が残る。墨をつける必要もないらしい。ハーラルが手元を見ていると、紙を半回転させて差し出した。
「これで合ってる?」
店の看板と同じ、曲がった線の連なりだった。
「この国の文字は読めん」
「自分の名前なのに?」
「お前は、俺の国の文字でお前の名を書いたら読めるか」
ソアは少し考えたあと、紙を引き戻した。
「じゃあ、教えてあげる。ここが、ハー」
指先が動くのを見て、ハーラルも同じ箇所を押さえた。二度目に隣の字を示すと、違う、とすぐに直された。三度目には合ったらしく、ソアは満足そうに頷いた。
「王様でも、知らないんだね」
「ここの王なら読めるだろうよ」
「リセラには王様いないよ」
「死んだのか」
「違うよ。いない国なの」
パンを持ってきたアヴィが、二人の横に座った。
「共和国っていうんだ。土地ごとに選んだ代表が集まって、国のことを決める。首相も、そこから選ぶのさ」
「皆が別々のことを言ったら、誰が決める」
「最後は数を取る。多い方だ」
「兵を動かすにもか」
「国の軍は、首相たちが命令を出す。議会と揉めることもあるけどね」
ハーラルはパンを割りながら、昨日の桟橋にいた男たちを思い出した。
「デインも、その代表の一人か」
「いや。金と船を持ってて、役所から仕事を受ける男だよ。あいつの船団と、国の軍は別物だ」
王がいなくとも、兵を動かす者と、船を集める者はいる。そこまでは分かったが、国を預かる者をどう選ぶのか、まだ聞きたいことがあった。
ソアが紙の端を叩いた。
「ねえ。次、ラルだよ」
ハーラルはパンを置いた。
*
港へ出る前に、テルナから部屋をどうするか訊かれた。ハーラルが答えるより先に、アヴィがあと二晩と頼んだ。明日の修理仕事の手間賃を入れるという。
戸口を出てから、ハーラルはその横顔を見た。
「お前の稼ぎを食っているな」
「今朝は俺よりパンを二切れ多く食った」
「覚えておけ。返す」
「二切れとも?」
「肉をつけてだ」
アヴィは笑い、昨日とは別の路地へ入った。
連れていかれた修理場では、壁に立て掛けた鉄の筒を男が布で拭いていた。筒には木の握りと肩に当てる部分があり、昨日、桟橋の見張りも似た物を持っていた。ハーラルは長いこと、短い槍の一種だと思っていた。
「銃だよ」
アヴィにそう教えられても、何をする物かは分からなかった。
男が修理を終えた一丁を試すというので、裏手へ回った。土を盛った壁の前に厚い板が立ち、左右も高い壁で囲まれていた。男は誰もいないのを確かめ、二人を自分の後ろへ下がらせた。
「耳を塞いだ方がいい」
アヴィの言葉に片手を上げたところで、音がした。
ハーラルの肩が跳ね、手が剣へ落ちた。向こうの板から木屑が散っている。男は筒を下ろし、手元を確かめてから、もう近づいていいと言った。
板の表には小さな穴が開いていた。裏へ回ると、木が大きく裂けていた。ハーラルはその縁へ指を当てた。飛んだ物は見えなかった。
「矢ではないな」
「金属の弾さ。あの筒から飛ばす」
「盾でも抜けるか」
「木の盾なら、当てにはしない方がいい」
ハーラルは男の手の中へ戻った銃を見た。あれを構える動きを見てから、身をかわす余地があるだろうか。板までは、駆けても何歩もかかる。剣の柄に残っていた手を離した。
修理場を出たあとも、耳の奥には音が残っていた。
「あの船を見張る者も持っているな」
「持ってる。追ってくる船には、もっと大きいのもある。砲っていうんだ。舵や機関の辺りを壊されたら、それで終わりだ」
「止まらず、走っておってもか」
「当たりにくくはなる。でも、当たらないわけじゃない」
昨日なら、速い船だと聞くだけで思い描けた海が、少し違って見えた。
アヴィは倉庫の陰で足を止めた。通りの先から港口が見える。濃い青の船は昨日と同じ桟橋にいた。その手前に、舷側の低い艇と、船首へ太い筒を据えた艇が繋がれている。
「あの二隻もデインの船だ。低い方は人を乗り込ませる。もう一方は、逃げる船を砲で止める」
「お前はどうするつもりだった」
「船を移す前に、機関と舵を確かめる試運転をやる。その日に修理の人間へ紛れて乗る。中の五人と一緒に機関を起こして、走れるところまで持っていく。試すふりをして岸から離れりゃ、あとは速さを使える」
「機関というのは、すぐには走れんのか」
「止めてあるところから、いきなり全速にはできない。中で術を通して、順に動きを確かめる。急がせると壊れちまう」
アヴィが見張りの方へ目をやった。
「だから、それが済むまでは、気づかれたくない」
「気づかれたら?」
「縄を切って、出せる力で離れる。そこが一番まずい。あの二隻より遅い間がある」
ハーラルは二隻を見比べた。砲を据えた方は岸壁へ船尾を寄せている。砲口の向く先を目でたどってから、低い艇へ視線を戻した。
「乗り込む方が先に来たら、追い払うのか」
「できれば、近づけたくないね」
「そいつが横につけば、砲の邪魔にならんか」
アヴィも同じ方を見た。
「撃つ方からすりゃ、なる。けど、その代わりに敵が乗ってくるぞ」
「そっちは俺が引き受ける」
ハーラルはアヴィへ向き直った。
「一人で全部止められるとは言わん。船の上も見ておらんからな。だが、機関の者を持ち場から離さずに済むよう、甲板で戦うことはできる」
「砲の船が反対へ回ったら?」
