Episode9~私を視て~その6~
打ち合いは、既に理性の領分を離れつつあった。
振るえば自らの腕が軋み、受ければ鋼鉄の皮膚に亀裂が奔る。互いに互いを削り、互いに互いを支えにするような、歪な均衡。倒れないために殴り、殴るために倒れずにいる。そんな消耗の応酬が、どれほど続いたか。
先に見切りをつけたのは、サイードだった。
(——もう、長くはもたねえ)
鋼の腕は表面から罅割れ、振動の残響が骨の芯にまで澱のように溜まっている。ルシウスとて似たようなものだろうが、あの男には妙な粘りがある。時間をかければかけるほど、こちらの分が悪い。
ならば、次の一手に全てを乗せる。
好機は、向こうから転がり込んできた。
結界で軌道を逸らそうとした刹那、ルシウスの上体がわずかに泳いだ。疲弊が、動きの端に綻びを生んでいる。
その綻びへ、サイードは左の拳を突き込んだ。
——否。突き込んだと、見せた。
「っ、」
ルシウスの反応は速い。薄い平面結界が虚空に立ち、左の直突きはその面へ吸い込まれるように受け止められる。
だが、それこそが誘いだった。
弾かれた左腕が、そのままルシウスの視界を斜めに横切る。一瞬、生まれた死角。その死角の底から、渾身の右が——みぞおち目掛けて滑り出た。
「——!」
気づいたルシウスが、遅れて二枚目の結界を編もうとする。
しかし間に合わない。
右の拳は結界の縁を紙一重で掠め、逸れることなく、ルシウスの中心へ吸い込まれていく。
(獲った)
最後のひと押し。仕留めるべく、サイードは踏み込んだ。
——その足元に、ふ、と、小さな圧が触れた。
意識を刈り取る威力などない。痛みすらない。強いて言葉を探すなら、路傍の小石に爪先を引っ掛けた、あの間の抜けた感触に近かった。
「あ?」
反射的に、視線が落ちる。
そこに、薄い薄い結界の幕が張られていた。踏み込みの軌道に、ただ一枚。
次の瞬間、それは音もなく罅割れ、砕けた。
障壁は消えた。消えたが——もう遅い。
踏み込みと拳の呼吸が、その一枚分だけ、ずれた。伸びきる勢いだけが先へ行き、肘が、肩が、置き去りにされて無様に伸びていく。
「くそ」
あと、指先ひとつ分。あと一歩、深く踏み込めていれば、届いていた。
だが伸び切ったサイードの腕は、もはや己のものではないかのように空を切り、そして——ルシウスの手に、掴まれた。
避けることも、退くことも許されない。密着した掌から、あの不快な振動が、腕を伝って腹の奥へと撃ち込まれる。
今度は、サイードの体が吹き飛ばされる番だった。
「サイード!」
フローラの悲痛な声が、遠く中庭を渡る。
だがルシウスは、その声を歯牙にもかけない。宙にこそ舞わなかったものの、氷上を滑るように後退していくサイードへ、片膝を引きずりながら肉薄する。がら空きの側面。そこへ、血に濡れた拳を振りかぶった。
——届く。
誰もがそう思った、その刹那。
サイードの脇を縫うようにして、一条の魔力弾が奔った。
弾は従者の体を掠めもせず、その右脇、拳を振り抜こうとしたルシウスの横腹へと、正確に着弾する。
「——ぁ」
声にならない声。
振動を撃ち込むはずだった体が、代わりに撃ち抜かれ、硬直した。
振り上げた拳が行き場を失い、ルシウスはたまらず片膝を折る。締め付けるように横腹を抱え、その顔は苦悶に歪んでいた。
崩れ落ちる音が、乾いた芝の上に、どさりと沈む。
「……お嬢」
朧げに、サイードが呟いた。
視界を横へ滑らせれば、遠い彼方から、こちらへ真っ直ぐに手を伸ばす主人の姿がある。その口許は、何かを必死に叫んでいた。声は、もう届かない。
それでも、意味は分かった。
「……助かりました」
正面へ顔を戻す。そこには、片膝をついたまま動けずにいるルシウスがいる。互いに、地に縫い止められたまま、視線だけで斬り合っていた。
「危ないところだった。くそ——お嬢の助太刀がなけりゃ、今頃俺が脱落してたぜ」
拳が振り抜かれる、寸前。フローラの放った魔弾が、従者の脇を縫い、ルシウスの横腹を撃った。その一撃が男の動きを凍らせ、サイードはかろうじて命脈を拾った。数秒前の光景を、彼はそう反芻する。
もう一度、フローラの方を仰いだ。
「なんて顔してやがるんだ、お嬢。あんたのおかげで、俺はまだ倒れずに済んでるんだぜ」
軽口を叩いてみせる。だが、その体もまた、立ち上がる算段がつかぬほどに削れていた。
回復が追いつかない。今すぐ動けば、逆に膝が笑って無様を晒すだろう。
ならば、と両足の神経へ意識を巡らせる。
互いに肩で息をしながら、睨み合う二人。
これは、先に立った方が勝つ。ただそれだけの、単純で残酷なゲームだ。
サイードは内心でそう結論づけ、微動だにせぬ相手の一挙手一投足を、まばたきも惜しんで見据えた。
♦︎
一方、フローラの胸には、辛うじて間に合ったという安堵が、細く滲んでいた。
サイードを救えた。あの一瞬、指先が半拍でも遅れていれば、従者は今頃地に沈んでいた。