「その前に走れるか。それをお前に訊いている」
アヴィは腕を組んだ。口を開きかけてやめ、港口から外側の岸へ目を動かす。
「……中の連中に聞かなきゃな。どこまで直ったかで違う。それに、敵がくっついたままじゃ走れない。離す時を合わせないと」
「なら、そこも聞こう」
通りへ出る前に、ハーラルは左右を見た。荷を積んだ車が来ている。角で待っていると、アヴィも隣に立った。
「今日は、ちゃんと待つんだな」
「昨日は、知らなかった」
車が通り過ぎてから、二人は修理場へ引き返した。
*
その翌日の夕方、アヴィは折り畳んだ紙を持って店へ戻った。袖口には油染みが増え、爪の際が黒くなっている。
ハーラルの向かいに座ると、まずテルナを呼び、受け取ってきた手間賃の一部を渡した。それから紙を広げた。
「明後日だ。試運転が決まった」
「五人は」
「全員いる。手紙は機関長から」
紙へ目を落としたアヴィが、鼻で笑った。
「最初の二行は、読まなくていいな」
「読め」
「あんた宛てじゃないぞ」
「返事は聞いておきたい」
アヴィは椅子に背を預けた。
「『今度も、速いから大丈夫だと言うつもりなら来るな。俺たちは前にも聞いた』」
通りで荷車の車輪が石を鳴らした。アヴィは紙の折り目を爪で押さえ、続きを読んだ。
修理は試運転に間に合う。ただし、起動を早めるために手順を飛ばす気はない。機関室の二人を甲板へ呼び上げないこと。船に残る五人を、全員乗せたまま出ること。
「それから、『朝飯をひっくり返した時の話で笑わせようとするな』だってさ」
「先に言われたな」
「俺が何を書くと思ってるんだ、あいつ」
アヴィは笑ったが、手紙を置く頃には、その顔が戻っていた。
「……まあ、書こうとは思った」
ハーラルは紙の上に並ぶ字を見た。誰かの手が、船の中でこれを書いた。そこに自分の名があったとしても、まだ見分けられない。
「昨日の話も伝わっているのか」
「伝えてある。必要な時間を確かめるから、明日もう一度返事を寄こすって。あんたが何者かも聞かれた」
「何と答える」
「それは、これから考える」
アヴィはテルナに紙と筆記具を借りた。書きかけて止まり、一行目に線を引く。しばらくしてから、今度は声に出さずに続きを書いた。
「読んで聞かせんのか」
「そこは俺とあいつらの話だよ」
ハーラルは頷き、椀へ手を伸ばした。アヴィが書き終えるまでに、煮込みを半分ほど食べた。
「前に囲まれたのは、俺が急がせたせいだって書いた」
アヴィは紙を折りながら言った。
「全員で出るとも。それができるところまで詰めてから、最後の返事を渡す」
*
食後、二人は店の裏へ出た。
昼に干した布が取り込まれ、物干しの綱だけが風に揺れている。井戸の脇へ腰を下ろそうとして、ハーラルは左膝をさすった。昼の間、港の道を歩き回った分が、今になってきていた。
「やっぱり痛むのか」
「昔からだ。戦えぬほどではない」
アヴィは井戸枠に背を預けた。
「飯と宿の礼なら、もういいんだよ。あんたの国を知ってる船が来るまで、ここで待ってたっていい」
「いつ来る」
「それは分からないけど」
ハーラルにも分からなかった。今日も船乗りを呼び止めて訊いたが、ノルウェーを知る者はいなかった。
息子は、どれだけ待つだろう。戻らぬ父を捜しに、船を離れるだろうか。朝に聞き損ねた声を思い出そうとすると、いつも川岸の人の声が邪魔をした。
「待っているだけでは、金も、人に聞く足もない。船があれば、ほかの港へ行ける」
「取り戻せたら、乗せていくよ」
「客になるとは言っておらん」
ハーラルは膝から手を離した。
「俺も働く。稼いで、お前とテルナに返す。それから、俺の船を手に入れる」
「もう次の船の話かい」
「俺の旗の下に、人と船を集めたい。一隻手に入れて眺めておるだけでは、つまらんからな」
アヴィは少し黙ってから、ハーラルの顔を見た。
「先に言っとくけど、あの船は俺のだぞ。取り戻したら王様の物になる、なんて話は困る」
「分かっている。お前と組むと言っているのだ」
「なら、舵は俺が取る。離れる時を決めるのも俺だ」
「甲板の戦いは俺に任せろ。誰を使えるか、どこを守るかは、乗る前に決める」
「皆にも話してからな」
「無論だ。言うことを聞かん者に、背は預けられん」
アヴィは頷いた。少なくとも、今度は浜で拾った男だとは言わなかった。
「出たあとの稼ぎも、働いた分は分ける。修理代まで使い込まないでくれよ」
「お前の方が、使いそうな顔をしている」
「船に使うんだよ」
二人は手を握った。アヴィの掌には、小さな切り傷と硬いところがいくつもあった。ハーラルが放すと、アヴィはその手で指を折った。
「中に五人。俺とあんたで七人。どう切り詰めても、あと一人は要る。俺が舵を取って、あんたが甲板を守るなら、動ける奴が足りない」
「一緒に逃げた仲間は」
「この島を出た奴もいる。明後日までには集められない」
「なら、この島で見つけよう」
「ガルドンに当たってみるか。港で働く奴なら、俺よりよく知ってる」
アヴィが井戸枠から背を離した。ハーラルも立ち上がり、店の窓から漏れる明かりの方へ歩いた。
「それと、アヴィ。船を取り戻したら、一度、思いきり走らせてくれ」
「それは頼まれなくてもやるよ」
「機関長が飯を食い終えてからな」
「……もう向こうの味方かい」