だが、安堵に浸る猶予など、どこにもない。
視界の端では、木陰に身を潜めた赤毛の少女が、こちらの隙をただ一点、狙い澄まして待っている。フローラの張り巡らせた弾幕だけが、その突進を辛くも押し留めていた。
この数の魔弾を、途切れさせず宙に維持する。それがどれほど神経を焼く作業か。
術式の一つひとつに意識を配り、軌道を編み、密度を保つ。ほんの一瞬でも気を逸らせば、雨の目が緩む。緩めば、あの少女は間髪入れず駆け出すだろう。
サイードの元へ駆け寄りたい。その衝動が、喉元までせり上がってくる。
距離だけを見れば、フローラの方が二人にずっと近い。だが、身体能力では明らかにアサギが勝る。仮に同時に地を蹴ったとして、あの少女の方が五秒は早く彼らへ辿り着く。
だから、動けない。
(信じて、待つしか——)
弾幕を絶やさぬフローラと、木陰から微動だにせぬアサギ。
剥き出しの膠着が、そのまま三分ほど、時を凍らせた。
均衡を破ったのは、もう一方の戦場だった。
中庭が、うねりを上げる。オーディエンスの喧騒が一斉に沸き立ち、空気そのものが震えた。
反射的に向けた視線の先で——地に沈んでいた二つの影のうち、片方が、よろめきながら身を起こそうとしていた。
その輪郭を認めた瞬間、フローラは思わず唇を噛む。
「……バケモノですかッ!?」
立ち上がったのは、ルシウスだった。
全身は傷だらけで、足元は今にも崩れそうに揺れている。それでも、その両足は確かに地を踏み、天蓋を目指してまっすぐ伸びていた。
「サイード!!」
もう、堪えきれなかった。
フローラは反射的に、弾幕の一部をルシウスへ向けようと術式を撓める。
その、刹那。
「——俺に構うな、お嬢ぉ!!!」
従者の喉から、渾身の咆哮が迸った。
声に呼応するように、サイードもまた、ゆっくりと膝を伸ばしていく。冷や汗を滴らせ、朦朧とした足取りで、しかしその背だけは、確かに真っ直ぐと天へ伸びていた。
「お嬢は、お嬢のやるべきことを! ステラフォルは——今、俺が、ここで、下す!!」
その背を見て、フローラの脳裏を、遠い日の光景がよぎった。
一人前と呼ぶには程遠く、魔術の腕もからきしで。それでも折れることだけは知らなかった、あの頃の少年。今も、何ひとつ変わっていない。鋼のようなその意志を前にすると、心が、否応なく奮い立たされる。
「約束ですよ」
「約束だ」
戦場のただ中で、二人は改めて誓いを交わす。
視線が、交差する。
——その一瞬。
サイードの瞳が、まん丸に見開かれた。
「お嬢! 前だ!!」
警告に弾かれ、フローラはハッと正面を振り返る。
だが、その時にはもう。
彼女の全身は、大きな影に飲み込まれていた。
「っ」
逡巡は、なかった。
考えるより早く、フローラは左脇へと大きく跳び退く。
次の瞬間、たった今まで自分が立っていた地面へ——根ごと引き抜かれた一本の樹木が、轟音を上げて叩きつけられた。
あと一秒、反応が遅れていたら。太い幹の下敷きになっていたのは、他ならぬ自分だった。
微かな安堵が胸の奥に滲む。同時に、ひとつの疑問が浮かぶ。
——この木は、一体どこから飛んできた?
問うまでもなかった。答えは、ひとつしかない。
「アサギ・オウサカぁぁ!!!!」
烈風のごとく中庭を端から端へ駆け抜けていく赤毛の少女。その姿を捉え、フローラは彼女の進行方向へ、先刻を上回る分厚い弾幕を叩きつける。
「くっ」
だが、アサギは止まらない。
少女が見据える先では、二人の少年が——ルシウスとサイードが、再び衝突しようとしている。あそこへ彼女が飛び込めば、自分の相方に勝ち目はない。
止める。何が何でも、ここで止める。
フローラは歯を食いしばり、魔弾の出力をさらに引き上げた。オーバーアタックすれすれの猛攻。それでも、アサギは日和ることなく突き進む。
「止まって!!」
フローラの唇からこぼれた、切実な願い。
しかし、それが叶うことは——なかった。
どちらからともなく、拳を振り上げるルシウスとサイード。二つの拳が交わろうとする、その一点へ。
最後の弾幕を避け切ったアサギが、思い切り地を踏み込んだ。
そして。
「どりゃぁぁぁぁぁあああああああ!!!!!!」
間の抜けた掛け声とともに、彼女は容赦なく、
———ルシウスの脇腹目掛けて、飛び蹴りを叩き込んだ。
茜色の魔力を帯びた一撃。ルシウスの体は、面白いほど呆気なく吹き飛ばされ、地を離れ、中庭を横一文字に横断していく。
「へ?」
「は?」
「ん?」
「……」
「「「「「えええええ!!??」」」」」
ギャラリーの頭上を越え、廊下の壁面へ背中から埋まったルシウスを見つめて。
フローラが、サイードが、観覧席のレオニスが、レグルスが、そして中庭に居合わせた生徒の全員が——一様に、驚愕の叫びを上げた。
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